2013年 高木ひまり-2
ひまりはリビングで一人、落ち着かない様子で歩き回っていた。
出産から一週間弱、問題なければ母親は今日帰ってくる。そしてようやく、ひまりは灯花と対面することができる。どちらも楽しみで仕方がなかった。
壁に掛けられた時計は一時を指していた。何時に帰ってくるかを聞くべきだったと後悔したが、別に急ぐわけでもないのでこうしてそわそわと歩き回るしかない。
しばらく歩き回っていると、玄関の鍵が開いた音がした。ひまりはどたどだと家の中を走って玄関へと向かった。そして扉が開く。そこには灯花を抱いた母親の姿があった。身体を労わって、緩やかなワンピースを着ていた。
「ただいま」
母親はいつものように微笑んだ。
「おかえり」
いつもとは反対のやりとりに少し違和感を覚えたが、それは母親の方も同じだったようで「不思議だね」と笑った。その笑顔はいつになく幸せに満ち溢れていた。そんな姿を見ていると、あの時にしっかりと話し合ってよかったと思う。
それから母親は靴を脱いで、家に上がろうとした。しかし両手は灯花を抱えて塞がっており、上手く靴を脱ぐことが出来ない。それを見た内山さんは、両手いっぱいに持った買い物袋を床に置き、母親の靴を脱がせた。
「ありがとう」
「これくらいはやらないと」
そんな些細なやりとりから未来を感じた。そして家庭を感じた。
靴を脱いだ母親は、家へと上がる。すると、今までよく見えなかった灯花の顔が良く見えた。灯花はぐっすりと眠っていて、泣くことは無かったが、今にも壊れてしまいそうな灯花が自分に近づいて、思わず手を引いてしまう。
昨日のこともあって、しばらくは忘れていた人殺しのことを思い出してしまったのだ。
「お家ですよー」と甘えた声で、母親はリビングへと向かっていった。その後を追うように、両手いっぱいの荷物を持った内山さんが歩いていく。さらにその後を追うように、ひまりはリビングへと入った。
ようやく家族四人が揃った。
帰宅してから一時間ほどは準備だけで慌ただしかったが、母親にはひまりを出産した時の経験があった。結局は母親に頼りきりだった。そんな様子を、内山さんと顔を合わせ合いながら、互いに使い物になっていないと笑った。
それから少しして、今は皆が椅子に腰かけて、休憩をしている。
すると母親は灯花を抱きかかえて、ひまりの元へと近づけた。丸みを帯びた顔、この世の汚れの一切を知らない純粋無垢なその身体、まだ真っ白な肌。その全てが眩しい。
「ほら、灯花。お姉ちゃんですよー」母親が言った。
「お姉ちゃんですよ」
緊張からか、普段の口調とはかけ離れたものとなってしまった。なんとなく手を振ってみるが、自分でも分かるほどにぎこちなかった。自分では見えないが、きっと表情も引き攣っていることだろう。
それでも手を振り続けていると、母親はひまりに灯花を抱かせようとした。
「いやいや」
反応を伺うために振っていた手は、否定を意味するものとなった。
「いいのよ。さ、ほら」
そんなひまりに構うものかと、母親は灯花を抱くように促した。ひまりも断ったが、母親は抱くように言う。先に折れたのはひまりの方だった。
優しくその身体に触れた。衣服越しではあるが確かに温もりが伝わった。
自らの穢れた過去を洗い流してくれるかのように清らかで、美しい。こんな手で触れてもいいのか。こんな自分が、人を殺した自分が。ただの一瞬の感情で人を殺せる醜い自分が。
「――あ、ひまり泣いてる」
母親のその言葉で涙が流れていることに気づいた。
それを笑うかのように、灯花が声を上げた。それは言語ではなく、何と言っているか理解できない。しかしそこには一切の負の感情は含まれておらず、ただそのまま感情を表そうとしている。
灯花はひまりの腕の中では泣かなかった。自分の罪が許された気がした。こんな自分でも触れていいのだと、許された気がした。それが更にひまりの頬を涙で濡らした。その無邪気な笑みが大丈夫だよと語り掛けている気がして、尚更涙が止まらなくなる。
そんな中、ひまりの口から出たのは「ありがとう」の言葉だった。
――産まれて来てくれてありがとう。
本当に少しだけれど、親の気持ちが分かった気がした。そんなひまりを皆が微笑みながら見つめていた。その姿は家族そのものだった。
*
この一年で、ひまりの人生は大きく変わった。
母親と内山さんは結婚し、つい先日には灯花も産まれた。この状況は「高木ひまり」の人生とは大きくかけ離れているが、それでも今の生活は生前に比べたらずっといい。やはり人生というものは、環境が左右するのだろう。
いつも一人だった家が賑やかになったということもあるだろうが、母親と内山さんが幸せそうな顔をしているから、自分も幸せに感じるのだと思う。しかし実際のところ、今の自分は幸せなのだろうか。きっと自分は彼らの姿を見て、幸福を頂いているだけだ。
一歩一歩、ひまりなりの人生を進んでいけばいい。
母親は三十六歳で結婚して子供も産んだ。まだ中学生の自分に変わるチャンスがない訳がない。少しずつ、前へと進んでいこう。少しずつ。
その日は一か月検診と呼ばれる、赤ちゃんが生まれてから初めての通院の日で、母親と灯花は家に居なかった。内山さんは仕事で、ひまりは久方ぶりの一人の時間を過ごしていた。
リビングのソファで、今までそうしていたように寝転がって本を読んでいたが、どうにも落ち着かなかった。どうやら自分は思っていたよりも、灯花の存在に元気を貰っていたらしい。今が物凄く寂しく感じた。
そして、母親は出産を機に仕事を辞めるらしい。内山さんと話し合って決めた事だからひまりは何も文句はなかった。内山さんにも「ひまりちゃんが進学できるくらいのお金は十分にある」と言った。優秀だと聞いていたが、見せてもらった収入も物凄い額だった。それは生前の親父と同じくらいの金額であり、年収にすれば四桁を優に超える。
自分の将来の選択肢が大幅に広がった一方で、今の自分は選ぶ段階にいない。いつまでも引きこもっているわけにはいかないのだ。未来の自分のために、そして家族に心配をかけないように、負担を掛けないように、学校に行かなくてはならない。
ひまりはソファから身体を起こした。
何事も初めは小さな一歩から。まずは家を出てみることから始めよう。
ひまりは本にしおりを挟んで、寝間着を脱ぎ、シャツ一枚のまま自室へと向かった。そして私服に着替えるためにタンスを開いた。いつも家にいてばかりのため、寝間着以外の服装に着替えるのは久しぶりだった。
姿見鏡を前にして、モデルの真似事をしてみる。一年ぶりくらいに着た黒いパーカーとデニムパンツ。中学生は成長盛りだ。ひまりも身体は大きくなっており、一年前には丁度良かったパンツが、今では入らなかった。
留め具が閉まらなかったため、恐らくは太ったのだろう。それを認めたくなくて、身長が伸びたせいにしておく。
幾つか着てみたが結局、自分に丁度いいパンツやスカートがなかったため、母親の物を勝手に持ち出してきた。それを着て再び姿見鏡の前に立つ。おしゃれに疎いため、この服装がどんなものかは分からなかったが、少なくともひまりにはそれなりにおしゃれに見えた。
黒のパーカーにクリーム色のラフなパンツ。どれもオーバーサイズだが、逆にそれが流行の最先端を走るモデルのように見えなくもない。腰に手を当てて、ポーズを取ってみる。
ふと冷静になってみると、誰も見ていないのに急に恥ずかしさが込み上げてきた。生まれ変わってからというものの、おしゃれと言うものには手を付けてこなかった。しかし折角顔が整っているのだから、一度くらいはおしゃれをしてみたかったのだ。
今まではおしゃれなんて引きこもりの夢物語だったが、将来を考えて引きこもりを引退しようとしている今、それは現実のものとなりつつあった。
踊る気持ちそのまま、ひまりはスキップをしながら階段を下り、リビングへと戻った。
ただ少し、家の周りの道路を歩いてみるだけでいい。
距離にして百メートルはないだろう。しかしその百メートルまでの道のりが、何よりも遠い。
着替えたひまりは顔を入念に洗い、長く伸びた髪を櫛でとかした。何年かぶりに外に出ようというのだ。折角なら寝間着姿ではなく、少しくらいはおしゃれをしてもいいだろう。
そうして身なりを整えたひまりは、ついに玄関の前へと立つ。いつも「ただいま」を言うこの場所は、「いってきます」を言う場所でもある。
靴を履くのも数年ぶりだった。玄関に自分の靴が無かったため、内山さんがいつも履いているサンダルを借りることにする。
廊下から靴の並ぶ土間へと降りた。
目の前にある扉が、どこまでも遠く感じた。そしてその奥にはきっと未来が広がっている。
しかし足が震えて、動こうとしない。ドアノブに伸ばそうとする手は、勝手に体脇へと戻っていく。この首筋を伝う汗は、梅雨を間近に控えたためではないだろう。
しかし不登校は克服しなければならない。それが義務であると考えると、身体も仕方がないと言うように緊張を解いた。
その腕をゆっくりと、一秒に数センチずつ伸ばしていく。
筋力トレーニングのように緩やかに上昇していく右腕は、疲労からか緊張からか、再び震えだした。肩の前の方の筋肉が焼けるように痛い。でも今、腕をおろしてしまったら、二度とこの扉を開くことが出来なくなる気がして、何かに縋るようにその手はドアノブへと伸びていく。
私はきっと生まれ変わってから初めて藻掻いている。
思えばずっと逃げてきた。人との接触が恐ろしくなって、そ塞ぎこむように家を聖域にした。でもそれは、生まれ変わる前も同じだったではないか。
生まれ変わってからではない。生まれ変わる前から、三十三年の命を通じて、今初めて自分に抵抗しようとしている。
折角生まれ変わったのだ。変わらなければ、意味がないだろう。
もう、こんな自分は嫌なんだ。
手が届いた。ガチャリと音を立てて、ドアノブが下がった。あとは前に力を掛けるだけ。それで自分は前へ進める。
しばらくそうしていた。そのころには汗も乾き、心が落ち着いていた。不思議と身体の震えが止まり、誰かが背中を押してくれたように足が前に出た。
扉は開いた。
世界は閃光に包まれた後、次第に色付いていく。
その先にはいつも窓越しで見ていた景色が広がっていて、まるで夢が現実に現われたかのような感覚を覚えた。目の前に広がっているのは、道路で、民家で、青い空で、ただの日常だ。
ひまりはそれが怖かったのだ。そこを歩く人間が怖かったのだ。
でも今は平日の午後。
誰も通らないその通りは、ひまりには好都合だった。ドアノブから手を離し、さらに足を一歩踏み出してみる。よく知っている景色を自分で歩くことに喜びを感じた。
まるで怪獣が街を踏み荒らすかの如く、小さく緩やかな歩幅で、遅くとも確かに進んでいく。すると屋根の影から身体が出た。太陽がひまりの不健康な肌に突き刺さった。
六月の日差しでもひまりには十分痛かったが、それすらも喜べた。何しろ自力で家を出ることが出来たのだ。大きな進歩だろう。
目の前の世界に見惚れていると、目の前を自転車が通った。
途端、身体が拒絶を示した。身体の奥の方で何かが暴れ出した感覚に襲われ、慌てて家の中へと戻る。
症状は治っていなかった。
その足取りは、今までの遅速を反対にしたように素早く、あれだけ苦労して開けた扉は、いとも簡単に閉じられた。
大きく息を切らして、廊下に横たわる。下半身は土間に伸ばして、揃えられていた靴はひまりによって散らされていた。
呼吸が苦しくて仕方がない。
家から出ようという気はもう二度と湧いてこないだろう。
やはり人殺しの自分なんかが夢を見ていい世界ではないのだ。まるで外の世界から拒絶されたかのように、一人、玄関で横たわっていた。
荒い息遣いだけが残る。
三分ほどして母親と灯花が帰ってくるまで、ずっとそうしていた。
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