2015年 文化祭準備期間 高木ひまり-3
もしかしたら家から出られるのではないかと思った。
以前、引きこもっていた時は玄関の扉を見る度に、心臓が跳ねた。それでも一度は恐怖を押し殺し、外に出ることが出来た。
なら、今も同じ過程を踏めば外に出ることが出来るのではないか。
ふと、そう思った。
灯花と母親は昼寝をしていた。
昼下がりの家は異様に静かで、彼女らの寝息が家のどこにいても聞こえた。しかしそれは荒いいびきのようなものではなく、穏やかな息遣いそのもの。静かすぎるこの家が、音に対して過敏にさせた。
今しかない。ひまりは思い立って、玄関の前に立つ。
その扉はまるで城門の如く巨大に見えて、また異様な雰囲気を放っていた。
つい一週間前まではそこから外界との出入りをしていた。しかし今は自分を遠ざける、敵意を含んだ何かに見える。扉の向こうには悪いものがあるから近寄るなと言われているようだった。
しかしひまりは、その先を知っている。
先に行かなければならないことを知っている。家族のため、そして自分のため。
外の世界はひまりにだけ牙を剥く。自分を理解してくれる人は外にはおらず、家族とは離れて生きていくため、外の世界は孤独だ。どうしようもなく苦しい。一人ぼっちだ。
それでも耐えて生きてきた過去の自分を知っている。
自分には経験があるのだ。その扉の向こうに踏み出すだけで、一歩近づける。昔の自分に戻るのではなく、未来の自分に近づくのだ。
靴下のまま、土間に降りた。そしてドアノブに手を掛けた。
不思議と手は震えなかった。以前とは何かが変わっていると分かり、勇気が湧いた。そしてドアノブを下げて、そのまま力強く前に押した。
世界が広がった。
実際にやってみれば、なんて容易いことだったのだろう。どうして家に閉じこもっていたかが分からないほど、世界が澄んで見えた。
秋の冷たい空気を目一杯吸い込んでみる。久しぶりの新鮮な空気は味がした。裸足のままさらに外に出てみる。
目の前を、高校生が横切った。
ひまりの頭の中には船山が浮かび上がり、親父がクリームと血にまみれて横たわっている光景を連想させた。
いつかの景色と同じだ。
あぁ、分かった。外の世界が怖いのではなく、学生という存在が船山を連想させ、そこから更にあの日を思い出させるからなのだ。
また、自分が人殺しと言われている気がした。
次の瞬間にはひまりは家の中に戻っていた。呼吸は酷く荒れていた。まるでマラソン終わりのランナーのように汗をかき、はぁはぁとリズミカルに身体を膨らませている。
込み上げる胃液を抑えつつ、トイレへ向かった。
自分はどうしても社会に適合できない人間だと、叩きつけられた気がした。
*
数日が経って、ひまりは家にいることに違和感を覚えなくなった。
いつものようにソファで横になり、惰性でテレビ番組を眺めていると、灯花が足を叩いた。応じるように体を起こす。
「ん、どうした?」
「あそぼ」
その言葉が幼稚園時代の嫌な記憶を思い出させたが、表情に出すことは無かった。
「何して遊びたい?」
「でんしゃごっこ」
和室で編み物をしていた母親が「何それ」と笑った。
「電車ごっこって何するの?」
「ぶーぶーのまねするの」
「それ電車じゃないんじゃない? 車じゃない?」
「ぶーぶーはぶーぶーだもん」
そんな風に一見すると意味の分からない会話をしていると、遮るようにバイブレーションが鳴った。ひまりのスマホだった。
手に取ってみると、ひまりにしては珍しい電話だった。「齋藤凛」と書かれている。学校は休んだのだろうか。
「少し待っててね」と灯花に言い、その間に母親に相手をしてもらう。
ひまりはリビングを出て、すぐに電話に出た。歩きながら二階の自室へと向かう。
「もしもし?」
『あ、出た。ひまりだよな』
電話越しで機械音のようではあるが、その声は確かに凛のものだった。
「そうだけど。何かあった?」
『わざわざ心配してやったんよ。死んだかと思ったわ』
一度死んだひまりにとって、本当に笑えない冗談だった。しかし鼻で笑い飛ばす。
「ありがと。それで、なんで今電話かけて来たの? もしかして学校休んだ?」
『一日くらいいいかって。まぁ何より元気そうで良かったわ――』
「え、あ……」
そうして凛の勝手な都合で、電話は一方的に切られた。
一体何だったのだろうとは思いつつも、こんな自分を心配してくれた人間がいたことに、微かに喜びを覚えた。
ひまりが昼寝をしていると、インターホンが鳴った。
眠りを妨げた主に怒りを覚えつつも、わざわざ玄関まで行って様子を見ることは躊躇われた。訪問者の対応は母親に任せて、同じく昼寝をしていた灯花と共に、再び眠りにつこうとする。
しばらく目を瞑っていたが、今度は母親に睡眠を妨げられた。
「ひまり、凛くんって子知ってる?」
リビングの入口から母親が顔を覗かせて訊いた。閉じた瞼を再び開く。寝ぼけて曖昧な頭では、その言葉が何を意味するかを理解するのに五秒も要した。
「……え、凛来てるの?」
「そうよ。かっこいい男の子よね?」
「うん」なんて言えない。返答に困っていると、玄関の方から「何言ってるんですか、お母さん」と照れを隠したような言葉が聞こえてきた。その声は間違いなく、ひまりの知る凛のものだった。
ひまりはまだ眠っていたいと主張する身体を強引に起こして、リビングの入口から先程の母親のように玄関に顔を覗かせた。
凛と目が合うと「よ」と、凛は軽く手を挙げた。
彼は私服を着ており、言葉で言わずとも学校を休んだと分かる。
「何しに来たの?」
「お見舞い」
「別に具合悪いわけじゃないんだけど」
「ゲロ吐いたんでしょ? 大丈夫かなって思ってさ」
そうして話していると、母親が口を挟んだ。
「ひまり。凛くん家に上げないの?」
「別に――」
そこまで言って気づいた。自分が凛に対しては何の躊躇いもなく話せていると言うことに。
「『別に』って上げていいの?」
「あ、うん」そう言ってしまう。
ずけずけと家に上がり込む凛の姿を見ても、ひまりは何とも思わなかった。
そんなひまりを、母親は不思議そうな表情で見ていた。それから考える表情を見せて、最後に何かを察したような笑みを作ってひまりを見つめた。
「いや、別にそんなんじゃないけど」
「いいのよ。若いうちに恋をしなさいって」
そう言って母親はひまりの背中を強く押した。母親の声がどこか浮ついたように感じたのは気のせいではないだろう。
凛を自室へと呼び、二人きりになった。
いつも何の気なしに話していたが、先程の母親の余計な態度も相まって、自分が凛を意識している錯覚に陥る。そうすると途端、彼がかっこよく見えた。
凛は部屋の壁に背をもたれて座っている。手持ち無沙汰なようで、フローリングの繋ぎ目をなぞって遊んでいる。
カーテンの閉まった部屋は、電気をつけてもどこか暗く感じた。部屋を見られることには抵抗はなかったが、陰気な部屋だとは思われたくなかった。そのため、カーテンを開けようとしたのだが、向かいの家のことを思い出すとやはりカーテンは閉じたままがいいと思った。
ベッドに腰かけ、口を結んだまま暇そうにしている凛に話しかける。
「よく家が分かったね」
「久保田先輩に教えてもらったんだ」
以前、バイト先の大学生の先輩に家だけを教えたことがあったと思い出す。その久保田先輩はよく家の住所を忘れずに覚えていたものだと感心した。
「それで何しに来たの?」
「元気かなって」
「元気じゃないからこうして家に引きこもってるんだよ」
「でも元気そうじゃんか」
「家にいる分には大丈夫なの」
「引きこもりだからな」と、凛は笑った。
凛は咳払いを挟んだ。そして真剣な面持ちを作ってから、ひまりを見つめて言う。
「本当に大丈夫なのか?」
どうして引きこもっているのかと、無責任に理由を聞いてこなかったのが、本当に心配をしてくれているのだと分かって嬉しかった。
「大丈夫じゃないかもね」
「まぁ学校に行けるようになったら行けばいいさ。バイト先のみんなもずっと待ってるしな。俺は学校でもバイト先でも待ってるけどな」
「ありがと」
恥ずかし気に小さく呟いた。
そんな風に会話して、一時間ほど経過すると凛は帰宅した。
家族以外との会話は久々だった。他の人ともこんな風にして話すことができたらな、と思った。
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