2021〜2022年 夏 齋藤ひまり

 夏の匂い漂い始めたある日の事、内定も貰って安心しきっている凛と美桜を家に置いて、ひまりは一人で買い物に出かけた。いつも凛にサポートをしてもらっているのだ。たまには家でゆっくり休んでもらおうという、ひまりなりの気遣いだった。

 買い物といっても特に遠くに出かけるわけでもない。ただ、足りなくなった日用品や、今日の晩御飯の材料を買うくらいだ。

 久々にひまりが晩御飯を作ろうかと思った。スーパーの食品コーナーを一通り見て回って、どんな料理にしようかと考える。

 今日は特売でトマトが安いらしい。夏が旬だからだろう。トマトを使った料理と言えば、スパゲティやトマトスープなど色々考えられる。とりあえず籠に入れて、他の物も見てみる。

 すると二割引きの鶏むね肉を見つけた。チーズも加えて、トマトの鶏肉煮込みなんかどうだろうか。確か家に玉ねぎもあったから、それもいれよう。

 他にサラダなどを購入し、そうして晩御飯は決まった。

 重たいエコバッグを引きずりそうになりながら、歩いてアパートまで戻る。徒歩十五分とはいえ、荷物があり、更に日射しが体力を奪う。十五分が倍に思えた。

 大変な思いをして帰路に就いた。

 アパートの扉の前に立ったときには、服の下は汗まみれになり、脱水気味なのだろうか、ほんの少しだけ眩暈がした。

「ただいま」と扉を開く。

 外に流れ込んできた冷気が、火照ったひまりの身体を一瞬で冷やした。

 扉を足で抑え、エコバッグの重さに振られながら部屋に入る。

 部屋がやけに静かだった。いつもと違う雰囲気に、思わず妙なことを考えてしまう。

 まさか……。

 不安に思って玄関にエコバッグを床に投げ捨てて、部屋の中へ入っていった。

 そしてそれを見た。

 声は出なかった。

 ひまりは、その場に膝からゆっくりと崩れ、尻もちをついた。

 そこには、赤ちゃん用の小さな布団に気持ちよさそうに眠る美桜の姿と、きっとあやしていたのだろう、美桜の身体に手を置いたまま、隣でうつ伏せになったまま寝息を立てている凛の姿があった。

「……よかった」

 小さな声で言った。

 何かあったのかと思って、焦って走った自分が馬鹿みたいに思えた。凛が付いているのだから、そんなことは起きるはずがないではないか。

 胸を撫で下ろした。ふぅと、息を吐く。

 安堵のあまり、しばらくその場から立ち上がれそうになかった。

 何もなくて、本当によかった。


 その日の晩御飯は、凛が唸るくらいに会心の出来だったが、作りすぎてしまった。昼間の出来事を通じて、家族でいられることに幸せを感じていたからだろう。

 トマト煮込みということで、弁当にできるものではない。明日は三食全て、トマトで染まってしまいそうだ。

 でも、たまにはそんな日があってもいいなと思う。

 それは取り留めのない、しかし忘れることのない思い出になるだろうから。

 やがて二人が歳をとって、老後にのんびりと暮らすようになったとき、思い返すための思い出は幾つあってもいいのだ。


      *


 美桜が一歳を迎えた。

 世界一可愛い我が子は、どうやら天才だったようだ。

 誕生日を境に美桜は突然歩くようになり、また途切れ途切れではあるが、言葉も発するようになった。一歳で話すことができて、かつ歩くこともできる赤ちゃんはきっと天才に違いない。

 と、凛は言っていた。

 親ばかだ、と凛を笑いつつも、ひまりもどこかで天才とは言わずとも、同年代の中では優秀な子供になるのかもしれないと思っていた。

 出産から一年が経過したころには育休も終わり、ひまりは仕事に復帰した。

 改めて仕事の大変さと、お金を稼ぐことの意味を再認識した一方で、保育士という職業の認識が変化した。

 担当する子供たちのことを親目線で考えられるようになったため、どんなことが心配か、どんなことを希望しているのかが全て分かった。

 さらに子供一人一人のために働くことができるようになった。

 その結果、ひまりは子供たちに「ママ」と言い間違えられることが増えた。恥ずかしいことではあるが、親として思ってくれているのだから、悪いことではないと思う。

 そして「ひまり先生」は、「瑞穂先生」とも並ぶ、親の中でも人気の先生となった。

 一方、凛はというと銀行マンになった。

 実際は労働金庫であり、厳密にいえば銀行とは異なるのだが、営利を求めない金融機関というだけで、一般的には銀行と同じように見られているため、一応は銀行マンといえる。

 実は学生結婚をしたことで、一度出されかけた内定を取り消されたらしい。

 とある企業で、最終面接に現われた社長が古い認識の持ち主だったらしく、こんな若いうちに結婚しているのだから、遊んだり、不倫をしたりするのだろう。どうせデキ婚だと、偏見をそのまま目の前で語られたと言っていた。

 そんなときに受けたのが労働金庫で、採用官が、きっとあなたは責任感の持つことのできる素晴らしい人材だと、学生結婚を受け入れてくれたらしい。

 そんな経緯があって、凛はそこに決めたと言っていた。

 初めてでよく分からないことが多いだろうけれど、家族のためと、毎日頑張ってくれている。それは疲れ果てて帰ってくる凛の姿を見ればすぐに分かる。

 ひまりは仕事にも慣れ、育児を経験して体力がついたため、凛をサポートする側に回っていた。

 こうして互いを支え合っていると、家族を感じた。

 暖かな家庭が築かれて、これから色んな記憶を刻んでいくのだろう。

 今という一瞬を積み重ねて、やがて家族の絆となる。一年後にはどんな暮らしをしているだろうか。美桜はいつ彼氏ができるだろうか。反抗期はいつ来るだろうか。反抗期が来たらやっぱり少し悲しいのかもしれない。まぁそれは、体験してみないと分からないのだろうけど。

 そんなありきたりな、ひまりにとっての最高級の幸せを想像した。


      *


 鳴りやまない蝉たちの演奏と、うだるような暑さが夏の到来を知らせた。

 家の外に出れば汗が一瞬にして吹き出る。引きこもりでいたい季節だ。

 しかし今日に限っては、引きこもっていたくはない。計画をしたときからずっと、この日を待ち遠しく思っていた。

 玄関で先に靴を履いて待っているひまりは、ふと、何か忘れ物をしている気がして、必要なものを頭の中で数え始める。

 「えーっと、哺乳瓶は持った?」

 凛は靴を履きながら、空いた手を鞄の中に入れて探った。うんと頷いたから、きちんと入っているのだろう。

 ひまりの手元にはベビーカーがあり、美桜がすっぽりとはまっている。いつもの日々とは違う状況に、心なしか美桜の表情には期待が見えた気がした。

 今日は待ちに待ったお出かけの日だ。家族三人で水族館に行く。それは二人がずっと前から願っていたことだ。一年も経過して育児にも慣れ、ある程度落ち着いた。

 家族で出かけるには丁度いい時期だと考えたのだ。

 凛が靴を履き終える頃、玄関の扉を開いた。

 抑えられていた夏の香りが、一気に玄関に入り込んできた。その暑さと眩しさに、思わず目を細める。外は見るからに暑くて、玄関から一歩先へと進むのを一瞬、躊躇わせた。しかしその苦労の先の時間を考えれば、その足は驚くほど軽やかに進む。

「さ、行こっか」

 ひまりが先導して玄関を出た。

 水族館は涼しいといいねと、ベビーカーに乗った美桜に呟いた。


 凛が社会人になるにあたり、車を購入した。中古車で、それなりに走行距離も少ないが、安く購入できた。

 都市部でもない限り車は必須だ。田舎では公共機関は基本的に意味をなさない。一時間に一本しか走らないバスを利用するくらいだったら、徒歩でいい。二時間に一本の電車にお金を払うのであれば、車を購入したほうが早く到着できるし、将来的に安く済む。

 そうして購入した車は、青の四人乗り軽自動車だ。家族以外に特に乗せる人もいないし、大荷物を載せることもないだろう。ひまりたち三人家族には最適といえる。もっとも、この先この車では、家族全員が入りきらなくなる可能性もあるが。

 高速道路を利用して、水族館までは大体一時間程度。

 渋滞もあり二時間弱で辿り着いた水族館は、つい最近改修工事を終えたばかりらしく、ガラスのみの壁と、屋根には全てソーラーパネルが敷かれていた。地方には似合わない近代的なフォルムだ。

 その上に先鋭的なモニュメントが幾つも立っている。

 目を奪われつつ、水族館内部へと入っていく。

 水族館なのだから、多分、凄いのはここからなのだろう。

 水族館は地下にあった。外観は全て飾りでしかなかったらしい。地下なだけあって、外の暑さを忘れさせるくらいひんやりとしており、肌寒いくらいだった。

 入館料は大人一人一五○○円、三歳までの乳児は無料とのことだった。

 以前のひまりは、どうしてお金を払ってまで魚を見たいのだろうかと疑問に思っていた。魚群鑑賞が趣味の人にしては多い気がする。しかし家族を持ってようやく理解できた。そういう人もいるだろうが、別に魚を見たくて水族館に来ているわけではない。

 つまりそれは、ひまりの大好きだった『非日常』なのだ。

 穏やかな水族館は非日常で、日々の苦しいこと、辛いことを少しの間、忘れさせてくれる。そんな非日常の場所だから、人が多く訪れる。ひまりたちだって、家族で出かけるという非日常の時間を求めて水族館まで来たのだ。

 だから今では、時間にお金を費やすことを無駄とは思わなくなった。

 チケットを千切ってもらい、水族館の奥へと踏み入れる。

 互いの表情すら曖昧にする薄暗い空間は、数種類もの魚群に囲まれており、幻想的だった。思わず感嘆の声が漏れる。ふと、美桜を見てみる。美桜は空に手を伸ばし、頭上の魚に触れようとしていた。

 その手の先を視線で追うと、凛と目が合った。少しの間見つめ合って、小さく笑いあう。

 表情は見えないけれど、ひまりたちが笑顔なのは間違いない。


 道の両脇に巨大なカニや海外の小魚がいた。

「ねぇ見て」

 水槽を指差して凛に声を掛けた。

 美桜にも見えるように抱きかかえてから、凛は水槽に目をやる。

「ヒトデだ」と言うと、視線を水槽の下に移した。

「アカヒトデっていうらしいよ」

 凛がヒトデに言及して、初めて存在に気づいた。

 真っ赤なヒトデは水槽の底に張り付いて動かない。五つに分かれた身体は、五芒星を思わせる。ヒトデと言われたら、皆がこの形を思い浮かべるだろう。アカヒトデは、ヒトデのステレオタイプともいえる。

「本当に星みたいだね」

「そりゃ、スターフィッシュって言われるくらいだからね」

「へぇ、ヒトデって魚なんだ」

「いいや違うよ。何かって言われたら分からないけど」

 水槽の下の紹介文に目を移す。そこにはヒトデについての基礎知識が書かれていた。

『アカヒトデ・棘皮(きょくひ)動物門ヒトデ綱』

 ひまりには読み方が分からなかったが、とりあえず魚ではないことだけは理解できた。そんなことを知っていた凛が物知りに思えた。

 それぞれの水槽をじっくりと時間をかけて見ていく。そうして進んでいくと、突然通路が開けた。

 大水槽と呼ばれる、水族館を想像する時に一番に思い浮かべる、巨大な水槽が目の前にあった。エイやシマダイなどの大きな魚が優雅に泳いでいる。どこを見渡しても、魚がいないということはない。

 そこは自分の知らない世界だった。さらに海は、ずっと深くまで未知の世界が広がっていると思うと、胸が高鳴った。

 凄い、と自然と口から出た。

 ゆっくりと味わって、たった百メートルの海中を進んでいく。

 凛と美桜とひまりの三人で、静かな時間を過ごした。


 大水槽エリアを抜けると地上へと繋がっていた。外にも展示があるのだろう。自動ドアが開くと、むわっとする暑さが入り込んでくるとともに、乾いた磯の匂いがした。

 肌に纏わりつくような不快な暑さを堪えながら、外に出る。

 通路に従って進むと、そこにはペンギンがいた。

 まだ幼いペンギンは母親ペンギンの隣で、気持ちよさそうに眠っており、その様子を見守るように岩の上から覗き込むペンギンがいた。恐らく父親ペンギンだろう。

 その姿が今の自分たちの姿と重なって、微笑ましい気持ちになる。

「私たちみたいだね」

 美桜を抱きかかえて、ペンギンを見せている凛に声を掛けた。

「はみ出てるところが?」

 凛は別なペンギンを見ていた。

 ひまりたちは別にはみ出し者なんかではないはずなのだが、どうやら凛には違って見えていたらしい。

「私たちってはみ出し者なの?」

「いいや、昔の話。俺は不良の真似事みたいなことをしてたし、ひまりは……ほら」

「引きこもりだってこと?」

「うん」と、少し申し訳なさそうに笑った。

「昔の話だけどね。まぁ確かに、私たちはみ出し者同士だからこそ、仲良くなれたってのはあるかもね」

 そう考えたら、何だか自分たちは出会うべくして出会ったように思えた。

 そうしてここに美桜もいるのだから、それは運命の出会いに違いない。

 生前も合わせた人生の中で、今が最も幸せな瞬間だ。そしてそれは未来にかけて、更新され続ける。ずっと、未来まで。

 幸せは途切れることなく積みあがっていく。

 かつて求めていた家族からの愛とは、そういうものなのだろう。

 すると今まで当たり前に思えていた三人の家族が、奇跡であることに気づいた。

 今がどれだけ幸せな環境であるかも。

 出かけた言葉は喉で止まった。だって「今、幸せだね」なんて恥ずかしくて言えないから。

 代わりに凛の手を優しく握った。

 家族三人で見る景色は、たとえそれが世界の終わりだとしても、この目には美しく映るだろう。


      *


 ひまりたちは一度家に帰ってから、再びあの児童公園を訪れていた。

 凛が「星を見よう」と言ったのだ。

 湿った熱気が肌に張り付く。ギィギィと、夜にだけ鳴く虫の声と、蝉の声が入り混じっている。夏の夜を感じさせた。

 空は雲が疎らに散っていて、晴れてはいるが、以前見たような美しい星空には届かない。それでも雲の隙間から、星がいくつか顔を出している。

 そして何より、いつもと違うのは美桜がいること。ひまりの腕の中には、一日出かけて疲れ果てた美桜が、寝息を立てて気持ちよさそうに眠っている。

 家族三人だ。幸せの時間。

 それはひまりにとって、何よりも大切なもので、最も愛おしく感じるものだ。

 それを味わうように、凛に肩を寄せた。

「あれがベガ、デネブ、アルタイルなんだ」突然口を開いた凛は、空を差しながら言った。

「また星座の話?」

 少し面倒くさそうに、でも優しく言う。

「それが夏の大三角形なんだってさ」

 知らなかったと、ひまりは相槌を打った。

 空に大三角形を見つけ、眺めていると、横から流れてきた雲が星を隠した。デネブが隠れて、アルタイルとベガが取り残される。取り残されてしまったものだから、「私たちみたいだね」という言葉は喉奥に留めておくことにした。

「どれか一つでも欠けたら、大三角じゃあなくなっちゃうのかな?」

「どうだろう。よく分かんない。でも、少なくとも俺は、そうは思わないな」

「どうして?」

「そりゃ名目的には三つ揃って初めて大三角だけどさ、『離れてても心は一つ』みたいなやつがあると思うんだよ。だからもしアルタイルが消えても、あれは夏の大三角形に変わりはないんだ。ベガでもデネブでも同じ」

 すると雲が流れ、デネブが顔を出した。

 そうしてようやく言うことができた。

「私たちみたいだね」そう言ったあとに、夏の大三角が、と付け加える。

「そうだな」

 凛は視線を空に向けたまま、頷いた。

 たとえ離れ離れになることがあろうとも、三人は家族だ。それには変わりない。

「明日から仕事だから、帰ろうか」

「そうだね」

 そう言って二人は立ち上がった。

 美桜はまだ眠っていた。よほど疲れたのだろう。星空を見せてやりたかったなと思った。

 惜しいけれど、また来ればいい。時間は貴重なもので、すぐに消え去ってしまうけれど、家族の絆は消えないのだから。

「また来ようね」

 ひまりの言葉に、凛は目を細めて頷いた。

 夜の闇の中でも輝いて見える、ひまりにとってのとびっきりの笑顔だった。


      *


 ありきたりな日常。いつもと変わらない日常。

 それは手にある時には気づくことのできない奇跡の連続で、今という時間は更新され続ける奇跡の最先端に位置するものだ。

 それゆえに気づかない。

 だから当たり前を思わせる、日常なんて言葉を使ってしまう。奇跡であることに気づくことのできる人間は、それを失った人間のみだ。


 やがて、私は絶望した。

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