2024年 晩夏 齋藤ひまり
それからはあっという間に進んでいった。
葬式は気づかないうちに終わっていた。
参列者は知らない人ばかりだった。きっと凛の知り合いだろう。喪主は必然とひまりが請け負ったが、まるで普段の仕事のように事をこなし、普通の人なら憔悴して手間取る作業も手早く済ませた。
その結果、参列した人のほぼ全員から、「旦那と娘が死んでも一切悲しまない、薄情な女」と呼ばれた。
本当に何も思わなかった。
凛と美桜が二人で少し遠くに出かけているような感覚で、数日後にはふらっと帰ってくる、そういった根拠のない確信があった。だから平然としてられた。
そうして葬儀は終わった。
ひまりは薄情な人間とラベリングされたが、そんなことは別に気にならない。誰から何と言われようと、どうだっていい。慣れたことだ。
そうして凛と美桜の死を悼む日は終わった。
凛と美桜のいない日常が訪れた。だというのにやはり、ひまりは何も感じなかった。いつも通りという言葉が最も似合う。
しかし、死後の手続きなどの影響で、一旦保育園は休職させてもらうことにした。
手続きというものは想像以上に面倒で、よく分からない書類に適当に幾つもハンコを押して、さらに別の業者から似たような話を聞く、といったことを繰り返す。仕事をする暇もないほど手続きが多いため、母親にも手伝ってもらった。
保険だとか、相続だとか、裁判だとか、正直知らない。そんなものはどうだっていい。
しかしハンコを押さなければ、終わらないと言う。だから仕方なくハンコを押すと、業者は満足げな表情で家を出ていく。
彼らは遺族に寄りそう気なんてさらさら無く、ただ業務ノルマを達成したいだけなのだろう。でなければ、こんな強引に話を進めたりしない。
諸々の手続きが終わった頃には、一か月が経過していた。
寂しくはあるけれど、未だ凛と美桜がいなくなったことを信じられない。明日の朝にでも、「ただいま」と元気よく帰ってきそうな雰囲気があった。
*
夕暮れ。適度に温かい気温が、夏の終わりを感じさせる。
路傍にひっくり返って鳴いている蝉が、ひどく耳障りだった。聞こえないふりをするように、早足でその場を立ち去る。
買い物袋を片手に、帰路に就く。
十分ほど歩くとアパートが見えた。錆びた階段を登り、額に汗を滲ませて玄関の戸を開ける。
「ただいま」
自分の声だけが響く。
あぁ、そっか。二人は死んじゃったんだ、と思い出す。
「余計に買ってきちゃったな」
乾いた笑みで、一人きりの部屋に呟いた。
カーテンを閉め切り、真っ暗な部屋は玄関から入り込んだ夕陽によって照らされる。そこには散乱した郵便物と、結んだゴミ袋が幾つもあった。心なしか生ごみのような匂いもする。
ひまりはしゃがんで、散らばったスニーカーを揃えながら言う。
「仕方ないよね、買い過ぎて腐っちゃうんだから」
そう、これはいつものこと。
これが日常。
玄関の戸を閉じた。そうしてひまりは、再び三〇五号室へと入っていく。
ここはかつての聖域のようなものではないけれど、ひまりにはこの部屋が心地よく思えた。だってここは、家族三人の住まいだから。
それを嫌に思うなんてことは、反抗期によくある、一時の気の迷いのようなものだろう。
作りすぎた料理を処理していると、机の上のスマートフォンが鳴った。
皿を置き、揺れるスマートフォンを手に取る。母親からの着信だった。
十分近く他愛のない話をした。きっと自分を心配してくれたのだろう。「家に帰ってきていいよ」と言ってくれた。しかし今のところ、特に困ったこともないし、一人でいた方が時間も自由に使えると考え、その提案を断った。
「本当に大丈夫なの?」と念を押されて訊かれたが、同じように念を押して「本当に大丈夫だよ」と返した。すると母親は心配しつつも「そっか」と言って笑った。
『辛くなったら頼ってもいいんだよ。私はひまりのママなんだからね』
電話を切る直前の母親の言葉が、残響のように頭の中に残っていた。
*
復職は先送りにして、家で引きこもりのような生活をしていた。
数日に一回、食料や必需品を購入するために家の外に出る。それ以外はずっと家の中に籠ったまま。特に何をやるわけでもない。
それは奇しくも、生前の秋村翔太と同じような生活だった。
一体なぜだろう。今までの人生の経験から、それは社会的に良くないことであるのは分かっている。それでも、前に進もうという気が起きないのだ。
それはきっと、まだ二人がいなくなったことを実感できていないからなのだろう。
目を覚ますとすぐそばにいるような気がして、家でだらけた生活をしていると、高校の時みたいに凛が手を差し伸べに来てくれる気がして、美桜が構ってと泣き声を上げてくれる気がして。そんなありきたりな日常をありきたりのままにしたくて、
目を背けるように眠る。
時間が経過し、少しずつ、受け入れざるを得なくなっているのだ。
夢の中で、声がした。
ひまりは声を発することができなくて、視点がまるで神様のようにふわふわと浮いていた。
見える景色が黒一色だったから、初めはそれを悪夢と勘違いした。しかし目を凝らしてみると、まるで壇上の幕が上がったかのように一面に恒星が煌めいたから、それが悪夢ではないと理解した。
夢は自分の内面を映し出すという。なら、この景色は、何を伝えたいのだろう。
しばらくその夜空を見つめていると、見知った星があった。それは一つでは成り立たない星で、三つ揃って初めて名乗れる。ひまりのよく知る星だ。
『あれがベガ、アルタイル、デネブなんだ』
声がして、その方向を見ると、小さな児童公園のベンチに肩を寄せ合って座る夫婦と、抱きかかえられた子供の姿があった。ここからでは顔を視認することができないが、その三人が少し前自分たちであることはよく覚えていた。
そしてその答えも。夏の大三角形だ。
しばらくして、その女は考える。夏の大三角はまるで自分たち家族のようだと。
雲が星を覆った。アルタイルだけが、夜空に取り残されてしまったように見える。強烈な寂しさを覚えて、ひまりは雲に隠れたベガとデネブを線で繋いだ。それから、取り残されたアルタイルとも線を繋ぐ。
そうして夜空には、大三角が形成された。
そこで、夢は途切れた。
勢いよく布団を剥ぐ。カーテンの向こうから漏れる光は、今が朝であると示していた。
夢を見るなんて、いつぶりだろう。どんな夢だったかはよく覚えていないが、嫌な夢ではなかったことは確かだ。
突然、強烈な空腹感を覚えて、身体を強引に起こす。
冷蔵庫は空で、シンク下にもカップラーメンは入っていない。
スマートフォンに手を伸ばして、時間を確認してみると午前九時四十五分。ここからスーパーは徒歩二十分ほどなので、今から出れば丁度いい。
平日だし、どうせ空いている。乾いた喉をそのままに、ひまりは寝間着姿のまま、町へと繰り出した。
秋の町は一見すると、夏の風景とは変わらないように見える。しかし夏とは違った快適な気温が、どこか寂しさを感じさせ、それが秋の到来を告げる。
平日の午前。すれ違う人は老人ばかりで、彼らからは訝しげな眼を向けられた。この服装のせいだろう。無視して足を進めていく。
スーパーでは、カップラーメンではなく袋麺を購入した。その方が買い物に出かける周期を伸ばすことができると考えたからだ。
エコバッグに詰められる分だけ購入して、スーパーを後にする。
帰り道は少しだけ、家が遠く感じた。
今日はやけに周囲の音が耳に入って、思わず足を止めてしまいそうになる。公園で遊ぶ子供の声と、それを窘める母親の声と、それを見てにこやかに笑う老婆。
幸せそうだなと、思ってしまった。
少しだけ眺めてから、その場を後にする。
丁度一軒家の間からアパートの姿が見えたとき、すれ違った親子の楽しそうな声が耳を突き抜けた。母親がまだ一歳に満たない子供をベビーカーに乗せて歩いている。そんな何気ない姿に思わず見入ってしまう。
「あ、あの。どうかしましたか?」
その人物は、困ったように笑って言った。
ひまりは小さく「ごめんないさい」と言って、逃げるようにアパートまで走った。
少し前までの自分は、そんな風に幸せそうな表情をしていたのだろうか。
暗い部屋は少し熱が籠っていた。汗を滲ませて部屋に戻ったひまりは、袋麺で詰まったエコバッグを適当に投げ捨て、そのまま布団に正座した。
そしてポケットからスマートフォンを取り出した。ロックを解除して、写真のアプリを起動する。
写真フォルダーを一番上までスクロールして、一枚一枚写真を見ていく。
途端、涙が溢れて止まらなくなった。
そこには家族の思い出が溢れていて、
確かに家族がいた記録が残っていて、
楽しかった、辛かった、大変だった、苦しかった、でもやっぱり楽しかった記憶を思い出させた。
文化祭の写真、バイト先での写真、ぶれたツーショット写真、大学の入学式の写真、短大の入学式の写真、一緒に買い物に行った時の写真、母親と凛の写真、初めて入居したときの写真、料理をするひまりの後ろ姿の写真、初めて凛が作ったベタベタな炒飯の写真、ひまりの寝顔の写真、妊娠を知らせたメールのスクリーンショット、お腹が膨らんだひまりの写真、産まれたばかりの美桜の写真、病院で撮った二人の家族と美桜の写真、美桜が心地よさそうに眠る写真、美桜が初めて立った時の少しぶれた写真、美桜が「ママ」と言う映像、クッションに顔を挟める美桜の写真、それを真似する凛の写真、口に米を付けた美桜の写真、水族館に向かう凛の運転姿の写真。そして、
「あれ、こんなのも撮ってたんだ……」
写真フォルダの最後の一枚は、水族館でペンギンを見るひまりと美桜の写真だった。凛がこっそりと撮ってくれたのだろう。そこに映るひまりは幸せそうに笑っていて、美桜も同じように笑っていた。それを撮った人のことも想像する。
涙で視界が滲み、やがて堪えきれなくなって、布団に顔をうずめた。
「うあ、あぁぁぁぁぁ、っあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
どうしようもない感情を吐き出すために、全力で叫んだ。叫んだ。叫んだ。
もう戻らない。
もう二人はいない。
もう返ってこない。
もう――どうにでもなれ。
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