2020年 夏〜秋 齋藤ひまり

 吐き気がした。身体の内側から不快な何かを感じた。

 その症状は、人生で体験した病気のそれとはどこか異なっており、今の自分が何らかの異常な状態にあることを知らせた。

 耐え切れず、道端にしゃがみ込む。持ち歩いている鞄に無造作に手を入れる。するといつも使っているエコバックを見つけ、急いで開いた。そしてそのままエコバックの中に吐いた。

 仕事帰りの夜道。車が交差することができないくらい細い小道だった。

 吐けるだけ吐いて、地べたに座り込んだ。辺りを見回してみる。手を差し伸べてくれるような人は周囲には見当たらない。

 とりあえず吐き気は収まった。もう少し休んでから帰ろう。

 いつもの吐き気とはどこか異なるその吐き気と、最近の体調不良。そして生理不順。雑誌やネット記事などでしか聞かなかった情報ではあるが、思い返してみればそれはその状況と酷似していた。

 自分は妊娠しているかもしれない。

 そう思うための証拠は揃っていた。

 ややあってひまりは立ち上がる。今日は凛に報告したいことができた。三か月前、凛は「子供が欲しい」と言ってくれた。もしかするとこれから家族が増えるかもしれない。

 そう言ったらきっと喜んでくれるに違いない。

 そう思うと、自然とひまりの表情は緩んだ。

 

 保育園から徒歩三十分のところにある、築十二年の二階建てアパートの二〇二号室の扉を、慣れた手つきで開く。

 扉を開いてすぐに「ただいま」と元気よく言った。凛の元気のいい「おかえり」が返ってくる。

 靴を脱いでいると、凛が玄関まで出迎えてくれた。壁に手をついて、ラフな格好でいる。その左手の薬指にはきらりと光る指輪が着けられていた。

 いつもは彼から何か話しかけてくれるのだが、今日は話しかけてくれない。不思議に思い、彼の顔を覗き見るようにして訊いてみる。

「なんかあった?」

「いや、何かひまりが嬉しそうだなって。ひまりの方こそなんかあった?」

「あーそうね、えっと。言いたいことがあるから後にしようか」

 「えー」とは言いつつも、凛は分かったと頷いた。

 今日はアルバイト先が休みなようで、凛は家にいた。大学の授業も真面目にこなして、インターンにも行っている。この様子では就職難の現代でもそれなりに戦えそうだ。

 凛はひまりのために食事を作ってくれる。社会人のひまりと大学生の凛では、時間の余裕が違う。そのため、凛もアルバイトはするものの、基本的にはひまりを主夫のような形でサポートしていた。

 同棲してすぐのこと、彼の料理は驚くほどに下手だった。

 しかしこの数か月で随分と腕を上げ、今では何が出ても美味しいと思えるようになった。動画サイトで料理を研究したらしい。

 今、ふたりが口にしているほうれん草の胡麻和えや中華春雨スープは、全て彼が作ったものだ。好きな人が作ってくれた料理だからかもしれないが、高級なレストランのものよりも美味しく感じた。

 だから素直に「美味しい」と伝えると、凛はいつも喜んでくれる。別に美味しくなくても美味しいと伝えたくなってしまうほど、彼の笑顔は素敵だ。

 それから風呂に入る。凛は仕事で疲れたであろうひまりを気遣って先に入れてくれる。ありがたく頂いた後、入れ替わるように凛が風呂に入る。風呂掃除と洗濯は凛の仕事だ。その間にひまりが食器を洗う。

 凛が風呂を出ると、洗濯機を回す。洗濯機が終了の合図を出した頃には二人は一休みしていて、面倒に思いながらも立ち上がって洗濯物を干す。

 そうして一日が終わる。

 明日も仕事があり、凛も大学がある。夜十一時半ごろになるとテレビを消し、消灯して、二人は並んで布団に入る。

 新婚夫婦らしく、身体を寄せ合って眠る。

 ひまりは眠りにつこうとする凛の肩を、軽く二回叩いた。

「どうした?」

「さっきさ、言いたいことがあるって言ったじゃん?」

「あぁ、そうだったね」

「もしかしたらかもしれないけどさ。私、妊娠したかもしれない」

「えっ、ほんと?」

息を大きく吸って驚いた。

「え、あ。嘘じゃないよね。ね」

 言葉を上手く繋げられていない。凛が珍しく取り乱していた。

「うん、嘘じゃない」

 冷静さを取り戻すために、凛はしばらく黙った。その後、ひまりの目を見つめた。

「……めちゃくちゃ嬉しい」

 そう言って、凛はひまりの身体を抱きしめた。

 その温もりを味わうように彼の背中に手を回すと、二人の身体は更に密着した。

 しばらくその沈黙を楽しむ。

 そしてひまりは、その雰囲気を崩さないように、小さな声で伝えた。

「週末に、産婦人科予約するね」

 その日は二人、手を繋いで眠った。


      *


 妊娠が発覚した。

 ひまりたちは出会ってから何よりも喜んだ。

 それからの生活は、想像以上に大変だった。

 不意に食べ物の香りが気持ち悪く思えたり、保育園の独特な匂いに吐き気を覚えたり、酷い時には空気の匂いにさえ身体が拒絶をした。それはいわゆる『匂いつわり』というものらしいのだが、それは日常生活に支障をきたす程度に力を発揮し、ひまりを苦しめた。

 そんな風なつわりのある妊娠の初期には、凛の存在が大きかった。

 ひまりがどれだけ料理を残しても文句ひとつ言わなかったし、「食べたくなったら夜でも起こしていいよ」とまで言ってくれた。そこまで尽くしてくれることに申し訳なく思ったが、凛はそのために自分がいるんだと言い、支え続けてくれた。

 やがてお腹が少し膨らみ、確かに新たな生命の息吹を感じた。

 安定期と呼ばれるものに突入したらしい。その頃にはつわりは大方収まっており、食べたいものを自由に食べることができるようになっていた。しかし新たに生まれる赤ちゃんのことを思えば、好きな油ものばかりを摂取するわけにもいかない。栄養バランスの整った食品を毎日摂取した。

 日を増すごとにお腹に重みを感じた。それと同時に、身体に脂肪がついて丸みを帯び始めた。身体が赤ちゃんを産む準備をし始めている。

 そうして日々、身体の変化を実感していたある日、ひまりが横になっているとお腹から赤ちゃんの胎動を感じた。初めは勘違いかと思ったが、二度も連続して起こったため胎動だと確信した。それを凛に伝えると、騒いで喜んだ。

 まだ子供は産まれてないよ、と言って凛を収めたが、内心ではひまりも騒ぎたかった。

 日に日に身体に重みが増していくとともに、数か月先に産まれる子供の姿を想像することが増えた。

 どんな子供なんだろう。産まれた子の性別はどっちだろう。どんな顔をして産まれてくるのだろう。ちゃんと泣いてくれるかな。産まれたばかりの手を握ってみたいな。いつか三人でどこかに出かけたいな。

 そんな未来を描いているうちに、大きくなったお腹で足元が見えなくなってきた。

 出産予定日は四月十四日で、それまではまだ二か月以上あるのだが、ここまで大きく膨らんだお腹を見て、もう明日にでも出てきてもおかしくないのではと思った。

 身体にだるさを感じることが増えたが、それはただ単に重さゆえに疲れやすくなっただけらしい。赤ちゃんに何か問題でもあったのかと産婦人科に問い合わせたところ、それは良くあることですよと優しく教えてくれた。

 このまま特に何もなく、自分も健康で子供も健康に産まれてくれば一番いい。

 健やかに産まれてきますようにと、膨らんだお腹を撫でながら祈った。

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