〜2021年 春 齋藤ひまり
珍しく二人で買い物に出かけた。
出産を二か月先に控え、またこれから凛の就職活動もある。先に新生児用品を見ておこうという話になったのだ。
そういうわけで、電車で一時間弱の都市へと来た。県庁所在地であるからだろうか、思った以上に売り場は豊富だった。売り場の少ない新生児用品が、ここでは広く売られていた。
小さな靴やベビーカーや、前腕ほどしかない服など、二人でゆっくり歩いて見る。
どれがいいとか、ひまりには分からない。そもそも性別も未だ曖昧なのだから、今買うべきではないのかもしれない。
「これなんかいいんじゃないか」
凛がそう言って指を差したのは、周囲よりも少し小ぶりなベビーカーだった。しかし他の物とは明確な違いがあった。値札の桁が一つ多く見えたのだ。当然却下だ。
それから他のベビーカーを見てみる。屋根のないものから、ドリンクホルダーが必要以上に取り付けられているものなど、様々だった。その中でも機能的に輝いていたのが最初に示してくれたベビーカーだった。値段相応といったところだろう。
性別は分からないが、ベビーカーには性別は関係ない。ということで別の、そこそこの値段で高コストパフォーマンスのベビーカーを購入した。
それを凛に持たせて、一日歩いた。最後に買えばよかったものを初めに買ってしまった。今度来るときは、小さなものから買おうと思った。少し後悔したが、自分が持ったわけではないので問題はない。さらに、一足先に子供が産まれた気分を体験できて、悪い気はしなかった。
一日買い物をした帰りの電車の中で、凛は少し疲れた表情で窓の外を見つめていた。
夏は一面田んぼで埋まる景色も、今は雪で埋め尽くされている。この雪が解けて、その後ろに見える山々が桃色に染まった頃、この子は産まれる。
雪解けはもうすぐだ。
目の前に座る凛はどんな気持ちで、窓の外を見ているのだろう。この美しい星空でも見ているのだろうか。
ここ最近、凛に少し気を遣わせ過ぎていたのかもしれない。自分の事ばかりで凛のことをあまり考えていなかった。口に出さないだけで、きっと疲れているのだろう。ストレスとか溜まっていないだろうか。
そう思ってひまりから凛に一つ、些細な提案をした。
「電車降りたら少し、付き合って欲しいところあるんだけど、いい?」
「珍しいね。全然いいよ」
電車を降りて、二十分ほどでアパートに到着した。玄関に荷物を置いてから、もう一度出かける。
そこからさらに徒歩十分、到着したのはかつて凛から告白された児童公園だ。
砂場は雪で埋まっているが、別に歩けないほどではない。固まった雪の上を歩いて、ベンチの前に立つ。手のひらで雪を掃ってから腰かけた。
お尻にひんやりとした感触を感じた。少し濡れてしまった気がしたが、風が吹くとさらに寒く感じるだろうから、そのまま座ったままでいた。
手を繋いで、あの日のように空を見上げる。
そこに雪を降らせる雲は一つとしてなく、冬の澄んだ空気の向こうには心を洗うように美しい夜空があった。
この景色を見れば、多少は癒されるかもしれないと思ったのだ。自分が見たかったのもあるが。
「あ、冬の大三角形だ」
凛が左手で指を差して言った。
「あれがペテルギウス」
「本当によく知ってるね」
ひまりは小さく笑う。
「凛って星座好きだっけ?」
「いいや、別にそんなことはないけど」案外素っ気なく言った。
ここに来るたびに星座について語るものだから、てっきり星座が好きなのかと思ったが、よく考えてみればこの公園以外で星座の話なんか聞いたことがない。
凛はひまりが理由を問う前に、自ら答えてくれた。
「別に詳しくないけどさ。学校で習ったやつくらいは何となく覚えてるんだよ」
へぇと、ひまりは相槌を打つ。
「まぁほんとのことを言えば、ひまりがいつか星座を見た時に、この時間を思い出してくれないかなって思ったからだよ。夏の大三角形を見たら、あの日のことを思い出すだろ? そういうこと」
「まぁ確かに、今日だって星座が見えたから来ようと思ったわけだし。その目論見は成功してるかも」
「ならよかった」
凛は微笑んだ。
それから一時間ほど星空を見上げた。
何が面白いか分からないが、この時間は心地良く思える。
こんな時間が永遠に続けばいいのにと思った。歳を取りたくないと思ってしまった。
子供が生まれてくることは嬉しいけれど、しかし親として自分がやっていけるのかが不安で、母親のようにやっていけるのかが不安で、ほんの少し未来を憂鬱に思ってしまった。
*
妊娠十か月、臨月に入っても特に健康に害が及ぶことは無かった。
産休を貰い、保育園は休んだ。
幸いなことに、ひまりの身体は健康な妊婦と言える。
そのまま更に時間が過ぎた。
ひまりは初産のため、出産までは十三時間ほどかかるらしかった。
陣痛は想像を絶するものだったが、しかしその先に出会える新たな命を想えば、このくらいなんてことはない。辛くて苦しかったけれど、そう言い聞かせて何とか乗り越えた。
泣き声がした。
二六六九グラムの、元気な女の子。
桜の季節に産まれてきてくれた。まるで桜の花のように、皆の心を幸せに染め上げてほしい。そんな願いを込めて名前を付けた。
花の名前を付けたのは、あなたが私に花の名前を付けてくれたから。
美桜。美しい桜の子。
名前の通り、胸の中で泣く我が子は美しい。美桜を優しく抱きしめる。
「産まれて来てくれて、ありがとう」
心の底から溢れた言葉だった。
この子は世界のどんな女の子よりも可愛い。私たちにとっての宝物だから。
「産まれてきてくれて、本当にありがとう。これから色んな思い出を、ママたちと一緒に重ねていこうね」
宝石みたいな女の子だった。
初々しい泣き声を上げる美桜が、一瞬、頷くように微笑んだ気がした。
――二○二一年、四月十五日。齋藤美桜は生を享けた
*
美桜は本当に可愛い。
まだ言葉を話すことはできないけれど、言葉に似た何かなら発することができる。「あうあう」と泣き声を上げて、短い手を懸命に上げて甘えようとする姿は愛おしい。
ひまりが抱きかかえると、おっぱいを欲して胸に顔をうずめる。美桜がどんな行動をしても、今のひまりには可愛く見える。
美桜はよく泣く子だけれども、普段保育園でそういう子を相手にしているから平気だった。むしろもっと泣いて感情表現を沢山して欲しいとも思う。
泣くときは決まっていて、嫌に思うことがあったときと、凛に抱かれたときだ。
どうやら凛は抱くのが下手らしく、腕に乗るやいなやすぐに泣いてしまう。しかしじゃれて遊ぶときにはそんな素振は一切見せないのだから、嫌われているわけではないのだろう。男性の腕がごつごつしているから不快に思っているのだろうか。
残念だけど美桜の気持ちはひまりには分からない。
育児は大変だけれど、嫌ではない。楽しいとは少し違う。思い通りにいかず、大変な事ばかりでお世辞にも楽しいとは言えないのが育児というものだと思う。けれども将来の美桜のことを思えば、何だってやろうと思えたし、何よりも美桜の笑顔を見た時には有頂天になれた。
思い通りにはいかなくても、美桜が健やかに育ってくれさえすれば、それでいい。
そしていつか、家族三人で出かける日がくるといいなと願う。
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