第20話 リュシアンへの想い
屋敷へ戻ったメリザンドを迎えたのは、家令だけではなかった。
リュシアンが腕組みして階段の手すりにもたれかかっており、なにか言いたげにこちらを眺めていた。
偶然部屋から出てきたというより、馬車が到着した音を聞いて待っていてくれていた、という風体である。
しかし、相変わらずニコリともせず、緑の双眸にはほんのわずかな温かみすらない。
──
メリザンドは小さく息を吐いた。
「心配は不要です。あなたに恥をかかせるようなふるまいは、決してしておりませんので」
「……そうか」
先手を取って口を開くと、リュシアンは静かに目を伏せた。
このまま彼の横をすり抜けて自室へ戻ろうかと迷ったが、念のため、『あのこと』を報告しておこうと思い至る。
「そういえば、宮廷ではこんな噂話が流れておりました。リュシアンさまは国王陛下に妻を寝取られたのだと。まったく、くだらな……」
「くだらないな」
吐き捨てるようなリュシアンの物言いに、メリザンドはびくりと身を震わせる。
「有象無象の愚か者たちのように、そんなくだらない噂を真に受けたのか」
「な……ちが……」
「宮廷で生活していくのなら、流言飛語に惑わされぬようにしろ。噂好きの、頭の弱い女だと思われる」
氷の刃のような言葉が、メリザンドの心をえぐっていった。しかしそのまま打ちひしがれたりはしない。血が激しく沸き立ち、きりきりと
「夫のある身で、他の男性になびいたと思われている時点で、周囲はわたしのことを『とびきり頭の弱い女だ』と
感情のままに叫んだあと、はっとして相好を正した。口元に淑女然とした笑みをたたえ、何事もなかったかのようにリュシアンへと告げる。
「おやすみなさいませ、旦那さま」
「……ああ」
てっきり無視されると思ったが、短いながらも返事があったことには驚いた。
だがこれ以上交わす言葉も見つからない。メリザンドはさっさと階段を上り、自室へこもった。
──わたしの馬鹿。あんなひとのことなんて、知らんぷりすればよかったのに。
女中たちに就寝の支度をさせながら、激しい後悔に苛まれる。
余計なことを言おうとするのではなかった。
リュシアンだって、もっとメリザンドの話に耳を傾けてくれたってよかったのに。
本当なら、『こんな噂が流れているのですが』と警告して、『まったくくだらないですわね』と笑い飛ばす予定だった。
そしてリュシアンにも、『ああ、くだらないな』と一笑に
夫婦として最初から破綻していたにもかかわらず、
──でも、リュシアンさまも馬鹿だわ! わたしをダシにして甘い汁を吸いたいなら、わたしにもっと優しくするべきでしょう!
そんな子供じみたことを思いながら、寝台へ向かうと……。
寝台脇のテーブルに、深紅の椿が一輪だけ飾られていた。大輪の花は寝台の方を向いており、これから就寝するメリザンドを見守ろうとしてくれるようだった。
──偶然、よね。
女中が花瓶を無造作に置いた結果、こうなっただけだろう。しかし、国王から花の贈り物があるのは久方ぶりだ。
──たった一輪だけ、というのも
メリザンドは寝台に潜ったあとも
──本来なら、わたしがリュシアンさまに媚びないといけないんだわ。陛下の寵愛がいつまで続くかわからないんだもの。お役御免になったあと、わたしはリュシアンさまの元に戻らなくてはならない。そのとき、少しでも温かく迎え入れてもらえるようにしないとダメなんだわ……。
『公式寵姫』なんて、しょせんは都合の良い愛人。王が心変わりすれば、そこでおしまい。
だからメリザンドは手紙を書くことにした。リュシアンに向けて、己の想いを記した
ずっと以前、歌劇場で見かけたときから憧れていたこと。
結婚が決まったとき、本当に嬉しかったこと。屋敷で一人待つ間、ずっと想っていたこと。
上辺だけでも、仲良くしたかった。
いつか公式寵姫のお役目を解かれることがあったら、笑い飛ばしてくれて構わない。夫婦に戻ろうなんて望まない。
ただ、今よりほんの少しだけでいいから、
結婚した以上は、死がふたりを分かつまで夫婦なのだから。
こんな感じのことをしたためた手紙を、家令へと託した。メリザンドが王宮へ発ったのちにリュシアンへ渡してくれと。
封さえ開けず、破り捨てられるかもしれないけれど。
それでもメリザンドの心情の一部でもわかってくれたらいいな、とわずかな望みを抱いて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます