2013年 高木ひまり-1

 灯花が生まれた時、ひまりは家にいた。

 本来ならば内山さんと共に病院へ向かう予定だったのだが、どうしても家から出ることは出来ず、灯花がこの世に生を享ける瞬間を見届けることは叶わなかった。

 仕方のないことだと内山さんも言ったが、自分としては一刻も早く家の外に出なければと焦る理由になった。

 母親は一般的に三十五歳以上からといわれている高齢出産に該当した。その時に知ったのだが、ひまりを産んだ時はまだ二十二歳だったのだ。つまり今は三十六歳。生前が男だったからだろうか、母親の年齢を聞いたことがなかったし、聞こうとも思わなかったのだ。

 

 その日の夜、リビングでいつものように本を読んで時間を潰していたひまりは、内山さんの「ただいま」の声色で出産の成功を察知した。本にしおりを挟んで玄関まで走って向かい、義父を出迎えた。結婚してもうすぐで一年になるが、出迎えは初めてのことだった。

「おかえり、内山さん」

「あぁ、ただいま。ひまりちゃん」

 その顔は見たこともないほど疲れていたが、それと同時に嬉しさを隠しきれないでいた。その表情で母子ともに健康であることを察する。

「灯花、ちゃんと産まれてよかったね」

「あれ、誰かから聞いたのか?」

「その顔見れば分かるよ。内山さん、凄い笑顔だから」

「そうか」と、照れながら笑う。

 別に彼のことを褒めたわけでも案じたわけではないのだが、あまりにも幸せそうな顔をするものだから、訂正はしなかった。

 それからご飯を作っておいたよと、リビングへと真っ直ぐ向かわせる。

 結婚してから二人の時間を増やせるよう、隠れて料理の練習していた。生前から数えればおよそ十年ぶりの料理は、食べ物を粗末にした、料理とも呼べない何かだったが、それでも練習を重ねてようやく人が食べることのできる最低ラインを突破した。

 そんなひまりだから、料理を作ったと聞いて内山さんは「ほう」と言って驚いた。

 期待はしないでほしかったが、もし不味くても二人が幸せなら、今日のところはそれでいい。ずっと母親の傍にいた内山さんも労ってあげなくては、母親も悲しむだろう。

 今日は灯花が生まれためでたい日なのだ。


 内山さんとは血の繋がりこそないものの、今では父親として思えるほどには仲が良かった。

 しかし呼称は「内山さん」のままだった。十年以上呼び続けた呼称は、変えようとしてもなかなか変わるものでもない。試しに「父さん」と呼んでみようとしたが、恥ずかしくて言えたものではなかった。だから「親父」と呼んでみると、可愛らしい女性の声には似合わない響きだったし、何よりあの人を想起させる言葉だったらから嫌だった。

 内山さんは内山さんだった。結婚に際して、ひまりがどうしても高木姓がいいと言ったため、内山さんは高木さんになったのだが、色々試した結果、結局「内山さん」に落ち着いた。

 そんな内山さんのためだけに作った料理は、卵とわかめの中華スープと春雨サラダと生姜焼きだ。冷蔵庫にある材料で尚且つ難易度の低いものを、ネットのレシピを見て作った三品だ。

 内山さんは基本、何でも食べてくれるから大丈夫だとは思うが、ひまりは誰かに料理を振舞うことは、前世を含めても初めてだった。緊張で心臓が脈打っていた。

 対面するテーブルに座って、食事に手を付けるのを待つ。

 テーブルにシャツ姿で腰かけた内山さんは、その三品を見るなり「美味しそうだね」と言った。彼は嘘をつくような人ではないので、恐らく本音だろう。もし嘘だとしても、ひまりにとっては嬉しい言葉だ。

 それから腕まくりをして、いただきますと食事に手を付けた。試練に挑戦するような表情はすぐさま幸福の表情に変わった。分かり易い人だ。

 顔に出してから「美味しい」と言った。

「よかった」

 文句の一つも言わず、あっという間に完食した。

 こうして二人きりになることは、この一年の間にもほとんどなかったが、別に気まずさを覚えたりすることなく話すことができた。これが一般に言う「父親」というものなのだろうか。

 ひまりの脳裏には、親父の姿が浮かんでいた。

 今頃は向かいの家で酒とたばこに溺れている彼。結局、ひまりは秋村翔太が生まれる前、スーパーで秋村夫妻と顔を合わせたのを最後に一度も顔を見ていない。生前ではあった翔太とひまりの関わりは無かった。そのため、秋村翔太は父親がギャンブルをしていることはきっと知らないのだろう。まぁ、今の自分には関係ないことだが。

 そんなことを考えていると、ぼうっと全体を据えていた中に内山さんが入り込んできた。

「ひまりちゃん?」

 どうやら険しい表情をしていたらしく、内山さんはひまりの頬をつんと突っついた。

 それは年頃のカップルのじゃれあいのようだった。しかし確かな愛を感じられるそれを、特に嫌と感じることはなかった。強いて言うならば、ここにいない母親が嫉妬するくらいだろう。

 自分には反抗期はないのだろうか。年相応の少女として、一応の反抗期らしい振る舞いはしておいた方がいいのだろうか。一年前、母親との間に僅かに気まずさを感じたのは、コミュニケーション不足による認識の違いが産んだものだった。ひまりはその経験を通じて、話し合うこと、人と関わることの重要性を学んだ。

 年頃の女子として背丈が伸びたり、胸が膨らんだりしているのにも関わらず、年頃の中学生によく見られるような反抗期は、ひまりには訪れなかった。

 母親と父親との関係は、良好過ぎともいえるくらいだった。

「なにかあった?」

 内山さんは優しく問いかける。

「普通の家のお父さんって、こんな感じなのかなって」

「前のお父さんは僕とは正反対だったのかな?」

「まぁそうだね。世間一般的に『お父さん』ってどんな人物像なのかなって考えてた」

「『お父さん』……か。ひまりちゃんは僕のことをお父さんって認めてくれるの?」

「仲のいいおじさんって感じがするけど、でもまぁ私のお父さんは内山さんかな。正直、前のお父さんのことはよく覚えてない」

「家族が一人増えたんだ。僕も父親として認められてて嬉しいよ。正直、認めてもらえないかと思っていた」

「そんな。内山さんは昔から仲良かったのに。私の数少ないまともに喋れる人だよ」

「それもそうか」

 内山さんは楽しそうに笑った。「今日はめでたいことばかりだな」と付け加えて。

 血の繋がった方の父親は育てることを放棄し、母親の前から姿を消して、親父は今頃酒やたばこに溺れて育児を放棄して。

 しかし、今目の前にいる内山さんは真剣にひまりに向き合ってくれている。高木家を家庭として見てくれているのだ。ひまりが知る、唯一まともな父親だった。

 離婚した父親は母親と共に「高木ひまり」を溺愛して育つはずで、そこからは皆から羨まれるような人間「高木ひまり」が生まれるはずだった。

 しかし今の自分には、その影は見えない。

 どこか早い段階で何かを間違えたのだろう。そうでなくては、幼稚園に入学してすぐに父親が出ていくはずがない。他の出来事が記憶の通りに起きて、自分の家庭の周辺では変化が起きているのだ。間違いなく自分のせいだろう。

 一度幸福の形は崩れたが、それでも新たに少しずつ、「高木ひまり」としてではないひまりの幸福が積み上げられ始めていた。

 内山さんとの結婚と、灯花の誕生は、新たな始まりを予感させた。


      *


 母親が入院をしている間、内山さんは病院へ行くため、自然と一人の時間が増えた。

 いつもはリビングでくつろいでいるのだが、初めて出産という儀礼を体感し、直接関わることがなかったが疲労していた。五月に入ろうというのに、温かい布団から出たくなかった。

 そしてようやく正午になって、ひまりはベッドから這い出た。

 自室は二階にある。カーテンは閉じていたが、隙間から漏れる陽光は今日が快晴であることを示していた。

 次女が誕生したことのめでたさを堪能するように、勢いよくカーテンを開いた。それから窓も開ける。一気に部屋が明るくなる。寝間着姿のまま全身で太陽を感じた。

 空を見上げると、真っ青な空に白い雲が疎らに散らされていた。向こうの山の緑が強調されて見えた。やけに景色が明るい。それらは初夏の訪れを感じさせた。

 別に何をすると言う訳でもないが、心が躍った。そうして視線を空から家の中に戻そうという時、あるところに視線が吸い寄せられた。

 窓の向こう、少年がこちらを見つめていた。それは小さな道を挟んだ向かいの家の少年で、ひまりはその人物を誰よりもよく知っていた。

 少年はひまりを見るなり、目を鋭く細め、敵意の含んだ視線を送った。

 まるで自分が人殺しと言われているようで、あの光景がフラッシュバックした。胃の奥の方で液体が押し上がる準備をしていた。

 せっかくの気分が台無しだった。

 その怒りをぶつけるように勢いよくカーテンを閉めると、ひまりはそのままトイレへと向かった。少年の顔を見ることによって無理やり思い出させられた過去は、吐瀉物へと形を変えて現れた。十分ほどして胃の中が落ち着いて、思考を整理する。

 しかし整理の段階であの景色が再び脳裏をよぎり、吐瀉物は再び胃の奥から引っ張り出された。

 太陽が沈むころ、ひまりはようやくトイレから出ることができた。

 顔でも洗おうかと洗面所へ行くと、鏡に映った自分が自分ではなかった。病的に真っ白な顔は冷や汗まみれで、ほうれい線が強調されたような表情。鏡の向こうに、海外映画のゾンビを見ているようだった。

 昨日親父のことを思い出した時には何もなかったのに、どうして今になって吐き気が襲ったのだろうかと思ったが、そんなものは考えるまでもなく少年のせいだった。

 遠い記憶の中で、確かにあんな視線を送った記憶があった。羨望と私怨、そして諦めの含んだ濁った瞳。秋村翔太という人間がどれだけ歪んでいたのかが理解できた。そして今の環境が、たとえ「高木ひまり」とは異なろうとも、一つの幸せであるのだと理解できた。

 秋村翔太にとって、両親がいることが何より大きな幸せなのだから。

 その日は自室のベッドで眠れなかった。いつ見ているのか、常にあんな視線が送られているのかと思うと、まるで吹雪の夜のように身体が勝手に震えた。

 おかしな話だ。だってそれは、昔の自分が行ってきた行為であるはずなのに、将来の自分がそれに苦しんでいるのだから。

「高木ひまり」として生まれ変わっておきながら、何とも滑稽な姿だろうか。

 ひまりは真っ暗な部屋で、自嘲気味に笑った。

 そしてその出来事で理解した。自分はまだ、人と関わることができないのだと。これだけの長い間、家に引きこもっていながら、結局自分は何も変わっていないということ。

 結婚したのも、子供を産んだのも、全て両親だ。

 そうだ。自分は関係ないことなのだ。今の幸せも、ひまりがいてもいなくても変わらず存在しただろう。それ以上に、ひまりがいなければさらに幸せだったに違いない。

 ひまりの手でそのカーテンを開けることは、この先ほとんどなくなった。

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