第28話 嫉妬

 それからというもの、メリザンドは三日と空けず歌劇場へと足を運んだ。

 王を伴ったのは最初の数回だけで、あとは懇意にしているご婦人方を引き連れての訪問となった。


 メリザンドが王族専用席の柱の陰から姿を現すたび、観客たちの視線がわっと突き刺さるのにはすぐに慣れた。


 ヴィクトワールと並んで桟敷の手すりにもたれかかったときなんて、痛快ですらあった。

 もうすぐ幕が上がるというのにちっともどよめきが消えず、芸術鑑賞を第一目的としている平土間ひらどま席の客さえも立ち上がったまま、揃いの衣装を身に着けた女二人に注目していた。


 王の寵姫とその妹が姉妹のように仲良くしている光景なんて、前代未聞のことだったのだろう。


 けれど人々もいつまでもメリザンドを見つめているわけではない。劇の進行に伴って、他へと興味を移していく。

 だからメリザンドも、自分が興味を持つことに注力できるというわけだった。

 おしゃべりだったり、食事だったり、客席の観察だったり……。


「ねぇプルヴェ夫人、リュシアンさまの隣にいらっしゃるご婦人……いったいどこのどなたでしょう?」


 オペラグラスを覗きながら尋ねると、夫人もすぐにグラスを構え、同じ方向を確認してくれた。


「あれはたしか、ガロワ男爵夫人です。あまり親しくはありませんので、どのような方かはわかりかねます」

「そうですか……」


 桟敷ボックス席の手すりに身を寄せていたメリザンドは、胸の奥のモヤモヤした思いを、嘆息という形で外へ吐き出した。


 オペラグラス越しのリュシアンは相変わらず美しかった。肩の上で切りそろえた銀髪も、澄んだ緑色の双眸そうぼうも、メリザンドが憧れを抱いていたときとなにも変わらない。


 けれどその彼が言葉を交わしているのは、見知らぬ貴婦人。リュシアンになにか話しかけられるたび、扇で口元を隠して上品に笑っている。

 唯一の救いは、彼女がお世辞にも若いと言えないことだった。おそらく、メリザンドの母よりもずっと年上だろう。


 それでも複雑な思いが胸を焦がす。

 たった一度でいいから、リュシアンにエスコートされて歌劇場の大階段を上りたかった。一度でいいから、ああして一緒に歌劇鑑賞をしたかった。美しい横顔を間近で眺め、おしゃべりして笑いたかった。

 バルテ侯爵夫人である自分にはその権利があるはずなのに、どうしてそれが叶わないのか。


 ──わたしったら、なんて愚かなことを考えて……。


 恐れ多くも一国の王に愛され、こうして王族専用席から客席を見下ろす権利を行使しているというのに。


「メリザンド……バルテ侯爵のことが気にかかりますか?」


 気遣わしげなプルヴェ夫人に、メリザンドはなんでもないというふうに微笑んでおいた。


「バルテ侯爵でしたら、最近はいろいろなご婦人との噂を聞きますわよ」


 会話に割り込んできたのは、サンカン夫人だった。

 後方の席でヴィクトワールたちとカードゲームに興じていたはずだが、負けが込んで一抜けしてきたのだろう。

 まさか話を聞かれているとは思わず、メリザンドは己の油断に内心で歯噛みした。


「貞淑で名の知れたガロワ夫人も、『銀の貴公子』のお誘いは断れなかったようですね」


 オペラグラスを覗きながら口元を緩めるサンカン夫人。


「バルテ侯爵はあちこちのご婦人に声をかけて、積極的に社交界に顔を見せているようですわ」

「まあ、そうですの」


 メリザンドは、サンカン夫人の事情通ぶりにいたく感心したように相槌を打つ。

 話を聞かれてしまった以上は、夫に未練があると悟られたままではいけない。


「ねぇサンカン夫人、わたし、リュシアンさまとは形だけの結婚だったものですから、あの方のことをなにも知りませんの。いろいろお聞きしてもよろしいかしら?」


 メリザンドは慎重に言葉を選んだ。

 メリザンドがリュシアンを気にしていたのは未練ゆえではなく、あくまで『未知なるものへの好奇心』であると認識させておかなくては、余計な噂を立てられかねない。


「わたくしにわかることでしたら、なんでもお答えしますわ」


 サンカン夫人の浮かべた笑みは優雅なものだったが、おしゃべり欲を満たせる喜びが滲み出ていた。


「陛下とリュシアンさまが幼馴染だというのは本当なのですか?」

「ええ、先々代王弟のワロキア伯が実に教育熱心な方で、国内外問わず、貴族の子弟らを集めて勉学や剣などを教えていらっしゃったのです。そこに、若き日の陛下とバルテ侯爵も参加されていて。

 若き日のお二人は飛びぬけて優秀だったそうですわ。でも、バルテ侯爵が常に一歩先をいってらっしゃったとか」

「リュシアンさまったら、なんて不遜なの。陛下に花を持たせて差し上げるという気持ちはなかったのかしら」


 口先では王の肩を持ちつつ、内心ではリュシアンの能才に舌を巻いていた。

 そんな男の妻になれて誇らしいとさえ感じるが、これは決して表に出してはならない思いだ。それを隠すため、口から出す言葉もつい辛辣になってしまった。


 そしてそれは、サンカン夫人にとってたいそう痛快だったようだ。紅を引いたくちびるが、きゅっとつり上がる。


「陛下が貴女を公式寵姫に選んだのも、バルテ侯爵への対抗心からだという噂がありますわ。もちろんわたくしは、陛下がずっと以前から貴女に思いをお寄せだったことを知っていますが……。

 けれど噂とは恐ろしいもので、バルテ侯爵は妻を早々に寝取られた男として、すっかり宮廷で面目を失ってしまったのですよ。

 ならば所領に引っ込めばよろしいのに、王都で気ままに女性遍歴を重ねていらっしゃるようで。いったいなにを考えているのやら……」


 言葉の端々に、リュシアンへの侮蔑が見え隠れしていた。どうやらサンカン夫人は、あまりリュシアンのことが好きではないらしい。もしかすると、誘いを無下に断られて屈辱と怒りに身を焼いた経験があるのかもしれない。


「あらまあリュシアンさまったら、面の皮の厚いこと」


 サンカン夫人の調子に合わせ、罵倒し、笑い飛ばしておく。しかし胸中は複雑だ。

 リュシアンが『寝取られ夫』のそしりを受けているのは知っていたが、そのせいで宮廷での居場所を失くしてしまったとは。


 ──どうして噂を訂正しないのかしら。わたしとは形だけの結婚だったと声高に主張すればいいのに。


 有象無象が流すくだらない噂なんて、歯牙にかけるほどのものではないということか。


 ──さすがリュシアンさま、泰然と構えていらっしゃる。でも、浮名を流していることは許しがたいわ!


 そんなふうに嫉妬する権利なんて、メリザンドにはこれっぽっちもないのだとわかってはいるが……。


「ほらメリザンド、エロイーズのアリアが始まりますわよ」


 プルヴェ夫人の声に、メリザンドもサンカン夫人も舞台へと向きを変える。

 他の桟敷席でも、おしゃべりや飲食、あるいは遊興にふけっていた観客が一斉に口を閉じ、手を止め、耳を澄ませていることだろう。


 国立歌劇場が誇る歌姫エロイーズが高らかに歌い上げる恋の歌は、あまりに奔放で情熱的。第一幕最大の聴きどころだ。

 歌唱の最後にバラの花を投げ捨てるのだが、それに合わせて盛大な歓声と拍手を送るのがお決まりになっていた。

 やるせない思いに囚われたまま、盛り上がる場面を見過ごしてしまうのはあまりにもったいない。


 歌が終わり幕が下りたあと、リュシアンのいた席をちらりと確認してみれば、もうそこには別の男が座っており、ガロワ夫人と楽しそうにおしゃべりをしていた。

 オペラグラスのをきつく握りしめながら客席中を眺め回してみたが、どこにもリュシアンの姿はなかった。

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