2015年 文化祭 高木ひまり-1

 次の日も、その次の日も凛は家に来た。

 彼は学校を休んでくる日もあれば、放課後に来る日もあった。

 鈍感なふりをせずにはっきり言うと、凛はきっと自分のことが好きなのだと思う。だからこうして連日家に訪れてくれるのだろう。

 ひまりは別に凛に好意を抱いているつもりは無かった。しかし彼といる時間は心地いいし、家族とは異なる気楽さがある。

 きっとはみ出し者同士、心が通じるのだろう。


 そんなある日のこと、秋雨が降る日だった。

 妙に冷えて冬を近くに感じていると、いつもよりも少し遅い時間にインターホンが鳴った。家主の返答が来る前に玄関を開け、「こんにちは」と大きな声で言う。

 ひまりはリビングにいたが、その声を聞くとすぐに玄関へと向かった。

 初めはどこかうっとおしく思っていたが、今では凛が来ることを一つの楽しみとしていた。引きこもりのひまりにとっては、話し相手になってくれる凛がありがたかった。

 玄関に行き、慣れたように「お疲れ」と言う。

 凛もまた、慣れたように「お疲れ」と返した。

 凛はびしょ濡れの傘を畳んで、高木家の傘と混同しないように靴棚に立てかけた。それから、いつものように「お邪魔します」と言って、そのままひまりの部屋へと向かう。

 少し遅れて「どうぞー」と母親の声がしたが、その時にはもう階段を登り終えていて凛には声が届かなかった。

 そんな彼の後を追って、ひまりも自室へと向かう。

 部屋に入った凛は、まるで自分の家のように横になってくつろいでいる。凛が家に来るようになってから二週間ほどしか経過してないが、まるでずっと前から暮らしていたようだ。

 ひまりはいつものようにベッドに腰かける。後ろに手をつき、体重をかけて楽な姿勢を取る。

 しばらくいつものように、他愛のない話で盛り上がった。

 その後、凛が姿勢を正した。ひまりは何かするのではないかと身構えたが、彼が告げたのは全くもって単純な事だった。

「月末、一緒に文化祭回らないか?」

 もうそんな時期かと思った。文化祭委員はどうなっているだろうか。

 正直言って回りたい。しかし今の自分にはそれができないだけの理由がある。

 凛にはひまりの拒絶反応について言ったことはなかったが、しかし今までの会話から、何となく察していてもおかしくはない。

 それなのに誘ってくれた。一体凛は何を考えているのだろうかと、不思議に思った。そんな彼が次第におかしく思えてきて、思わず吹き出してしまった。

「何だよ。おかしなことでも言ったか?」

 ひまりは笑いの余韻を残して言う。

「いや、本当にデリカシーない人だなって」

「うるせぇ、何も考えつかなかったんだよ」

 視線を逸らし、口を尖らせて言う。

「別にいいんだけどね」と、彼に合わせて笑いながら言った。

「まぁ、その誘いは嬉しかったよ。でも外出るの怖いしさ、一人で楽しんできてよ」

「いいや。俺は当日迎えに来る。行かないって言っても、無理やり連れていく」

「それは困るなぁ」と、笑って言った。

 本当にそれをされたら困ったどころの話ではない。最悪の場合、文化祭色で染められた校舎を、ひまりの吐瀉物で汚してしまう可能性がある。船山に触れられたときのように。

 どれだけ見たいものがあろうと、その可能性がある限りは学校に行くのは怖い。

 ただ少し、灯花の年頃の少女のように、淡い期待を抱いた。

 文化祭当日に凛が現れて、自分を学校まで手を引いて連れて行ってくれる。彼が連れ出したことによって、ひまりは恐怖を抱かなくなる。それは魔法のような夢だ。

 でも少しくらい、魔法に期待してもいいのではないか。

 どうせただの取るに足らない妄想だ。

 どんなに壮大な妄想を広げても、誰も咎めやしないのだから。


      *


 文化祭の日がやってきた。

 気づかなかったのだが、どうやら思った以上に自分は凛が来てくれることに期待しているらしい。心の奥に、むず痒い感覚を覚えた。

 いつもよりも一時間ほど早く目覚めたひまりは、カーテンの向こうから漏れる光から、まだ空に日が昇りきっていないことに気づいた。

 軋むベッドから身体を起こし、久しぶりにカーテンの向こうを覗いてみる。右に見える秋村家は視界に入らないよう、左の空を見た。

 淡い水色と朱色が混ざった空は、今が早朝だということを示している。今日の文化祭は雨が降らなそうだ。自分には関係ないことのはずなのに、どこか安堵を覚えた。

 少しだけ開いたカーテンを再び閉める。

 それからベッドに入り、また眠りにつこうとしたが、意識はずっと現実にいたままだった。

 身体が眠ろうとはしてくれず、そのままベッドから立ち上がった。

 まだ皆が眠っている家を一人で歩いてみる。今までずっと引きこもり生活を続けてきたが、夜中に目覚めることはあっても、早朝に目覚めることはあまりなかった。

 階段を下ると、家の中ではあるが早朝の新鮮な空気を感じる。

 そのすぐ先には玄関がある。

 もしも今日、八時頃に彼が来て、この手を取って文化祭に連れて言ってくれるのなら、きっと自分は嬉しさに舞い上がってしまうだろう。

 この玄関の向こうに連れて行ってくれるのなら。

 少し浮き立つ心を抑えて、リビングへと向かった。そしてそのままソファに寝転んだ。

 自分は平常心であると言い聞かせるため、いつも家で過ごしている時間と変わらない動きをした。つもりだったが、早く目覚めたことが何より期待している証拠だと言うことに、ひまりは気づかなかった。


 騒がしい声で目を覚ました。

 いつの間にか眠っていたらしく、家族の声がした。今日は休日だから、父親の声もした。

 体を起こして、家族におはようと言う。両親からはおはようと返ってきて、灯花からは元気のいい「こんにちは」が返ってきた。

「朝だから『おはよう』だよ」

 朝だからとは言ったものの、今の時間がよく分からない。

 テレビから朝のバラエティ番組の音声が聞こえていたので、そちらに目を向ける。そこにはタレントが食レポをする姿が映し出されており、その上には『八時四十分』と表記されていた。

 ……今の時間が「おはよう」かどうだとか、どうでもよくなった。

 その時間はホームルームが終わる時間で、一限の準備の時間でもある。今日に限っては詳しく知らないが、始業の時間が遅くなることは決してないだろう。

 つまり、ひまりは凛に嘘をつかれたのだ。

 「ねぇねぇ」と健気に身体を揺する灯花がうっとおしく思えて、ソファの背もたれ側に向けて、再び身体を倒した。

 「朝ごはん、食べないの?」と言う母親にも、「要らない」と、冷たく言った。

 裏切られた気分だった。

 いや、初めから凛は冗談を言っていたのかもしれないが、それでも少しくらい自分に都合のいい夢を見てみたかった。

 しかし凛は来なかった。

 そんな現実から目を背けるように、ひまりは再び目を瞑る。

 眠りになんて、つけるはずがなかった。


 眠ったふりをしていると、インターホンが聞こえた。

 あの音は否応なしに意識が向けられてしまうため嫌いだった。インターホンに応じるため、内山さんが玄関に向かう。

 目を開いた一瞬を逃すまいと、灯花が耳元までやってきて、大きな声で「おはよう!」と言う。目を覚まさざるを得なくなり、ひまりは煩わしそうに身体を起こした。

 テレビ番組は先程と同じように流れており、時間表示を見てみれば『九時三十二分』と表記されていた。

 今頃は文化祭が始まっているだろう。しかし自分には関係のないことだ。

 不満をぶつけるように、手前にいた灯花の髪をくしゃくしゃにしてやると、灯花はいつも以上に喜んだ。

 遅めの朝ご飯でも食べようかと、母親のいるキッチンへと向かおうとすると、リビングの入口から顔を覗かせる内山さんに呼び止められた。

「ひまりちゃんにお客さんだってさ」

「えっ?」

 想定外の一言に、素っ頓狂な声を上げてしまう。

 もしもクラスメイトだったら断ってもらおう。いいや、そもそも学校の生徒がこの時間に来るはずがない。なにせ今は文化祭が催されているのだから。

 そうなると尚更、来客者に心当たりがなかった。

「その人って、どんな人?」

「齋藤君って言ってたよ」

 その言葉の意味を理解できないまま、ひまりは玄関へと向かった。

 そこにいたのは、アルバイト先でよく見る男の子で、ひまりが引きこもっていた間、唯一心配をしてくれて、家まで来てくれた男の子だった。

 「よ」と、凛はいつも通り軽い挨拶をした。

 ひまりは挨拶を返さずに、そのまま凛の元へと向かう。

「なんでいるの?」

「そりゃあ約束したし」

「でも今の時間って、文化祭始まってるんじゃ」

「だから迎えに来たんだよ」

 その言葉の意味が理解できず、ひまりは言葉を発することを忘れてしまった。

「俺はひまりと二人で文化祭を回りたいんだ」

 そう言って、凛はひまりに手を差し伸べた。その姿はまるで舞踏会にて「一緒に踊りませんか」と誘う王子様のように見えた。

 ひまりは驚いて言葉を失いながらも、その手をゆっくりと掴む。

 掴んだ手を握られ、ひまりは凛の顔を見た。彼が顔を真っ赤にして恥ずかしそうな顔をしていたから、急に今の状況が恥ずかしいものだと感じてしまい、自分の顔まで真っ赤になる。

「あ、その格好じゃ文化祭行けないから、着替えてきて」

 折角のロマンチックな雰囲気をぶち壊す凛の言葉にきょとんとしながらも、その言葉が何だか馬鹿らしく思えて、ひまりは声に出して笑った。

 そんなひまりを見て、凛も同じように笑う。

 緊張が解けて、凛はお客様として誘ってくれたのだと気づく。

 そして、自分は心の支柱が欲しかったのだと気づいた。家族以外の誰かを欲していたのだ。学校という社会で一人ぼっちで頑張ってきた。でも、もう見栄を張るのは限界だった。

 彼と一緒なら、そのままの自分を曝け出せる気がする。

 もしも自分の罪を問われている感覚に陥り、自らを拒絶してしまっても、彼がいるだけで「大丈夫」と支えてもらえる気がする。

 彼と一緒なら、私は決して取り繕わない、「高木ひまり」として生きていける気がする。

 彼と一緒なら、私は私であれる気がする。

 彼と一緒なら、私はこの先の人生を真っ当に生きていける気がする。

 随分と使い古された表現だけれども――彼こそが運命の人だと思った。

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