三章 正解
2020年 春 高木ひまり
以前、人生の幸福の形は何かと、短大の講義で問われたことがある。
その講義は多くの学生が受講していて、ひまりが回答をする機会は回ってこなかったが、自分の回答を思いつかなかったため、当時のひまりは喜んだ。
当てられた生徒は皆、「結婚」や「自由」など、当たり障りのないことばかりをずらずらと並べた。そんな様子を見て、さらにひまりは頭の中で回答に悩むことになる。
幸福の形は皆が同じはずはない。しかし、明確な答えがあるとも思えない。
一体、自分にとって「人生の幸福」とは何なのだろうか。
あれから二年ほどが経過した今も、ひまりには答えらしい答えが思いつかなかった。
二〇一八年、三月。ひまりは高校を卒業した。
同年、四月。ひまりは短期大学へと進学した。
二〇二○年、三月。ひまりは短期大学を卒業した。
ひまりは私立保育園に就職した。
*
「おはようございます」
元気のいい挨拶とともに、事務室の扉を開く。
ひまりの挨拶に反応するように、挨拶が返ってくる。元気だったり気だるげだったり、多種多様だ。
ひまりは自分のロッカーを開け、鞄を収納し、ハンガーにコートをかける。春になったとはいえ、帰宅する頃には外は冷えている。コートはまだまだ必要だ。コートの下には制服を着ており、着替える必要はない。そのまま自分のデスクへと向かい、腰を掛ける。
「おはようございます」
隣に座っていた瑞穂先生が改めて挨拶をした。ひまりも同じように返す。
「仕事には慣れた?」
「まぁまぁですね」
「そっか」と、瑞穂先生はコーヒーをひまりに手渡しながら言った。
瑞穂先生は、新卒採用でまだ右も左も分からないひまりに対して色々なことを教えてくれる優しい先生だ。そのためひまりも瑞穂先生のことを好意的に思っている。
時間は午前七時過ぎ。まだ子供たちの来る時間ではない。
しかし先生には朝早くからやることが多い。清掃から掲示物の作成や、プリントの作成など、事務的なものから実用的なものまでを全て保育園の先生がこなす。
よく保育業界はブラックだと聞くが、実際に自らも入ってみて、本当にその通りだと思う。しかしやりがいがある。好きだからこそやっていけるのだろう。
ひまりが保育士になろうと思ったのは、灯花の影響だ。
高校三年の時、進路を定めなければならなくなった。今までの人生は引きこもってばかりで、将来のことは考えたことはあっても、具体的な進路を考えたことはなかった。
困ったことに専門学校の生徒が進学が決定し始める八月になっても、進学か就職か、おおよその進路先すら決まらなかった。
時間は流れて、皆は進路を決めていく。内山さんの勧めもあって、一応進学することにはしたのだが、将来の指針がおおよそでも決まっていなければどうしようもなく、ひまりは一向に受験に専念することができなかった。
とはいえ、所詮ひまりの学力では受験できる大学は限られており、今から勉強をして間に合うほど、大学受験は甘くない。
そうして進路に悩んでいたとき、その悩みを忘れたくて灯花とじゃれて遊んでいた。ふと、この子は将来こんな風に悩むのだろうかと思った。その時、ひまりの中で何かがはまった感覚があった。
自分のような人生を辿ってほしくない。かつての自分のようにどうしようもない寂しさを抱える子がいても、家族ではない誰かが支えてあげればいいのではと思った。
高校や中学、小学校の教員を目指さなかったのは、学力のためだ。
ひまりが進路を決めたのは、十二月。その頃にはもう大学進学志望の中でも、クラスで数人が推薦によって進路を決めていた。
しかし何となく進路を決めたわけではなく、心の底から保育士になりたいと思ったため、自分でも驚くくらいに受験勉強に打ち込めた。
たった数か月ではあるが、毎日が勉強漬けになった。その結果、最後の最後、後期入試で合格できた。
そんな誰よりも濃密な時間を経ての今がある。
瑞穂先生はそんなひまりの経歴を聞いて、今の時代にこんなにもやる気のある人に出会えて嬉しいと、ひまりを可愛がってくれるようになった。
「そういえばさ、大学生の彼とはいい感じ?」
瑞穂先生はにやにやと口角を上げて訊いた。
その問いに釣られてもう一人の中年の先生も、棚の向こうから顔を覗かせる。
「特に変わってないです。週に数回、休日とかに会う程度ですよ」
するとさらに隣のデスクの先生が、会話に入るように「それはハラスメントじゃないですかー?」と言う。
確かに瑞穂先生のしていることは、世間でいう一種のハラスメントにあたるのかもしれない。近年の風潮的には良くないことだろう。しかし友人がほとんどいないひまりにとって、寂しいことではあるが、唯一の惚気る機会になっている。
本人が大丈夫と言えば大丈夫なのだ。
「私が好んでやっていることなんで大丈夫ですよ」
しかし彼女は「いや、ハラスメントはハラスメントなんです。大体の人がそう言うんです」と、ひまりの言うことを頑なに信じようとしない。
社会にはこういう人もいるのだと、いい勉強になる。
決して口に出すことはないが、ひまりは彼女のことが嫌いだ。秘密は得意なので、きっと漏らすことはないだろう。
すると更に年上の先生が現れて、仕切るように手を叩いた。
「おはようございます!」皆と同じように、ひまりも挨拶を返す。
今日も一日が始まる。
*
職場の保育園は、家から徒歩二十分ほどの場所にある。
車で通勤するには近すぎる距離ではあるが、徒歩で通勤するには少し遠い。悩んだ末に結局徒歩で通勤することにした。健康のために歩くのも悪くないと思ったからだ。
街灯が切れかかっている夜道を歩く。お化けが出そうで怖い。
徒歩二十分の帰路は一時間に感じる。疲労で足取りが重たくなっているのもあるが、それよりも夜道が怖いのだ。
すぐそこの電柱から得体の知れぬものが現れてもおかしくない。背後から誰かが覗いていてもおかしくない。自分の足音にさえ恐怖を抱く。
そうして家に到着する頃には、仕事で減らされた体力とは別の体力が削られている。
玄関の扉を開くと「おかえり!」と灯花が出迎えてくれた。頭を撫でて「おかえり」と言うと、えへへと嬉しそうに笑う。
今年で七歳になり、小学校の入学を考え始める頃だ。毎日見ているのに、大きくなったなぁと感慨深く思う。
それから母親の作った料理を頂く。その頃に丁度内山さんが帰宅をする。
今まで感じなかった、家に帰るとご飯があるありがたさと、毎日懸命にお金を稼いでくれた内山さんの苦労が、今頃になってようやく理解できた。
つまり、社会人とはこういうことなのだと。
これから振り込まれるであろう初任給の額を見て、内山さんの凄さが身に染みて分かる。それと同時に、母親がこの人と再婚して良かったなとも思う。
本当に恵まれた。
だからこそ恩返しをしたい。
どんな形であれ、これまで育ててくれた二人に。
働くようになってそう常々思うようになった。
そんな風に考えていると、一日が終わる。毎日が充実していて、家に引きこもっていたあの頃には、絶対に感じることのできない喜びだ。
ふと、あの問いのことを思い出す。人生の幸福の形は様々で、まだその答えが分からないが、少なくとも今の生活に幸福を感じているのは確かだ。
誰かのために生きていくことが、私にとっての人生の幸福の形かもしれないと、ひまりは思い始めていた。
*
春は新たな季節の到来を感じさせる。
先週まで満開だった桜が散り始め、風が花びらをどこかへ運ぶ。地面の半分を桃色の花びらが覆っている。そこを歩くと、花びらが少し動き、今まで隠れていた地面がひょいと顔を出す。
そんな光景に春を感じながら、ひまりは駅を目指していた。
一時間に一本のバスに乗り、揺られること二十分。数年前に改装したばかりの綺麗な駅に到着した。その向こうには、現在建設中の病院が見える。
せわしなく聞こえる重機の音で、あの高い建造物は人間の手で作られているのだと実感する。
駅の時計を見て、時間を確認する。『九時二十八分』。待ち合わせより十二分前に到着したらしい。まだ彼の姿は見えないので、時間を潰そうとコンビニへ向かう。
並んでいるペットボトルから吟味して、お茶を手に取る。そして同じものをもう一本、手に取った。これは彼の分だ。
電子決済を済ませ、駅の小さなホームに戻ると、丁度向こうから歩いてくる凛の姿を発見した。ひまりは笑って手を振り、凛に近づく。
すると凛も気づいたようで、小さく格好つけたように小さく手を挙げて、ひまりのもとへと向かってきた。
「おはよう」
「おはよう。悪い、待たせたか?」少しばかり申し訳なさそうな表情をする。
「ううん、今来たとこ」
少し嘘をついてみた。ほんの少しの気遣いだった。
「よかった」
申し訳なさそうな表情は、安堵の表情へと変わった。
「さ、行こっか」と言って手を繋ぐ。
どうやら今日は、ひまりが先導する日らしい。
一時間ほど電車に揺られて到着したのは、百貨店や服屋などが幾つも立ち並ぶ商業施設だ。
そんなところに何をしに来たかと言えば、デートだ。
付き合ったのが高校一年の秋で、今が二十歳の春。およそ四年の付き合いだ。毎週のように顔を合わせている二人だが、どこかへ出かけるということはあまりしない。
ひまりは顔を合わせるだけでも十分良かったのだが、凛がカップルらしいことをやりたいと言うので今日はここに来た。
初めに映画を見て、それから互いの服を購入した。
一般的なカップルがどんなデートをしているかはよく分からないが、見かけたカップルは皆腕を組み、幸せそうな表情をしていたので二人も真似をして腕を組んで歩いてみた。
四年が経過しても、まだまだ初々しい。
腕を伝って彼の心臓の鼓動が聞こえる気がした。それと同時に、自分の心音も彼に伝わっているのではないかと不安になる。
恥ずかしさのあまり、気づけば二人は黙って歩いていた。
ひまりたちはきっとどんなカップルよりも仲はいいが、それ以上先には進んでいない。だからこその初々しさではあるのだろう。
あまりにも初々し過ぎるのは、自覚していた。
デートは終始緊張して、よく覚えていない。しかし楽しかったことだけは覚えている。
両手いっぱいの荷物を持ち、再び電車に一時間ほど揺られて帰宅する。
その頃には空は真っ暗になっていた。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
暗い夜道を二人で歩いた。
仕事帰りの夜道は怖いのに、二人でいれば怖くない。黙っている時間でも、そんな時間こそが愛おしく感じた。
「そうだ、少し寄って行かないか?」
「別にいいけど、どこに行くの?」
「大丈夫。変な所には連れて行かないから」
「なら、大丈夫かな」
そうして連れていかれたのは、見覚えのある児童公園だった。
あの時よりも随分と色褪せてしまったように見える。しかし置かれている遊具やベンチは今も変わらずにそこにある。
ここはひまりが、凛から告白の受けた公園だ。
ひまりたちはあの日のように、ベンチに腰を下ろした。そこから見える風景も、何一つとして変わりない。町は変わっていない。
しかし自分たちだけは変わってしまったのだと、否応なしに叩きつけられた。
ひまりは保育士になり、凛は大学三年生になった。自分たちはもう子供ではなく、大人にならなければならない。
空を見上げる。
昼間とは異なり、空は雲一つ見えない。月の大きな夜だった。
「大三角形は見えるかな?」凛が訊いた。
「夏のやつは流石に見えないでしょ」
「そっか」と、空を見たまま笑った。
「北斗七星とか見えるんじゃない?」
「あれは冬の星座だよ」
へぇと頷いた。
それから知りもしない星座つについて語り合った。
しばらくそうしていて、時間はあっという間に過ぎていく。
「ねぇ、凛」
「どうした?」
「提案なんだけどさ」そう前置きしたうえで、ひまりは言った。
「――私たち、結婚しようか」
風が吹く。
たった一つの電灯に照らされた桜の花びらが、ひらりと膝元に舞い落ちた。
「お金は二人合わせればどうにかなる。結婚式は挙げなくてもいい。私は凛と、もっと同じ時間を過ごしたい。二人でずっといたい」
向こうの景色を見たまま言った。
そこにはおどけた雰囲気なんて一切なく、真剣なひまりの表情は未来を見据えていた。彼との二人の未来を。
「ねぇ、駄目かな」
「……正直言って、めちゃくちゃ嬉しい。嬉しいけど、でもまだ俺たちにはまだ早いんじゃないか」
「そうかな。結婚すれば二人の時間も増えると思う。私は凛と、これからもずっと一緒にいたい。二人だけの帰る場所が欲しい。帰ってきて、『おかえり』って言って欲しい」
凛は空を見上げた顔を下ろして、視線を地面にやった。
「俺はさ。これから先の人生でひまり以上の人には出会えないと思う。だからこそ、大切にしたい。もっと時間をかけてもいいんじゃないか」
それはそうかもしれない。ひまりは結婚を急いでいるのかもしれない。
しかし結婚相手は彼以外に考えられないし。それは未来でも変わらないだろう。それならば今結婚したところで別に構わないではないか。
そして何より、結婚することで親を安心させたいと思っていた。
「凛は、私意外と結婚するつもりは無いんだよね。お金の事とかは分かっている。でも、結婚したいの」
「俺たち二人じゃあまだ何もできないんじゃないか」
「それでも私は、凛と二人でいたい。家族になりたいの!」
少し張り上げた声が、児童公園にこだました。
「俺たちは世間からみればまだまだ子供だ。俺は責任を取れる自信がまだ芽生えてない。それに家族を養えていける自信がない」
少し沈黙が降りた。そしてひまりがねぇ、と強気に言った。
「ちょっと待ってよ。凛だけが責任を負わなくちゃいけないと思ってない?」
え、と言う凛に更に言葉を重ねる。
「責任ってのはさ、私たちが二人で分け合うもんじゃないの? 養うとか養えないとかじゃない。男だからとかいい。女だからとかはいい。関係ない。確かに結婚は大変だよ? でも責任が凛だけに掛かると思ってない? 私は凛と二人で人生を歩んでいきたい。責任も幸せも、ずっとずっと半分こにしたいの」
想いを伝えると、凛は時間をくれと言って、黙った。そしてわかった、と言った。
「確かにその通りだ。責任は俺だけが負うものじゃない。それに俺はひまりと生きていきたい。これから先も。好きになる人はたった一人だろうな」
だから、と言う。
「うん。結婚しようか」
ひまりは口に手を当てて、目を潤ませる。
「ありがとう」
ひまりは心の底から言った。
学生結婚をするということ、遊ぶことが出来なくなるというのに、それに目もくれず首肯した凛は、ひまりに一途なのだと理解した。
「プロポーズとか指輪とか。改めて俺からやらせてくれ。男なんだからさ」
「そんな時代遅れな事言わなくていいよ。それに、私は凛と一緒にいたいだけなんだから。指輪とかはあってもなくてもいいよ。二人でいられるならさ」
ひまりの部屋と同じような六畳半くらいの部屋で、二人で暮らす。きっと想像したよりもずっと不便ではあるだろうが、そんな切り詰める生活悪くない。
顔を見合って、微笑んだ。凛も微笑み返す。
それから付き合った日のように、互いの手に手を重ね合って、それから指を絡ませた。
自分たちは大人になった。けれど町の風景は変わらない。
それは当たり前のことで、皆が経験することだ。きっと自分たちの身体だけは大人になっても、しかし心はまだまだ若い。
四年が経過した今でも二人の愛の新鮮さは色褪せない。
大人にならなければならないのに、心はいつまでも若いままで。
しかし歳だけは勝手に重なっていく。
だけどそれはそれで、二人にとってはいいことなのかもしれない。
こんなにも愛し合うことができているのだから。
目と目が合った。一瞬、恥ずかしそうに視線を外したのを、ひまりは見逃さなかった。
触れられる距離まで、顔を近づける。
体温や息遣いが肌で感じられるほど、彼は目の前にいる。
瞳を閉じた。
ひまりの唇に優しく、彼の唇が触れる。
その日、二人は初めて唇を重ねた。
どんなキスよりも忘れられないものになると、この幸福感が告げていた。
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