2013年 梅雨 高木ひまり-1

 自分でもはっきりとは分かっていない。

 誰かに触れることを恐れているのか、誰かに触れられることを恐れているのか、誰かを傷つけることを恐れているのか。あるいはその全てか。

 しかし根底にある部分は明白で、親父を包丁で刺したあの日の自分がずっと今も尾を引いている。その血で溢れた映像は、ひまりを家に閉じ込めるには十分だった。

 たった数メートルしか離れていない向かいの家で、あと十年もしたら同じことが起こる。刺すのは自分ではないが、刺すと決めたのは過去の自分だ。それは罪なのだ。人を殺める罪を犯した自分には、この世界は眩しすぎた。

 もしかしたら、ひまりの居場所はここしかないのかもしれない。


      *


 本格的に梅雨が始まった。窓の向こうが暗くなり、淡い紫色のアジサイが似合う日が続いた。部屋に入り込む空気も湿り気を帯びて、じんわりとした汗が肌に纏わりつく。

 ひまりは雨の日が好きだった。理由は単純で、非日常だから。それは生前から変わらない好みで、退屈ゆえに家から望む景色が変わることを願っていた。

 しかし梅雨に限っては違う。雨は日常となり、晴れの日が非日常になる。そのため雨に濡れない家の中であっても、ひまりは憂鬱を感じていた。

 時間を潰すように、ひまりは灯花と遊ぶ。

 赤ちゃん専用の小さな布団で横になっている灯花に、人差し指で触れる。するとくすくすと笑う。くすぐったいのか気持ちいいのか、面白いのかは分からないが、楽しんでいることには違いない。

 その指を灯花の小さくて真っ白な手に移す。すると、産まれたばかりの弱い力で握り返してくれる。今度はひまりが笑顔を見せる番だった。

 それを延々と繰り返す。そんなひまりを、母親はソファで寝転がりながら見ていた。

「灯花可愛いね」

「何が楽しいのか分からないけど、すごく楽しそうだよ」

「ひまりもね」

「ママもだよ」

 なんて言って笑いあう。

 他愛のない会話に充足感を得ていた。それと同時に、自分は手本のような姉にならなければいけないとも実感させられる。いずれ灯花が大人になったとき、自分は十三歳年上の姉だ。人生の先輩として引っ張っていけるだけの姿勢を見せなければならない。

「ひまり」

「ん?」

「今、お姉ちゃんの顔してた」

 母親はにやりと笑った。

「私もお姉ちゃんにならなきゃいけないからね。そのためにも、まずは学校に行かなくちゃ」

「別に無理しないでいいのよ?」

「無理もしないと。ずっとママに甘えてきたんだから」

「そっか。ママはひまりがやりたいことを、応援するからね」

「うん、ありがとう」

 暖かな家庭に包まれた、その幸運を全身で感じていた。


 遠くでインターホンが聞こえ、その音で目を覚ました。

 電気が消されたようで部屋は薄暗い。どうやら触れ合っている間に寝てしまったらしい。顔を横に向けてみれば灯花は気持ちよさそうに眠っており、二人には大きな毛布が被せられていた。部屋を見渡してみると母親はいなかった。インターホンが鳴ったためだろう。

 ひまりは灯花を起こさないように毛布を剥いだ。六月に使うには少し厚かった。肌が少し汗ばんでいた。

 すると、玄関の方から母親に呼ばれた。

 家を訪ねた人物は、どうやらひまりに用があるらしかった。

 リビングの入口から玄関を覗き込むように、顔だけをひょいと出してみた。

 玄関には見知らぬ女性がいて、廊下では母親がその人物と会話をしていた。その女は二十代後半くらいの若さで、体型はすらっとしており、テレビで見るような女優を思わせた。風通しのよさそうなグレーのシャツの胸元にはネックレスが輝いている。そんな人物に一切の心当たりがなかったため、ひまりの中では人と話す恐怖よりも疑問が勝っていた。

「あ、こんにちは。ひまりさん」女はひまりに気づくと寄り添うような声色で、必要以上に礼儀正しく挨拶した。

「こ、こんにちは……」語尾に向かうにつれて、声が消え入る。

 どうして自分の名前を知っているのか、そもそも彼女は一体誰なのか、何をしに来たのか、色々聞きたいことがあったが、ひまりは口を結んだままその場から動けなくなってしまった。

 すると、母親が肩を撫でながら寄り添ってくれた。「家に上げていい?」と訊いた。

 家に他人が侵入したことに対して気が動転したのか、ひまりはうんと頷いてしまった。取り消そうと思ったが、その頃にはその女はもう靴を脱いで、ひまりの傍を通りすぎていた。

 他人との接触はおよそ四年ぶりのことだった。

 

 不思議なことに、その女がテーブルを挟んで向かいに座っているのに、症状は想像以上に落ち着いていた。

 母親がお茶を注ぎ、女に渡した。女は丁寧に礼をした。

 向かいの女は自己紹介をした。木田という教師だった。それを聞けばもう家に来た目的は分かった。つまり、ひまりを学校に来させようというのだ。ひまりとしても不登校を治そうというのだから、別に悪い話ではない。

 意を決して、ひまりは声を出した。

「あ、あの……不登校のことです、か?」

 話していて惨めな気分になりそうだった。ここ数年、家族以外の人間と話したことがなかった。思ったように口が動かなかった。

「そうですね。でも、今はその話は置いておきましょう」

「え?」と素っ頓狂な声が出た。

「別に今すぐではなくていいのです。ゆっくりと、ゆっくりと。いつかひまりさんが学校に来たいと思えた時に、来て欲しいと思ってます。私たちはいつでも待ってますから」

 どこかの誰かの受け売りような言葉と、取り繕ったような笑顔でひまりを見た。「そして今日はその準備をしに来たんです」と付け加えた。

 ひまりとしてはできるだけ早く学校へと復帰したい。しかしまずは仲良くなることからだという。木田という教師はそうはさせてくれないようだった。

 恐らく上から不登校の生徒に向き合いましょう、とでも言われたのだろう。形だけでも寄り添わなければならないのだ。勝手にそう決めつけて、ひまりは木田の話を聞いた。

「さて、ひまりさんの趣味は何ですか?」

「読書、料理……くらい、です」

「へぇ、じゃあ料理だと何が作れるんですか?」

「肉じゃが……?」

「そうですか。私は料理が出来ないので羨ましいです」

 そこまで会話をして、ようやく気付いた。

 思ったよりも自分は他人と話せていると言うことに。木田とは初対面だ。いつもなら、身体が他人を拒絶して動機や息切れを起こすだろう。しかし今は顔をこそ見られないものの、どうにか話は繋がっている。

 ふと、自分は思っているよりも普通の人間なのではないかと思った。だって人と話せて、恵まれた家族がいて、お金があって、家族がちゃんと愛してくれている。ただ自分が他人を拒絶しているだけなのではないか。

 それから雑談を少し続けて、授業があるからと木田は帰った。また時間のある日に来るらしい。

 木田はひまりの得意な人種ではなかったが、話すことが出来た。家から出るきっかけがそこにある気がした。

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