2015年 文化祭準備期間 高木ひまり-2

 家が恋しく思うのはいつものことだが、あの日からまた家が聖域と化した。

 人が悪魔のように見えた。その一つ一つの動作が、自分を強く責めている気がした。

 今までは自分の自意識過剰だったと思いこむことによって、ひまりは学校という社会に馴染んでいた。

 しかしこうして直接「人殺し」と呼ばれたことは――たとえそれがひまりを指していないとしても、人を恐れる条件には十分すぎた。家族という心の支えを突き破った。

 結局は元通り。

 ひまりは家に引きこもることになった。


      *


 簡単な事ではなかった。

 たった一枚壁を隔てた向こう側に、つい二日前まで自分はいた。

 しかし今は、その壁の向こうが怖い。カーテンを開ければ誰かが見ている気がして、どうしようもなく不安に襲われる。

 自分でもどうしてこうなるのか分からない。だからこそ怖い。自分が変わる瞬間を知ってしまったから、何も考えていなかった時間にはもう戻れないのだと思ってしまう。

 アルバイト先には母親に頼んで、長期の休暇を取ってもらった。彼らは皆優しい人で、負担を増やしてしまうことは物凄く申し訳なかったが、今の自分と触れ合うことで彼らを傷つけるよりはましだと考えた。

 中学時代、家に引きこもっていた時は読書ばかりをして時間を潰していた。

 しかし今はそんな気も起きない。ただ受け身になって観ることのできる、テレビ番組や動画サイトしか視界に入れられなかった。もっとも、その情報は一切頭に入ってくることはないのだが。

 家には母親と灯花がいたから、一人ぼっちで寂しさを感じることは少なかった。それでもどこかへ出かける時は、ひまりは人に恐怖を抱いているため、家に取り残される。そうすると、孤独感に襲われる。

 今もそうだった。一人の時間が早く終わるように願って、ひまりはソファでテレビ番組に目線を向けていた。しかし耳はその音を取り入れていない。

 ただ流れる映像をその瞳に移しているだけ。

 もし画面の向こうにいるタレントが唐突に家に来たのなら、自分はまたあの時のように吐いてしまうのだろうか。なんて番組とは全く関係ない不思議なことを考えている。

 すると玄関の扉が開いた。母親たちが帰ってきたのだろう。ソファから起き上がらなかったが、内心喜んだ。

 ややあって、どたどたと足音が家中に響いた。そのあとに、母親の窘めるような声が聞こえた。そんな二人の姿を音から想像して、ひまりは微笑んだ。

 すると足音がどんどん近づいてきた。十秒もしないうちに、寝転がっていたひまりの上には、灯花が乗っていた。

「お姉ちゃん!」

「おかえり」

「ただいま!」

 灯花は元気よく言った。

 二歳と半年が経過して、随分と大きくなった。日々お腹の上に乗る灯花の体重も増加しているのが分かる。少しだが重たく感じた。

 ひまりは灯花のことを持ち上げると、そのまま体を起こしてソファに座った。そして灯花をたかいたかいしてあげる。

 灯花は笑って喜んだ。五回ほどして二の腕の筋肉がぴりぴりと痛んできたので、灯花をソファの上に降ろす。

「えー、もっとやってよー」

「腕が痛いからまた後でね」

「前はもっとやってくれたじゃん」

「灯花が重くなったからだよ」

「えー」

 口を膨らませて不満を露わにする。そんな愛らしい表情を見ていると、もう一度たかいたかいをしてあげたくなってしまう。しかし二の腕が悲鳴を上げていて、どう頑張っても出来そうにはない。

 「ごめんね」と頭を撫でる。すると灯花の膨らんだ頬からは空気が抜け、目を細めてにこっと笑った。心が癒されていくようだった。

 灯花は何も言わずに走ってリビングを出ていった。数秒ほどして、両手が塞がるほどの買い物袋を持った母親と共にリビングに戻ってきた。

 そしてまたひまりの元へと来て、「たかいたかいして!」と言う。

 「また後でね」と言って、ひまりはソファから立ち上がった。隣で拗ねる灯花をよそに、ひまりは母親の元へと向かう。

「ママ、おかえり」

「ただいま」

「重そうだね。手伝おうか?」

「頼める? これ、冷蔵庫入れておいて」

「分かった」

 ひまりは灯花の体重くらいある買い物袋を受け取った。母親の支えが無くなった途端、買い物袋は重みを増して、重力に負けて身体ごと倒れこみそうになった。

 中のものを傷つけないようにゆっくりと地面に買い物袋を置くと、たかいかたいで使った筋肉が更に痛めつけられた。後ですると言ったものの、だいぶ先の話になりそうだ。

 冷蔵庫を開けて、果物や野菜を入れる。大量に買い貯めをしたためか、買い物袋の底には穴が開いていた。

 すると足元に何かが触れた。灯花だった。

「わたしもやりたい!」

 小さな灯花には冷蔵室は手が届かない。そのため、どうにかしてやらせてあげる方法でもないかと考えながら作業を進めていく。

 その時、ひんやりとした感触が手の甲に触れた。見てみると、アイスクリームだった。

「じゃあ、アイスを入れよっか」

「うん!」

 灯花は元気よく言った。

 アイスクリームは溶けてしまうため、一番に入れなければならなかっただろうが、ひまりは気づかずに野菜から入れてしまった。カップアイスは汗をかいたように水滴が付着していた。

 しかし灯花が入れるには丁度いい。冷凍室は冷蔵庫の一番下にあるため、灯花であっても手が届くからだ。

 灯花はアイスクリームの入った袋を床にひっくり返すと、カップアイスはころころとリビングの方へと転がっていった。それを灯花が取りに行く。

 冷蔵庫前には幾つかのカップアイスとスティックアイスとひまりが残された。

 ひまりはそれを拾い上げて、再び袋の中にしまう。冷凍庫に入れてしまえば、灯花のことだから駄々をこねるだろうと考えたのだ。

 少しして灯花が戻ってくる。その手には転がっていったカップアイスが握られており、歩くたびにアイスクリームがかいた汗が部屋中に飛び散った。

 ひまりは冷凍室を開く。

「はい、入れて。ここだよ」

「分かるもん」

 ぽいと投げ捨てるように入れた。それをひまりは拾い上げて、もう一度灯花に手渡す。

「投げちゃだめだよ。もう一回」

「はーい」

 今度は丁寧に置いた。冷気が顔に当たって楽しそうに笑っている。

 そして床に置かれているアイスクリームの入った袋を拾い上げた。先程まで置かれていた場所はじわりと湿り気を含んでいた。

 灯花は次々とアイスクリームを入れていく。その手つきは随分と手慣れていた。いつもやっているのだろう。

 そうして素早く入れていると、灯花の手が止まった。袋の中からアイスクリームを取り出すと、そのパッケージをひまりに見せつけた。

「これ、わたしの!」

 それは小さな木の実のようなアイスクリームが十個ほど入ったものだった。いくつか味があるようで、パッケージには様々な果実の絵が描かれていた。

「買って貰えてよかったね」

 目線を合わせて微笑みかける。すると、灯花はひまりにアイスクリームの入った袋を「はい」と手渡した。

「あとはやっておいて!」

 ひまりは「待って」と声を掛けたが、その時には灯花は自分勝手に走り出して、ソファに勢いよく飛び込んでいた。そしてアイスクリームを一つずつ、丁寧に口に入れては幸せそうな顔をしている。

 ひまりは受け取った袋をひっくり返して冷凍室に入れた。冷凍室はアイスクリームで溢れた。

 やれやれとは内心思いつつも、表情は緩んでいた。

 そんなひまりと灯花のやりとりを、端で見ていた母親も表情を緩ませる。

 ゆったりとした時間が流れていた。やはり家族はいいものだと思う。現実を忘れて、この時間がずっと続けばいいのにと願った。


      *


 母親はいつものことながら、ひまりが学校に行かなくなったことを無理に咎めようとはしなかった。それは父親である内山さんも同じだった。

 きっと母親が裏で手を回してくれたのだろう。おかげで学校のことや、外に出ることに関して考えなくて済んだ。気が楽だった。

 つくづくいい家庭に恵まれたと思う。

 「高木ひまり」は栄光の道を進んでいたが、あの時の自分は違った。たった数メートルの違いで、まるで天と地のように正反対の人生を歩んで、自分は劣等感に苛まれた。そうして学校に通うことが出来なくなった。

 状況だけならあの時と同じだが、しかし理由が違う。

 何か欠けたものを求めて閉じこもっていたときよりも、人が怖くて閉じこもっている今の方が幾分かましだ。

 きっと自分は一生この症状と付き合っていくのだろう。船山に触れられて、「人殺し」と言われて、気が付いた。やはりあの光景がトラウマになっているのだと。あの瞬間に、一瞬だけだが横たわる血まみれの親父の姿がフラッシュバックした。

 今、道路を挟んだ向こうの家では秋村翔太が引きこもっているだろう。過去の自分と比較してみて、少しは成長できたように思える。

 しかし引きこもっていることには違いない。

 他人から見れば理由なんて関係なく、目に見える「引きこもり」という情報だけで「高木ひまり」の人物像を塗り固めていく。

 自分の知る「高木ひまり」は引きこもらなかったし、もっと可愛かったし、運動も一番だったし、誰よりも頭が良かった。

 でも船山と付き合っていた時期があったのだから、少なからず悩みはあったのだと思う。「高木ひまり」という人物は、恵まれていたからこその苦悩があったのかもしれない。

 苦労の種は違えど、苦労していたことに気づき、今更ながら親近感を覚えた。

 本当に今更。

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