2015年 文化祭後 高木ひまり

 保健室で制服を借りてから、ひまりは数週間ぶりに自教室の前に立つ。

 中からは賑やかな声が漏れ聞こえて、ひまりがその扉を開けるのを躊躇わせた。

 どれだけ待ってもその声が止むことはなく、引き返そうかと思っていると、唐突に肩を優しく叩かれた。

 驚いて身体を跳ねさせて、振り返った。

 そこには学級委員がいた。

「ひまりちゃん、今日いたんだ」

「あ、うん……」

 文化祭委員であるにも関わらず、無断欠席を続けたひまりを咎める様子はなかった。

 少しの沈黙が降りた。教室の中では皆が盛り上がっている。隣のクラスからははしゃぎすぎたのだろうか、微かに叱責の声が聞こえてきた。

「ごめんね」

 学級委員の声はほんの少し震えていた。

「私、あの時どうすればいいか分からなかった。嫌がってたのに、背中押しちゃったなって思って。ひまりちゃんは学校来なくなっちゃうし、凄く申し訳なかった。ごめん」

 深々と頭を下げた。背中まで伸びている長い髪が、だらんと垂れる。

「顔上げてよ」髪が垂れ、つむじが顔を出している頭に言った。「別に気にしてないよ。私が悪いんだから」

 学級委員は顔を上げて、いやいやと首を横に振って否定した。

「私が悪いの」

「私が悪かったんだよ」

 しばらく互いに謝り合ったが、埒が明かず、一旦話を置いておくことにする。

「私、これまでずっと何もしてこなかったから、片付けくらいは手伝いたい。何かできることはない?」

「そうだね。お化け屋敷の外装は剥がし終わって、段ボールが数学準備室に置いてあるから、それを持って行ってもらえると助かるかな」

「うん、分かった。ありがとう」

「ありがとうは私の方だよ」学級委員は微笑んだ。

 ひまりは数学準備室へと向かった。

 全てが良い方向へと向かっている気がした。


 数学準備室には、部屋を埋め尽くすほどの段ボールの山があった。

 重ねられておらず、乱雑に捨てられている。それらを一枚ずつ取り出し、七枚ほど重ねると丁度よさそうな量になった。

 段ボールは校舎裏の特殊ゴミ捨て場まで持って行かなければならない。

 一度外履きに履き替えなければならないため、多少面倒だが、自分から言い出したことであるため、面倒でもやり通す。

 初めは重たく感じていた段ボールも、持っているうちに慣れてきて、四往復したころにはスムーズに運び出しをできるようになった。

 そうして運んでいた時だった。

 校舎裏の特殊ゴミ捨て場で、段ボールを積み重ねていると、後ろに誰かの気配を感じた。

 ぞわりと肌を舐めまわされる感覚を、ひまりは良く知っている。

 恐る恐る振り返ると、そこには文化祭のために髪をセットした、自分に酔った表情をする船山がいた。

 途端、心音がドクンドクンと鳴り出す。

 気温によるものではない、嫌な寒気を感じて鳥肌が立った。

「ひまりちゃん、久しぶり」

 妙に生温い声で言った。

「ひ、久しぶりです……」

 船山はどんどんと近づいてくる。

 閉会式のスピーチが余程上手くいったのだろうか、自分に酔いしれているように見える。そんな彼を見ると、更に鳥肌が立つ。

 嫌がるひまりには目もくれず、ひまりの外面だけを見て近づいてくる。

「最近見なかったね。どうしたの? ゲロ吐いちゃったから、気まずかった?」

「い、いえ」

 ひまりは後退りをする。

 靴のかかとが積み重ねられた段ボールに当たり、一枚一枚が雪崩のように滑り落ちていった。

 地面には虚しく段ボールが広がる。

「どうしてそんなに後ろに下がるの?」

「それは……」

 ひまりの後退と、船山の一歩には大きく差があった。

 どれだけ後ろに下がろうとも、船山との距離は縮まる。

 やがてその手が互いに触れられる距離まで近づく。

 そして肩に、ゆっくりと船山の手が伸びてきた。

「――やめて!」

 その手を掃う。

 校内に声が響き渡った。

 やまびこのように、数回に分けて遠くから自分の声がした。

「……何だよ、それ」

 船山は初めて不機嫌を態度に出した。しかしそれは今までのどんな船山よりもずっと似合っていて、これこそが彼の本性なのだと悟る。

「どういうことだよ?」

 先程までの生温い声はなく、代わって現れたのは恫喝じみた、どすの効いた声だった。

 ひまりの身体は恐怖によって小刻みに震えていた。彼のどこに恐怖を感じているか分からないが、間違いなく言えるのはひまりは船山を恐れていること。

 生徒会長という立場上、暴力を振られないと分かっていても、怖いものは怖い。

 どうしても彼が恐ろしくて堪らない。

 一歩、また一歩と後退りをする。

 少しずつ、少しずつ。

 しかしそれにも限界が来た。

 背中には校舎壁があり、逃げる場所はもうない。戸惑っている間にも、船山はどんどんと近づいてくる。

 怖い。どうしよう。

 どうすればいい。

 彼が何か声を荒げて言っているが、ひまりにはもう聞き取る余裕なんてない。

 どうしようもなく彼が怖い。

 怖くて、怖くて堪らない。

 その場にしゃがみ込んで、耳を塞いだ。

 全てを遠ざけるように、その小さな腕で全身を覆った。

 視界が真っ暗になる。

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

 …………ねぇ。

 ……ねぇ。

 ねぇ!


「―――助けてよ!」


 甲高い声がした。

 最後の方は声が掠れて上手く出せなかった。

 先程とは異なり、やまびこは返ってこない。心からの声は虚しく、しゃがれてしまって声が遠くに届かなかった。

 恐怖と絶望で頭がいっぱいになり、何も考えられない。怖くて仕方がない。

 しかし、声は出ずとも、心の声は届いた。

「おい! 入ってくんじゃねぇよ!」

 船山の乱暴な声がした。それは誰かに向けての言葉だったのだが、返事は聞こえなかった。

 返事の代わりに感じたのは、温もり。

 決して他人を貶めるような悪意ではなく、誰かを支配しようとする我欲ではなく、確かに守ろうとする、大切に想う愛の温もり。

 その大きな身体からの温もりが、恐怖に怯え切ったひまりの身体を暖め、自らを守ろうとして作った氷を溶かしていく。

 恐怖で真っ暗になった視界は、次第に白みはじめる。

 やがて視界は開ける。

 そこも真っ暗だった。

 しかし異なるのは、確かな愛を感じるということ。

 彼の胸の中だった。

「不安にさせてごめんな」

 声が出ないのも同じだ。

 でも、恐怖と安心では、理由は正反対だ。

 安心して、声を出せなかった。

 でも、いいんだ。

 瞳に暖かなものを感じる。

 閉じた瞳からぽろぽろと溢れるのは、「ありがとう」。

「ありがとう」が溢れて止まらない。

 直前まで身体を支配していた恐怖は感謝へと変わり、ひまりの身体をそこに留めさせた。

 すると、視界が一気に明るくなる。

 そこには立ち上がって、手を差し伸べる凛の姿があった。

「さぁ、行こう」

 凛はいつになく屈託のない笑顔で言った。

 だからひまりも涙を拭って、これまでの人生のどんな時よりも屈託のない笑顔で、彼の手を取った。

 ひまりの身体は軽く、するりと引き上げられる。

 そして手を繋いだまま、凛とひまりは走り出した。

 顔に当たる風が気持ちいい。

 流れる涙を、風景を、嫌なことを全て置き去りにするように、ひまりたちは走った。

 野次馬の生徒たちからは、歓声や罵倒の声も聞こえた。

 そのさらに後ろからは、追いかけてきている船山の声も聞こえた。

 でも、そんなものはもう気にならなかった。

「ねぇ、凛!」

「何!」

「私たち、浮いちゃうことしちゃったね!」

「別にもういいだろ!」

「確かに。それはそうだね!」

 楽しそうに笑った。

 肺が痛い。

 痛くて堪らない。

 喉に空気が入り込んで、ひゅうひゅうと、聞いたことのない音を奏でている。

 きっともう彼らは追っては来てはいないだろう。

 でも、ひまりたちは走った。

 走りたかった。

「何か『青春』って感じだね!」

「何言ってんだよ!」

 凛は視線を向こうの空に向けた。

「まぁ、分からなくもないけどさ!」

 ふと、顔を見合わせる。

 二人の顔は、風の抵抗と疲労から見たこともないほど不細工になって、汗にまみれていた。折角の顔が台無しだった。

 でもそんな顔を、互いに笑い合った。

 やがて疲れて動けなくなっても、互いに笑い合った。


 しばらく走り、誰もいない児童公園に辿り着く。

 へとへとになりながら、何とか脆いベンチに腰かけた。座るとベンチが軋んだ。

 そうして二人で、傾き始めた秋の空を眺める。

 口は結んだまま、じんわりと時間は過ぎていく。

 まぁ、そんな時間も悪くはない。


      *


 日が沈みきった。

 月は欠け、普段とは異なる夜だった。服の上に一枚羽織りたいくらいには肌寒いが、昼間は雲一つなかったため、空一面に星々が煌めいている。これ以上ない星月夜だった。

 すると今まで黙っていた凛が、口を開いた。

「あれが夏の大三角形なのかな」

 西の空を指差して言う。

「夏の大三角形って、夏にしか見えないんじゃないの?」

「でもさ、ほら。見てみろよ」

「どれのこと?」

 ほらと指を差されてても、その先には幾つもの星が輝いていて、どれのことを言っているのか分からない。

「あそこと、あそこと、あそこ。ほら、夏の大三角形」

 指で空に描いて説明したが伝わらない。三角形は彼の頭の中だけに形成されていた。

「星なんてどれも一緒だよ。夏の大三角形なんてこじつけだと思うな」

「そんなこと言ったら星座全部こじつけになるぞ」

「そうだよ。星座なんて全部こじつけだよ」

「夢ねぇな」と、小さく笑う。

 そして凛は一度、ベンチに座りなおした。咳払いをし、背筋を伸ばして、制服の皴を整えた。これから何かをしようというのが分かる。

「……なぁ、ひまり。話があるんだ」

 わざわざ顔を向けて言ったからには、言うべきことがあるのだろう。その表情はいつになく真剣で、心なしか身体が少し震えているように見えた。

 凛が何を考えているか、ひまりにはよく分かった。

 ひまりも、同じことを考えていたから、

「俺と――」

「――ねぇ、凛」

 だからこそ、彼よりも大きな声でその先の言葉を遮った。もし聞いてしまったら、もう二度と戻ることが出来ないと思ったから。

「凛、本当に聞いて欲しい話があるの」

 凛は驚いた表情を見せた後、すぐに真剣な表情へと変えた。

 それは同じ告白だ。

 しかし罪の。

「今から話すことは全て本当の話。私は凛に絶対に嘘をつかない。嘘も誇張もなしに、ありのままの体験を話す。……聞いてくれる?」

「……それくらい大事な事なんだろ?」

 うん、と頷いた。

 どうして彼に言おうと思ったのだろう。それはきっと、彼だからだ。

 生まれ変わってもう十六年が経過しようとしているが、今まで誰にも言ってこなかった。勿論、家族にも。一人の時だって、一言たりとも口に出したことは無い。

 ずっと、抱え込んできた。

 でももう、いいんじゃないか。そう思った。

 だってひまりにはこんなに素敵な人がいるから。これから話すことを受け止めてくれるか分からないけれど、これ以上ないほど惹かれてしまった。

 彼にはひまりという人物を知っていて欲しい。

 彼だから、知っていて欲しい。

 本当の私を。

「私ね、人を殺したことがあるの――」


      *


 そんな衝撃的な話の始まりにも、口を挟むことなく聞いてくれた。

 自分が「秋村翔太」だということ。親父はどうしようもないクズだったこと。そのクズを殺めてしまったこと。引きこもっていたのは人殺しによる罪悪感からだということ、それを言い訳にして、自分は何も出来ない人間だと思い込んでいたこと。

 他、その全てを伝えた。全部、余すことなく。

「……そ、そのうえで、さっきの言葉の続き、言える?」

 自分でも驚くほど、その言葉を言うのが躊躇われた。それはきっと凛に嫌われたくないという心の表れなのだろう。

 そして凛がすぐに言葉を紡がなかったから、つまり拒否されたのだと、ひまりは諦めたように微笑んだ。しかし、

「……それでも。俺は、凛が好きなんだ。だからさ、俺と、俺と付き合ってください!」

 頭を下げて、手を差し出しながら言った。

 想定外だった。あまりにも流れるように言うものだから、ひまりの頬は紅潮していく。自分でも分かるくらいに頬が熱い。そんな真っ赤になった頬を、夜の闇が隠した。

 顔を下に向けている凛も、顔を真っ赤にしているのだろうか。

「付き合う……こんな人殺しの私と? 一人じゃ何もできない私と? 家から出られない私と?」

「そうだ。俺はひまりと付き合いたい」

「どうして?」

「好きだから」

「……何で好きなの?」

「そりゃ、惹かれたから」

「なんで惹かれたの?」

「……ひまりはもしかして、付き合いたくないの?」

 しばらく黙った。

 遠くの方で鳥が鳴いた。公園の後ろの道を、原付が通り過ぎる。

「…………付き合いたい」俯いて、小さく呟いた。「ずるい」と小さく付け加える。意地悪、とも。

 すると身体を、文化祭の時に感じた温もりが包み込んだ。ひまりもゆっくりと、凛の背中へと手を回す。そのままじっと動かない。

「……俺たち、カップル成立だな」

「普通のカップルは、絶対にそんな事言わない」

 顔を見て、笑いあった。

「あーあ。折角のロマンチックな雰囲気が、凛のせいで台無し」

「別にいいじゃん。これから先があるんだし。そういうのはこれから作ってけばいいんだよ」

「まぁそうだね」

 抱擁を解く。

 そして再びベンチに、並ぶように座る。

 どちらからでもなく、互いから手を握ろうとした。視線は空に向けたまま、しばらく指でじゃれあった後、ゆっくりと手を繋いだ。

「これからゆっくりと時間をかけて、二人で過ごしていけばいいんだよ」

 確かにそうだと、心の中で頷く。

 凛の瞳は、未来を見据えていた。

 真似するようにひまりも、凛との未来を描いてみる。幸せな未来。

「……なんか、いいね」

 彼にはきっと、この言葉の意図は伝わっていない。

 けれど夜空を見たまま、幸せそうに笑うのだから、凛との未来はきっといいものになると思えた。

 あぁ、そうだ。きっといいものになるに違いない。

 ひまりはその手を、ぎゅっと握りしめた。

 彼もまた、ひまりの手をぎゅっと握り返した。

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