2021年 春 齋藤ひまり

 産休は出産後八週間まで適応される。

 それまでには育児にも少しは慣れた。そこからさらに十か月の育休を貰った。

 本当は人手が足りず、長期間の育休を取るのは躊躇われたのだが、瑞穂先生や園長がこれからの若手のためだったら何だってすると、半ば強引気味に育休を取らせてもらった。本当にありがたかった。園側としても育休が取れる職場として実績が欲しかったらしく、ひまりは園長から感謝された。

 凛は大学の単位をほとんど取得し、他の時間は育児と就職活動に注力している。家にいないことも多いため、母親や凛とも相談し、昼間は実家の方に身を置くことにした。

 ふと思い返してみれば、母親と内山さんに美桜の顔を見せるのは、出産したとき以来だった。灯花に至っては、顔を見せること自体が初めてだ。どんな反応をするのだろうかと、わくわくした気持ちで、開け慣れた実家の玄関の戸を開く。

 玄関から見える何度も見た景色に向かって「ただいま」と言うのは少し恥ずかしかった。

 出迎えてくれた母親の「おかえり」の声もまるで数十年前の出来事のように懐かしい。

 大人になったのを感じる一方で、ここが我が家ではなくなったのだと思う。

 母親は腕に抱えられた美桜を見ると、目を潤ませて微笑んだ。そして感慨深げに言った。

「おばあちゃんになっちゃったかぁ」

「ママになっちゃったね」

 そんな短いなやり取りのうちに、二人の目には涙が浮かんでいた。

 新たな命の喜びを感じるとともに、独り立ちをした寂しさを感じた。するとセンチメンタルなひまりを慰めるように、美桜は短い手を伸ばして笑った。

 ひまりは不思議そうな表情をして母親と目を合わせる。

 そして、祖母と母親、孫の三人で、感情を共有するように笑いあった。

 リビングに入ると、そこには懐かしい景色があった。いつも寝転んでいたソファに、三人で見るには少し小さなテレビ。冷蔵庫は新しいものに変えられていたが、色は同じ白で、かつての面影を感じさせた。

 しかし灯花の姿が見当たらなかった。

「灯花は?」

「学校よ」

「あぁ、灯花ももうそんな歳なのか」

 この冬にはひまりだって二十二歳になるのだ。ひまりが十三歳の頃に産まれた灯花はもう七歳になる。出産で意識が向かなかったが、今年小学校に入学したのだ。何かお祝いでも渡そうかと考える。

「寂しくなるね」

「いいや、美桜がいるからね。私も頑張らないと」

 母親は腕を捲りながら言った。本当に頼りになる。

 先に連絡して用意してもらったベビーベッドに美桜を寝かせる。

「あ、これ。懐かしい。灯花のやつでしょ?」

「そうよ。引っ張り出して来たんだから」

 もう何年も使っていないのに、カビやほこりの臭いは一つもしなかった。恐らく母親が一度拭いてくれたのだろう。流石二度も育児を経験しただけのことはある。新生児への気遣いは抜かりなかった。

 美桜は慣れない環境に初めは嫌がり泣いていたたが、母親と遊んでいるうちに笑うようになった。経験値が違った。

 昔と同じように、ソファで寝ころびながら二人の様子を見ていると、いつの間にか眠ってしまった。次に目を開けたときには窓の外の色が薄くなり始めていた。

「起きた?」

 椅子に腰かけていた母親が、微笑みながら訊いた。

 その声で、意識も現実に引き戻される。

 どうやら自分でも気づかないうちに随分と疲れが溜まっていたらしい。時計の針は四を指していた。少なくとも四時間以上は眠っていたことになる。

「ごめん、寝ちゃってた」

「いいのよ」と、よく見た笑顔を向けてくれる。

 身体を起こすと、ソファのすぐそばにベビーベッドが移動していた。どうやら美桜が母親の隣で眠れるように、気を遣ってくれたらしい。

 まだ眠っている身体でベビーベッドを覗いてみると、美桜はまだすやすやと眠っていた。

 椅子に座る母親が、口元に人差し指をあてて「静かに」と伝える。ひまりは母親の気遣いに感謝して頷いた。

 それから立ち上がり、水道からコップに水を注ぎ、口に流し込んだ。乾いた喉を潤した後、母親の対面に座った。この椅子も、ここから見る母親の姿も、何だか懐かしく思える。

 美桜を起こさないよう注意して、母親は小さな声でひまりに話しかける。

「なんか美桜、昔のひまりを見てるみたいだったなぁ」

「引きこもりの匂いがした?」

 笑って冗談を言う。

「そうじゃないよ。なんか優しい感じが似てたの」

「優しい感じ?」

「そう、優しい感じ」と繰り返す。

 そう言って母親は顎を手のひらに乗せ、両肘をテーブルに置いた。

「子供のくせに、誰かのことを心配しちゃってね。ママには分かってたのよ」

 ひまりをの目を見てにやりと笑った。それから思いついたように視線を外す。

「あ、ママじゃないのか。ババ? ばあちゃん? いや、ママなのか?」

「私は自分の事ママって呼ばなきゃなんだよね」

「ママはばあちゃんか……ってなんか変だね」

「そうだよ。どっちがママなのか、訳わからなくなる」

 そうして談笑していると、玄関の戸が開いた音とそのあとすぐに、元気な「ただいま」が聞こえた。ひまりは椅子から立ち上がって、「おかえり」を返した。

 灯花だろう。玄関へと出迎えに行く。

「え、お姉ちゃんいるの」

 靴を脱いで、振り返った灯花と目が合った。動きを止めて目を見開いて驚いていた。

「いるよ」

 ひまりがそう言うと、灯花はランドセルを投げ捨ててひまりに抱きついた。

「おかえり」灯花は高い声色で、喜びを表現する。

「ただいま」

 灯花の小さな頭を優しく撫でながら言った。

 もう少ししたら帰るつもりなのだが、それは言わないでおいた。

「どうしているの?」

「灯花に美桜を見せに来たんだよ」

「ほんと? やった!」

 はしゃいでひまりよりも先に、リビングへと走っていった。

 騒がしい灯花のせいで、美桜が目を覚ましてしまったらしい。ひまりがリビングへ戻ろうとすると、泣きわめく声が聞こえてきた。ひまりは急いで駆け寄る。

 美桜が横になっているベビーベッドの周りには母親がいた。抱き上げてよしよしと揺らして、泣き止ませようとしているが、泣き声は大きくなるばかりだ。

 ひまりが交代して、美桜を抱いた。リズミカルに身体を揺らし、右手で頭を撫でてみる。いつもならばこうすると、大抵の場合は泣き止んでくれるのだが、今に限ってはそんな簡単にはいかなかった。

 泣くのはいつものことではあるが、泣き止まないのはいつもらしくない。

 どうすればいいかと困っていると、灯花が寄ってきて腕の中にいる美桜を、興味深そうに見つめている。それから優しく頬を突っついた。

 するとぴたりと泣き止んだ。泣き声は笑い声に変わった。

 どうやら灯花と美桜の相性はいいらしい。懐いているのが分かったので、帰るのはあもう少しとにして、そのまま灯花に遊ばせることにした。

 しばらくそうしていると、内山さんも帰ってきた。

 内山さんは美桜の顔を見ると、すぐに抱きかかえた。しかし今までにないくらい大きな声で泣きわめき、内山さんも涙目になっていた。

 そんな幸せな時間を過ごしていると、凛から連絡が入った。あと一時間くらいしたら駅に着くらしい。帰る時間が来た。

 玄関で見送る灯花が寂しそうにしていたが、また二人で来るよと言ったら喜んで送り出してくれた。子供らしいところは子供らしく、しかし妙に大人らしい部分も持ち合わせた子だ。

 きっと灯花は、ひまりとは違って皆から愛されるような人間になるのだろう。今更ながら、ほんの少しだけれど嫉妬してしまった。

 しかし腕の中に抱かれた美桜の表情を見れば、そんな感情はすぐにどこかへ吹き飛んだ。

 それから家の扉を開けて、高木家を後にする。

 すると、久しく見ていなかった顔を目にした。

 家の前に、たばこを吸う生前の親父の姿が見えた。

 彼は生前と同じ道を辿っているようで、夜の闇の中でも見えるほど皴が顔にあり、頬は痩せこけていた。髪は白髪交じりで、年齢以上に歳をとっているように感じさせる。

 秋村家のことを忘れていたわけではなかったが、こんなにも疲れ果てた表情をしていたのだと、改めて思う。

 親父はひまりの顔を見ると、一瞬目を細めた。しかしすぐに誰かを認識したようで、にこりと微笑みかけた。

 もう二十年も前のことだ。しかしその罪が晴れたわけではない。あと二年もしたら、目の前の家の二階に住む青年は、彼を殺す。

 自分自身が殺してしまった本人ではあるけれど、もしも今、秋村翔太と心が入れ替わるとしたら、怒りのままに気が飛ぶまで包丁を振り回すことはしない。そうなる前に、話し合うことを選択する。

 それはひまりの二十一年の人生で学んだことだ。

 彼の苦しみも、今ならば何となく分かる気がした。

 だからひまりは、真似をするように微笑み返した。

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