2024年 秋 高木文乃
呼び鈴が鳴る。しかし応答はない。もう一度呼び鈴を押す。それでも応答はない。
やはり何かあったのではないかと、思案を巡らせる。葬式で平気そうにしていたときから、どこか異変を感じていたのだ。ひまりは大丈夫だと言ったが、それでも心配なものは心配だ。
母親として、娘が苦しんでいたら手を差し伸べなくてはならない。
もし何もないならそれでいい。それが一番だ。しかし何かあってからでは手遅れなのだ。
もう一度呼び鈴を押しても何もない。扉をドンドンと叩く。
「ひまり? いたら返事して?」
その声にも応答がない。時刻は午後七時を回ったところ。買い物に行っている時間帯でもないだろうし、仕事を休んでいるひまりなら、今の時間は家にいるだろうと予想してアパートを訪れた。
何度も呼び鈴を鳴らすが、それでも応答がないので、やはり何かあったのではないかと思ってしまう。
ポケットから合鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。思っていたより焦っていたらしく、鍵を差し込むのにも苦労した。そうしてひまりの部屋へと入っていく。
今は一人暮らしのはずなのに、玄関の靴は綺麗に三人分用意されていて、それが妙に不気味に思えた。部屋にはごみが散乱している。ほんの少し生ごみの香りがして、思わず顔をしかめた。
「ひまり、いるの?」
手探りで電気を付けた。しかしひまりの姿はどこにも見当たらない。やはりどこかに出かけているのではないかと、一瞬安心したが、三人分の靴があるということは家の中にいるのだろう。
あと考えられる場所は、トイレか風呂の二択だ。
ふと、空気が湿っていることに気づいた。それだけではない。どこか鉄臭いような、いいや、それは血の匂いだ。
嫌な予感がした。風呂場の扉は閉まっていた。
「ひまり!」
勢いよく開ける。風呂場には水が張られており、その水は赤く変色している。床には包丁が落ちている。そしてひまりが浴槽に倒れこむようにして、力なくもたれかかっていた。
急いで駆け寄る。足元は水に濡れていて、靴下が染みた。
「マ、マ……」消え入りそうな声で言う。
少し笑った。薄っすらと開いた目が、こちらを見ていた。表情からは感情を読み取れない。
「何してるの!」
ひまりの身体を、浴槽から引き揚げる。左手首には横に赤い線ができていて、ひまりが何をしようとしたかを物語っていた。
水を含んで重たくなったひまりを、五十代近い女性一人で持ち上げるなんて、少し無理があった。それでもひまりは大切な娘だ。力を振り絞って、どうにか洗面所まで運んで、小さな子供のように介抱して横にした。
ひまりは「ごめんなさい」と、何度も謝った。
「やっぱり、死にたくない」
涙を流して言う。
今まで寂しさや悲しさを感じることのできなかった分、何かの拍子で一気に襲い掛かってきたのだろう。ひまりには耐え切れなかったのだ。
それから救急車を呼んだ。
幸い傷は浅く、致命傷に至るほどではなかった。しかし跡は残るらしい。可愛い我が子に一生の傷が残るのは嫌だったが、ひまりの命が助かっただけで十分だ。
今は大切な娘の無事に感謝をしよう。
*
「頼れなくてごめん。迷惑かけたくなかったの……」
ひまりは母親に、口をほとんど開けずにそう言った。俯いて髪が垂れ下がり、表情を隠している。しかし今のひまりがどんな気持ちか、言葉にしなくても、誰が見ても分かる。
自殺未遂をしたひまりは、母親の手によって実家に連れていかれた。馬鹿なことをしたと思う。あの時、写真を見てしまって、どうしようもなく現実を叩きつけられて、逃げ出したくなった。
自分でも制御できなくなって、自殺未遂のところまで到達してしまった。でも、本音では死にたくなかったから、包丁を深くは刺さなかったのだろう。しかし、あのまま一日水に浸しておけば死んでいたかもしれない。母親が来てくれて、本当に命を助けられた。
懐かしい家のリビングで二人きり、内山さんと灯花は仕事と学校で家にはいない。それがまるで、引きこもっていた頃の自分を思わせた。
昼下がりの家は太陽の影になり、少し薄暗い。一番気温が上がる時間帯なのに、少し肌寒さを感じた。本格的に季節が移ろうとしているのだろう。
長い沈黙の後、母親は言葉を選んで語りだした。
「頼るとか頼らないとか、そんなのはどうだっていいんだよ」
その声色はひどく落ち着いていて、ひまりは母親には愚行を咎める気はないのだと悟る。命があってよかったと、心底思っていることが伝わってきた。
「ママはね、ママだから娘の幸せを願うのが当たり前だと思ってた。でも、それが当たり前じゃないんだって気づいた。だってそれは未来が保証された前提の話だから、失うことを考えてない。娘の幸せを願うことができることは奇跡で、それが更新され続けているのが日常なんだね。五十も近いけど、ママもようやく気付いたよ」
ひまりは俯いた顔を少し上げ、重たい口を開いた。
「ママでも、知らないことあるんだ……」
「ママをなんだと思ってるの」
母親は今日、初めて笑顔を見せた。
「ママも一人の人間だから、知らないこといっぱいだよ。こうしてひまりに教えてもらうことばっかりだし」
「そっか、そうなんだ」
家族がいる幸せを理解していたつもりだった。でも、自殺をしようとして、母親からも幸せを奪ってしまうところだった。そう考えると、さらに申し訳なさが増してくる。
「ママは、ひまりがいてよかったと思ってるよ」
テーブルの向こうから手を伸ばして、ひまりの手を包み込んだ。
「大変かもしれないけど、また一から歩き出そう。ママがいるから」
自分はとんでもない親不孝者だ。こんなにも自分を想ってくれる人がいるのに、その人を裏切ろうとしたのだ。子供の頃からずっと、自分のせいで母親は幸せを損してきた。
三歳の頃に離婚して、シングルマザーの負担をかけさせた。人との関わり方が分からなくて、余計な心配をかけた。引きこもって、過度に心配させた。負担を増やしてしまった。それは全て、自分のせいだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい。昔からずっと、迷惑ばっかりかけて……」
「それが子供だよ。親にとって、子供は迷惑かけてなんぼなんだよ。逆にひまりは昔から、一人で何でもできちゃったし、ママの手なんか要らないくらい立派だった。それに、ひまりが思うほど悪いことばかりじゃないよ。ひまりのおかげでママは幸せになれた。考えてみてよ。ひまりがいなきゃ灯花はいないし、内山さんもいない。ひまりが保育士を目指すことも無かっただろうし、もしかすると凛くんとも出会わなかったかもしれない。言い出したらきりがないけど、少なくともひまりのせいで悪いことが起きたなんてことは、一度もないんだよ」
「……じゃあ、三歳の頃に離婚したことは? シングルマザーになっちゃったことは? 私のせいだよね?」
ひまりの問い詰めるような視線に、母親は黙って首を横に振った。そして何かを決意したように深く息を吐いてから、口を開いた。
「実はね、ママはデキ婚だったの。だから離婚するのも当然だったというか、あの人の顔ももう覚えてないしね」
と笑顔で言う。
「ママは大抵の人の考えてることは、何となく分かるんだ。でも、たった一人、それが通じない人がいた。それは高木ひまりっていう子なんだけどね、本当に何を考えてるか分からなかった。だから人として、親として、どう振舞えばいいか分からなかった。どうしようか考えてるうちに、どんどん遠のいていっちゃって、親失格だと思った。何もしてやれなくて、物理的に支えてあげることくらいしかできなかった。そんな私でも、ひまりのことは大好きだった。私がこんなだから、ひまりは心を開き切ってくれないんだろうな。でもいつか『家族』になれたらいいなって思った。私のせいで、この子が不幸になることだけはあっちゃいけないと思ったの」
そこまで聞いて、ようやく気づいた。自分たちは互いを大切に思っていたのに、大切な何かを忘れて、気持ちが行き違っていた。たった一言、言葉を伝えればそんなにまで考え込む必要も無かったかもしれないのに。
それから続いた母親の言葉は、どこか謝罪めいていた。
親らしいことを何もしてあげられなくてごめんなさい。引きこもっていたとき、寄り添ってあげられなくてごめんなさい。――何かを隠していることは知っていたけれど、それで苦しんでいることは誰よりも知っていたけれど、何もできなくて、本当にごめんなさい。
ひまりは母親を、完璧な人だと思っていた。しかし違った。完璧でなんかなくて、ずっと悩んでいる普通の人だった。でも娘のことを第一に考えてくれる、最高の親に違いない。
だから――私はあなたに憧れたのだろう。
立ち上がって、母親の背中に手を回して抱き合った。
ごめんなさいとありがとうが混ざり合った涙が、ぽろぽろと零れる。
「少しずつ、一緒に前を向こう」
母親の言葉に、大きくうんと頷いた。
――すぐにでも、自分についてを語るべきなのだろう。
でも今だけは、理解し合えた喜びに浸っていたかった。
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