二章 境界

2015年 秋 高木ひまり

 フライパンとコンロが擦れる音が絶え間なく聞こえる。キッチンでは人が忙しなく行きかっており、昼食時の賑わいを示している。

 ひまりがオーダーの入った料理を取りに向かうと、また新しいオーダーが入り、フロアへと行かなければならなくなる。

 白のブラウスに身を包み、黒のパンツとスカートを重ね着たひまりは、呼ばれた席の方へと向かった。

「ご注文はお決まりでしょうか」

 カップルらしき二人組は、メニューを開いて「これを二つ」と指を差しながら言った。そこにはクリームがふんだんに乗せられたパンケーキの写真が載っていた。

「承知いたしました。ご注文は以上でしょうか」

「あ、あとイチゴパフェもください」

「かしこまりました。以上でよろしいでしょうか」

 カップルは声を揃えて「はい」と言った。それから注文を繰り返して、間違いがないかを確認してからキッチンへと戻る。

 高校に入学して五か月が経とうとしていた。

 眩い空、油蝉の合唱。涼しい店内の壁一枚向こうは、身体の水分を奪いつくす暑さに覆われていた。残暑が厳しい季節、夏休みは決して自堕落な生活を送っていなかった。

 ひまりは人と関わることにある程度の耐性がつき、日常的な接触ではもう拒絶反応は起きなくなっていた。日常生活は人並みに送れているといってもいい。それでもいつ再発するかは分からないので、数か月前、リハビリを兼ねてカフェでアルバイトを始めた。

 そのとき、内山さんはお金持ちであるため無理してお金を稼ごうとしなくていいよ、と言ってくれた。しかし自分はお金のためでなく、変わるためにやるのだと言うと喜んで許してくれた。小さなころからひまりを見てきた内山さんは、「大きくなったなぁ」と感慨深げに言った。

 そうして許してもらったアルバイト先のカフェは、拒絶反応を起こしている暇がないくらいに忙しかった。本当は少し息苦しさを感じることもあったが、職場の温かさもあって、人に触れることによる拒絶反応を少しずつ克服していっている実感があった。

 高校に入学してひまりは、ようやく学生らしいことができた。

 本当に、両親と灯花には感謝しなければならないと思った。


 店が混雑するのは昼食時だ。そこさえ乗り越えてしまえば、キッチンは二人でも回るしフロアも二人で回せる。

 ここは田舎にある小さなカフェで、各段有名というわけではないがそれなりに繁盛していた。その客の大半は地元の人だ。こんなアクセスの悪い県北の地に来ようという人は少ないが、全くいないという訳ではない。通向けのカフェといったところだろう。

 ひまりは休憩室でコーヒーを頂いて休んでいた。同室には誰もおらず、一人取り残されたような気分になる。

 その時、扉が開いた。

「なんだ、ひまりも休憩だったのか」

「あ、うん。凛も休憩?」

「まぁね。ひまりも夜までシフト入れたのか?」

「夏休みは暇だからね。凛こそ、そんなシフト入れて大丈夫なの?」

「部活は辞めたんだ。集団スポーツは性に合わなくて。やっぱ野球はやるもんじゃないな」

「大変だね」

「いや、別に。今こうして楽しく高校生活を送れるからいいんだよ」

「友達少ないのに?」

「ひまりだってそうだろ。俺くらいしか友達いないくせに」

 こうして冗談を言い合えるほどには、ひまりは普通の人間らしく生活していた。

 凛と呼ばれた人物は、ひまりは不登校を引退した日、生徒指導室で出会った彼だった。あれから一度たりとも話したことも無かったのだが、応募したアルバイト先に後から彼が来たのだ。

 中学生時代の彼は、いわゆる不良と呼ばれるような恰好をしており、素行も悪く、ひまりが知らなかっただけで悪い方で有名だったらしい。彼は頭がよかった。しかし進学校に入学できる学力を持ちながら、その素行の悪さで不合格になった。

 その結果、ひまりと同じ高校に入学した。そして反省し、彼は真面目な生徒に見える格好をした。加えて真面目に授業を受けるようになったのだが、一度不良としてラベリングされた凛は、誰からも近寄られることがなかった。

 それはひまりも同じで、一度不登校とラベリングをされたら二度と剥がれることは無かった。知らない間に勝手にありもしない噂を流されていた。

 その常識は、田舎だからこそ深く浸透していた。

 ひまりは中学校では上手く馴染めず、高校に入学しても面子があまり変わらないため、その印象のままだった。そうして学校という社会からは少し外れて生活していた。

 きっと、はみ出し者同士気が合ったのだろう。ひまりと凛は、アルバイト先で出会ってから急速に仲良くなっていった。

「そういや、もうすぐ学校始まるな。宿題終わったか?」

 凛がスマホを眺めながら訊いた。

「やめてよ。学校のことを思い出しちゃうじゃん」笑って言う。

「ちなみに俺は終わってない」

「……私も」

「なら一緒だな」

 取るに足らない会話ばかりが続いた。

 しかしそれこそが、いつものひまりたちの姿だった。


      *


 二学期が始まった。

 秋口に差し掛かろうというのに、残暑は未だ厳しい。蝉の声や風鈴の音、用水路を流れる水音はまだまだ似合う。

 体育館は密閉空間であるため、サウナのように蒸し暑く、ブラウスの下に着衣しているシャツに汗が染み込んでいくのが分かる。汗腺が広がっていくようだった。

 こうして生まれ変わって初めて気づいたのだが、男子生徒の大半は女子生徒をそういう目で見ているのだ。例えそれがどんなに嫌われている人間であろうと、ひまりのようにあまり好かれていない人間であろうと、男子生徒はブラウスの下を見ようとしてくる。暑くても決して男子生徒のように極限まで薄着を出来ないのが難点だと思い知らされた。

 壇上には校長が立っている。禿げた頭には遠くからでも分かるほど汗が浮き出ており、滑らかな頭に汗が伝う度に懐からハンカチを取り出して拭き取っていた。

 夏休みはどう過ごしたかとか、高校野球が面白かったとか、釣りに行って鯛を釣り上げた話とか、弓道部が県大会準優勝したとか、文化祭が近いとか。

 その話がどうでもよく思えるくらいに体育館は暑い。話の長い校長を恨んだ。

 ようやく始業式が終わり、ひまりは教室へと戻る。

 途中で凛の姿も見えたが、どうしてか学校では彼とはアルバイト先のように話さない。

 そうして自教室へと戻る。

 体育館より幾分かまし程度の暑さ。誰かが窓を開けると、カーテンがなびいた。その後、閉じられた方の窓に蝉が衝突し、ミンミンと鳴きながら落下していった。八月の末、まだまだ夏だ。

 着席して数分ほどして教師が戻ってくる。散らばっていた生徒たちも、急ぎ足で自席へと向かう。この教室の落ち着きのなさが学校らしさを感じさせた。

 教師は無言でプリントを配り始めた。教卓にはプリントの山が二つできていた。未だ夏休みに浮かれている生徒には丁度いい目覚ましだろう。

 すると、前の席の男子生徒が振り返ってプリントを渡してくれた。しかし彼の手が滑り、プリントはひらひらと床に落ちていった。男子生徒は「ごめん」と言い、散らばったプリントに手を伸ばす。ひまりも申し訳なく思い、立ち上がって拾おうとする。

 彼と手が触れた。

「あ、ごめん」

「ごめん」

 平気だった。この程度では拒絶反応は起こさない。

 ともすると漫画の中の、ヒロインと出会うワンシーンのような瞬間ではあったが、以前のひまりならば手を薙ぎ払っていただろう。そうして人を傷つけたこともある。しかし今は、その手に触れても触れたと思うだけだった。

 床に散らばったプリントを集め、埃を払ってから後ろに回した。

 教師は五分ほどかけてプリントを配り終えると、教卓へ戻って話を始める。

 彼の話も校長と同様につまらないものばかりだった。でもこれが学校なのだ。

 同じ年代の誰よりも苦労をしてひまりが手に入れた学校は、誰かと過ごすことを前提とした閉鎖された社会だった。そんな中でもひまりは一人だった。

 つまらなくはあるけれど、高校を乗り越えなければ社会には馴染めない。未来の幸せを考えれば、こんなものは苦痛に感じなかった。


 学校は午前で終わり、そのままアルバイト先へと向かう。

 うだるような暑さが生気を奪っていった。まるでゾンビのような足取りでカフェに向かっていると、横から凛が話しかけてきた。

 天気の話だとか校長の話だとか、特に意味のない会話をしているとアルバイト先へ到着した。

 学校からは徒歩十分以内で向かうことができ、家からも徒歩に十分で着くことが可能だった。ひまりにとっては都合のいい立地だ。

 ひまりたちは店員なので裏口から入る。平日のため客もさほど多くない。今日の仕事は暇になりそうだった。

 更衣室でウエイトレスの制服へと着替える。それから大学生の先輩と入れ替わるようにフロアに入った。

 客は指で数えるほどしかいない。しかもこの時間から好んで訪れるのはご高齢者や主婦が多く、注文も少ない。彼らはただ、涼しくてハイカラなカフェで世間話に興じたいだけなのだ。

 注文も無いため、ひまりはキッチンの方で休んでいる。当然、調理担当も手が空いている。ひまりの隣には凛がいた。

「ひまりはなんでこのバイト始めたの?」

「誰かと触れ合う、っていうか接触するバイトを探してたんだよ」

「何のために?」

 そこまで言って、ひまりは自分の秘密を吐露しかけていることに気づいた。まだ家族以外の誰にも、自分が人に触れることに対して恐怖を抱いていたことは言っていない。ずっと黙ってきたことを、こうも簡単に口にしてしまいそうになったことに驚いた。

 そして取り繕うように言った。

「出会いを求めて、かな」

 凛は「なにそれ」と、鼻で笑った。表情に嘘が表れていないか焦ったが、凛は真っ直ぐ壁を見つめていた。どうやら大丈夫だったようだ。

「そっちは?」

「人と関わるため、かな。俺はこんなだけど、友達がいねぇからな」

「それは分かる気がする」

「なんか失礼じゃね?」

「そんなことないよ」

 ひまりは楽しそうに笑った。

 そうして駄弁っていると、あっという間に時間は過ぎ、二人のシフトの時間は終わった。

 

 そんな風に時間は流れ、一月が経過した。

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