四章 後悔

2024年 夏 ???

 美桜が熱を出した。

 昨日歩き回った疲れからだろうか。聞いたこともないほど苦しそうな泣き声をあげたため、美桜の身体に異変が起きていると察知した。頭と頭を付けてみると、自分の体温の数倍もあるのではないかと思うくらいに熱かった。

「大丈夫そう?」

 心配そうに凛が訊いた。

「まずそう。病院連れて行かないとかも」

「そんな酷いのか」

 凛は心配そうな表情で、美桜の額に手を当てた。「本当だな」と頷く。

「どうしようか。私のママにお願いするのは……」

「ダメなのか?」

「ダメってことはないだろうけど、私の家族のことで巻き込むのが申し訳なくて」

「なら、俺が病院連れていくよ」

「え、大丈夫なの?」

「今日は特に楽な日なんだ。午前休んだところで問題ない」

「お願いできる?」

「頼ってくれ」と、凛は自信ありげに言った。

 そんなこと言わなくても、いつも頼っているのに。ひまりは心の中でそう呟いた。

 熱こそあるけれど、咳や嘔吐などの症状は見られない。熱中症ではないだろう。恐らくは水族館で風邪を貰ったか、疲労による発熱か。

 しかしまだ二歳にも満たない子供が熱を出しているというのに、大丈夫だと家に置いておけるほどひまりは薄情ではない。大切な家族の一員なのだ。限りなく可能性は低いが、大病だったらどうする。

 考え始めたらきりがない。

 そんな心配を察知したのか、凛が「俺に任せて、仕事に行ってきなよ」と言う。

 だから甘えて、というよりは信頼して、ひまりは職場に向かった。


      *


 その連絡が入ったのは、お昼寝の時間だった。

 午後一時、昼食を取り終えた子供たちは一斉に眠りにつく。その頃に、ひまりはようやく昼食にありつけた。泣きわめく子供を抑えているうちに、昼食の時間が終わってしまい、食べることが出来なかったのだ。

 午前に凛からのメールで、『美桜は何ともなかった』と知らされていたので、心置きなく仕事に集中することができた。

 事務室に入り、自分のデスクに座る。隣には瑞穂先生もいて、弁当を食べていた。ひまりと一緒に、泣きわめく子供の相手をしていたのだ。

「お疲れ様です」

 ひまりの言葉に、瑞穂先生は疲れたように会釈をした。

「いやぁ、大変だったね」

「ほんとですね」

「久々にあそこまでの相手した気がしたよ」

「私は初めてかもしれないです」笑って言った。

 昼間泣きわめいていた子供は、結局、一時間ほど暴れまわっていた。子供とはいえ、大人が一人で抑えられるようなものではなかった。瑞穂先生と二人がかりで、ようやく止めることができた。子供の力も侮れない。

「でもまぁ、あそこまで元気だと逆に安心しますよね」

「泣かなかったり、怒んなかったり、喋んなかったりする子もいるしね。でも心を開いてもらってるって思えば、先生として嬉しいけどね。あぁ、ひまり先生のところの子供はどう?」

「まだ一歳過ぎだから、何とも言えませんけど。まぁよく泣きますね」

「うちの子供は、産まれた時に泣かなくて焦ったなぁ」

 空を見て、思い返すように言った。

「あの時は私の心臓が止まるかと思ったよ」

 その話を聞けば、美桜は健康に産まれてきたのかもしれない。出産のときに苦労することはなかったし、疾病を抱えることもなかった。大きなアレルギーの一つすら持たずに産まれたのだから、美桜は幸運だったのだろう。

 瑞穂先生のような苦労話が思いつかなくて、少し申し訳ない気持ちになる。

「今はお子さん、どんなですか?」

「もうすぐ小五になるけど、クソ生意気だよ」

 言動とは裏腹に、楽しそうに笑った。

「私のことは蹴るし、テストは見せてくれないし、そのくせいっちょ前に彼女だけは作っちゃって。心配だよ」

「反抗期ですね」

 少し羨ましく思う。自分に反抗期が無かったため、その存在をよく知らない。しかし反抗期は成長の証でもある。いつか美桜が大きくなったときに、ほんの少しでもいいから反抗してほしい。ささやかなひまりの夢だった。

「でも、反抗期が来ると、なんか悲し――」

 瑞穂先生の言葉を遮るように、ひまりのスマートフォンが鳴った。手に取ってみると、そこには『高木文乃』と書かれていた。母親からの着信だった。

 誰も何も言っていないのに、何だか嫌な予感がした。何か、普通でない、と言っているようだった。

 そもそも、ひまりが仕事をしている時間帯に電話をかけてくる時点で、緊急を要することは明らかだった。しかしスマートフォンの画面をスライドするのが怖くて、そのままデスクに伏せた。

「電話、いいの?」瑞穂先生が訊いた。

「今、仕事は特にないし、出なよ」

「……じゃあそうさせてもらいます」

 その電話のマークを横にスライドすることで、憶測が事実になる気がして、怖かった。しかし瑞穂先生に言われた手前、着信拒否するわけにはいかなかった。

 恐る恐る、電話のマークを右にスライドする。

「もしもし……?」

『あ、やっと出た』

 電話越しの母親の声は、着信を鳴らし続けた割には酷く落ち着いていて、それが逆に不気味に思えた。まるで、現実ではないような。

「何かあった?」

『落ち着いて聞いてね。……凛くんと美桜が事故に遭って――』


 その事実を聞いても、落ち着いていられる自分が怖かった。


      *


 ――二○二四年、八月十一日


  享年二十三歳、齋藤凛はこの世を去った。


  享年一歳、齋藤美桜はこの世を去った。

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