2015年 文化祭準備期間 高木ひまり-1


 窓の開いた教室。窓際の席で肘をついて外を眺めていると、不意に秋を感じた。

 澄んだようで少し冷たい空気、葉は色づいていないものの落ち葉が地面に見え始め、冬へと向かう準備をしている。そんな自然が秋を薫らせるのだろう。

 その時間はホームルームの予定なのだが、教室にはまだ教師が来ていなかった。そのため、教室はまるで休み時間のように騒がしい。

 そしてチャイムから五分ほど遅れて教師が来た。それを見た生徒は一斉に席に着き始める。

 教師が教卓に座ると、学級委員を呼び出して何やら相談をし始めた。いかにも真面目そうな女子生徒だった。

 その学級委員は教壇に上がり、教師は自分の出る幕ではないと言いたげに、教室を後にした。

 学級委員は黒板の右端に、大きく「文化祭」と書いた。

 そういえば来月には文化祭が控えていたと思い出す。ひまりは机に伏せていた身体を起こした。ひまりは高校の文化祭というものに少なからず興味があった。

 生前、ネットを漁っていれば必ずと言っていいほど出てくるのは、文化祭でダンスを踊ったり、熱唱したり、ヲタ芸をする高校生の動画だった。自分とは違う世界の人間がそういうことをするのは分かっているのだが、せっかく高校に来たのだから一度くらいは見ておきたいと思っていた。

 学級委員は黒板に「候補」と書いてから、声を張って言った。

「皆さんには、このクラスの出し物を考えてほしいです。近くの人と考えてください」

 機械のようにそう言って、学級委員は自席へ戻った。

 その十分間は、教室が盛り上がりを見せていた。ひまりにとって苦痛な時間が過ぎた後、学級委員が教壇へと戻る。

「何かいい案はありませんか」

 その問いに様々なものが寄せられた。その一つ一つを、学級委員が丁寧に黒板に書いていく。字は曲がりくねり、普段の授業で教師がどれだけ上手く字を書けているのかが分かる。

 そうしてニ十個ほどの候補が集まった。お化け屋敷やクレープ屋、メイド喫茶などどれも当たり障りのないものばかりだ。

 その後、多数決にてお化け屋敷に決まった。

 どうやらあと三週間もすれば、この教室は廃病院になるらしい。


      *


 秋も本格的に始まり、肌寒さを強く感じる季節になった。遠くの山には所々色付いている葉も見える。

 今は昼休み。ひまりは生徒会室へと向かっていた。

 ひまりはあろうことか、クラスの文化祭メンバーに選ばれてしまった。志願者が少ないため、「どうせ暇だろ」と教師から押し付けられたのだ。断ることも出来ず、まさかこんな面倒な仕事だと思わずにそのまま頷いてしまった。

 主にやることは、企画設計、許可取り、計画作成など多岐にわたる。メンバーは四人いるため、そこまでの重労働ではないのだが、部活動や委員会など、組織に入ったことのないひまりには大変な仕事だった。

 文化祭を月末に控えているため、そろそろ本格的な準備に移行しなければならなかった。お化け屋敷の外壁を担う段ボールを、空き教室に集めるために、生徒会室へと鍵を狩りに向かっている。

 自教室からは少し離れた、旧校舎の三階に生徒会室はあった。

 扉は伝統を感じさせる古めかしさで、ガラスにはテープが張られている。扉の下からは光が漏れており、誰かが会話をしているのが聞こえた。不在ということは無いだろう。

 ひまりは丁寧に二階ノックしてから「失礼します」と言って扉を開いた。

「どうぞ」と、女性の声が聞こえた。

 中には男性が二人、女性が一人いた。そのまま部屋へと入っていく。

 すると、奥から新たに男性が現れた。彼は現生徒会長なのだが、ひまりはその顔をどこかで見たことがあった。ずっと昔に会っていたような。

 彼の顔を見つめる。

 整った顔立ち。きりっとした目に、高い鼻、センターで分けられた髪。校内外でイケメンと話題なだけあって、テレビドラマで見かけてもおかしくないくらいの顔立ちだった。

「どうかしたのかい?」

「あ、いえ。どこか出会ったことがあるかもって思ったんです。気にしないでください」

「そっか」

 にこっと笑った。

 彼はひまりに近寄る。気づけば手を伸ばせば触れられるような距離にいた。

「それで、何の用かな?」

「あ、あの。空き教室の鍵を借りたくて」

「了解、そこにあるから取っていっていいよ」

 口角を上げて笑った。しかしその目はひまりを捉えていた。何かを覗かれている感覚がして、背筋に寒気が走った。鳥肌が立った。気持ちが悪かった。

 目を逸らすように、言われた場所にある鍵を手に取った。

「それよりさ」

「は、はい……」

「キミ、名前なんて言うの?」

 薄ら笑いを浮かべて、さらにひまりに近寄った。その笑みが、その態度が、ひまりには本当に気持ち悪く思えた。しかし彼は先輩であり生徒会長であるため、失礼な態度を取るわけにはいかない。

「高木、ひまりです」

「高木ひまりちゃんね。聞いた通りだね。俺は船山だよ。よろしくね」

「よ、よろしくお願いします……」

 頭を下げて、足早に生徒会室から立ち去った。

 その品定めをしつつ、舐めまわすような視線に耐え切れなかった。直感で、彼は近づいてはならない人物だと察知した。

 

 教室へ帰る途中、ひまりは彼のことを思い出した。

 船山は生前、「高木ひまり」の彼氏だった人物だった。容姿だけでみれば、高木ひまりとは釣り合うだろう。しかし性格だけは不釣り合いなほどに歪んでいる。彼の態度が全てを物語っていた。それは幼稚園時代、周囲を見下していたとある少女と同じ目をしていたから、ひまりにはよく分かった。

 つまり、彼はそういう人間だと。


      *


 教室へ戻ると、学級委員の女子生徒がひまりを待っていた。昼休みの最中であるため、教室には他クラスの生徒も多くいた。そんな中、学級委員長はひまりに近寄ってきた。

「鍵、借りてきた?」

「うん、借りてきたよ。これだよね」

 握りしめていた鍵を学級委員に見せた。そこにはラベルが張られており、「数学準備室」と書かれている。数学に準備することなんてあるだろうか。

「そう、それそれ。ありがとうね」

 ひまりは照れくさそうに頷いた。感謝されることに慣れていない、ひまりらしい反応だった。

「あ、そうだ」

「どうしたの?」

「ひまりちゃん、船山先輩に会ってきたでしょ。どうだった?」

 学級委員はにやにやと口角を上げながら訊く。

 船山先輩にはいい印象を持たなかった。誰かを蔑む視線、誰かをそういう目で見ているのがひまりには分かったから。彼は決して皆が求めるような人間像ではないのだろう。

 しかし皆はひまりのように思っていない。彼はその容姿だけで人気者になったのだ。そのため、濁して言った。

「顔はよかったけど……人柄はちょっと苦手だったかな」

「えーそうなんだ。どこが、どこが?」

 興味ありげに訊いてくる。

「なんか見下されてる感じがして、少し嫌な感じがした」

「へぇ、そんな人なんだね。ありがとう」

 そこまで言ったところで、教室の扉が勢いよく開いた。その音に教室中の視線が一か所に集まる。教室は静寂に包まれた。それは次第に歓声や耳打ちで囁く声に変わっていく。

 そこに船山がいたからだ。

「ひまりちゃんいる?」

 教室の誰に向けたわけでもなく、ひまりに向けて少し大きな声で言った。

 彼の一言で、船山に集まっていた教室中の視線は全てひまりに向けられた。今まで向けられたことのない視線の数に、ひまりはたじろいでしまう。

 すると、学級委員がぽんと肩を叩いて意識を現実に引き戻してくれた。

「ほら、船山さんだよ。用があるんじゃない?」

「あ……うん」

 そうしてひまりは、入り口付近で待つ船山のもとへと向かう。

「あ、いたいた」そう言って、船山は教室の中へとずかずかと入ってきた。一年の教室に三年の先輩がいる姿は異様だった。

「せ、先輩。何か用ですか?」

 少し距離をとって、船山に話しかけた。

「別に怖がらなくていいよ。ひまりちゃんと少し話がしたかったんだ」

「話って、文化祭の事ですか?」

「いやいや。そうじゃない。今日の放課後、一緒に遊ばないかっていう話」

 途端、背筋が何者かに撫でられたかのように寒気がした。やはりこの人は近づいては行けない人だと悟った。

 しかし教室にいる女子はそうではなく、ひまりがあの船山先輩に誘われたという事実に嫉妬や興奮している様子が見られた。「どうしてひまりが」という声も聞こえてきた。

「わ、私はバイトがあるんで、無理です」

「その後でもいいからさ。あ、もしかして人と話せないのを気にしてる?」

「……それをどこで、聞いたんですか……」

 鳥肌が立った。今すぐにでも彼の元から逃げ去りたかった。その事実を知っていてたとしても、実際にひまりに対して言った人物はこれまで一人もいなかった。

 自分のトラウマを掘り返されている感じがして、少しずつ胃の奥に込み上げるものを感じた。久々の拒絶反応だった。しかしこの程度なら、どうにかできる。初めて中学校に行った時はもっと酷かったのだと、自分に言い聞かせた。

「いや、噂だよ。昔、友達を傷つけちゃったんでしょ? でもそんなの大丈夫だよ」

 無責任に、ひまりのことなんて一切考えずに言った。彼の目に入っているのは、「高木ひまり」という人物の皮だけなのだろう。

「別に傷つけただけなんでしょ? まさか――人を殺したわけでもあるまいし」

「い、いや……」胃の奥から込み上がってくる。

「大丈夫だよ、さぁ――」

 船山はひまりの細い腕に手を伸ばした。

 瞬間、物凄い圧迫感に襲われた。

 どうしようもないくらいに全身が苦しい。針地獄に堕ちたような。それでいて身体の中をぐちゃぐちゃに搔きまわされるような。

 ひまりに対してその言葉だけは、絶対に言ってはならなかった。

 次の瞬間、ひまりの足元には吐瀉物が溢れていた。ぴしゃぴしゃと音を立てて、それは留まることなく増えていく。

「うわ……」

 船山は心から蔑んだ目で、ひまりから離れる。その足で教室から立ち去った。

 その間にも足元を覆う吐瀉物は増していく。もう、何も吐き出すものがないくらいに長い間吐いていた。次第に物体を出すことをやめて、苦しみや恐怖が身体の中から湧いてきた。

 生徒たちはひまりに蔑みの目を向けた。


「人に触られて吐くなんて最低」

「それもあの船山先輩でしょ?」

「こいつ、まじ汚ねぇ。折角遊びに誘って貰ったのに、更に可愛がってもらおうとしたんだろ?」

「きも」

「近寄んな」

「クズが」


 ひまりは頭を抱えて、吐瀉物の海にうずくまった。

 ブラウス越しに、自分から出た吐瀉物の温かさを感じる。

 耳を塞いで、その声を聞こえないようにした。誰にも触れられないようにした。幸か不幸か、その吐瀉物はひまりだけの結界の代わりを成した。

 あぁ。私、だめだ……。

 悲しいのか悔しいのか自分でも分からない。ひまりの目からは涙が溢れていた。溢れて、止まりそうになかった。

 怖い。周囲の目が、声が、怖くて堪らない。

 私、どうしていつもこうなるんだろう。


 なんで、なんで、なんで……。

 もう嫌だよ……。


 嘔吐か嗚咽かも分からない。何度も息を吸い上げて、ひまりの苦しそうな呼吸音だけが教室中に残っていた。

 誰一人として、ひまりには近寄ろうとしなかった。

 その後のことはよく覚えていない。

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