一章 融解

〜2006年 高木ひまり


 生前、高木ひまりを羨んでいた。

 その美貌があれば、その学力があれば、その運動能力があれば、その環境があれば、その才能があれば……。

 恵まれていることを羨んだが、それと同時にひまりは恵まれ過ぎていたのだと思った。もしも自分が彼女だったら、きっと素晴らしい人生を送っていただろう。

 しかしそれは過ぎた夢物語なのだ。

 だから思った。

 彼女のように幸福で満ち溢れていなくていいから、ただ普通の幸せをください、と。

 しかしサンタクロースはあろうことか、願望よりも妄想を運んでくれた。高木ひまりとして、また初めから人生をやり直す機会をくれたのだった。

 思ってもみない幸運だった。


      *


 やがてひまりは三歳になった。

 生前の記憶は残っており、まだ自分が生まれる前の世界を堪能していた。しかし困ったことがあった。それは、自分が人殺しということだ。

 怒涛の早さでことが進み、あの時は親父を殺したことに対して、自分の保身しか考えなかった。しかし今になって思う。確かに自分はこの手で親を殺したのだ、と。

 母親が愛情を持って包み込むこの柔らかな手で、自分は親を刺し殺したのだ。そんな感情が、ひまりとして生きている中でも消えなかった。血に染まったこの手で母親の純粋な愛情に触れることが申し訳なくなり、その末に自分を嫌悪した。

 言語はうまく発せられないものの、言葉だけは知っているため、両親はひまりを「天才」と呼んだ。実際親バカでも何でもなく、その年で知っているはずのない言葉だったため、このまま何事もなく人生を進めていけば、本当に天才になれたかもしれない。それどころか、この先起こる出来事も大体は知っているため、場合によっては金儲けができるし、預言者にもなれる。

 ひまりは三歳にして、人生における大きすぎるアドバンテージを得た。

 その一方で、年相応の子供らしく振舞うことは、ひまりのプライドを傷つけた。

 きっとどこかで見下していたのだ。この先に待つ、「高木ひまり」として確約された人生の成功と、持ち合わせた生前の知識があれば、その辺りにいる子供たちよりずっと値打ちの高い人間になれると慢心していた。

 しかしその考えこそが、自らの値打ちを下げるということに、その時のひまりはまだ気づいていなかった。

 そのまま傲慢な人間として、ひまりは幼稚園に入学した。


      *


 幼稚園で、ひまりは天才的な頭脳を発揮する一方で「静かな子」と呼ばれた。周囲には誰も寄り付くことはなく、常に一人ぼっちだった。

 叫んでは泣き喚くことを繰り返すしかできない子供たちと、一緒に居たくなかった。教室の隅でぼうっとして、一人でいることが何よりも気が楽だった。それは母親といる時よりも。

 そうして過ごしていたある日の、年少クラスでの出来事だった。

 その日もひまりは教室の隅で体育座りをして、将来の自分について妄想を広げていた。

「ね、ひまりちゃん。あーそーぼ」

 視界に入り込んできたのは、首元まで伸びた髪を右耳上にピン留めした、活発そうな女の子だった。胸元の名札には平仮名で大きく「めぐみ」と書かれている。

「めぐみちゃん、ごめん。私、遊びたくないの」

 子供らしい口調で、しかし冷たく答えた。

「えー。おままごと、たのしいよ。ひまりちゃんもやろうよ。ひまりちゃん、かわいいからママやらせてあげる」

 自分勝手に物事を進めるめぐみに対して、ひまりは大人気なく腹が立った。しかしこんな風に話しかけられることは、それなりによくあることだ。さらに言えばあの時、怒りを鎮められなかったせいで、この手を血で汚した。昂る感情をぐっとこらえて、めぐみに対応する。

 しかし、めぐみもしぶとかった。諦めようとはせずに何度も誘い、その度にひまりは断った。

 同じやり取りを十回ほど繰り返した。するとめぐみは痺れを切らして、ひまりの腕を掴んで強引にままごとに連れて行こうとした。

 それが引き金になった。

 腕に触れられた瞬間、ひまりはめぐみの手を勢いよく振り払った。ひまりの爪が彼女の顎を掠め、左顎から口元にかけて赤く細い線を作る。じわりと血が滲んだ。

 めぐみはひまりを恐怖で染まった瞳で見つめると、その後すぐに大声で泣き始めた。

 こればかりは全て自分が悪いと思った。ひまりは謝ろうと、めぐみの元へ向かおうとするが、「こないで!」と叫ぶ。

 周囲にいた他の園児から蔑みの目を向けられ、先生からも蔑みの目を向けられた。それ自体、特に思うところは無かったのだが、今の出来事でひまりには一つ理解したことがあった。

 誰かに身体を触れられることに、極端に嫌悪を感じるということだった。

 これまでは狭い家という空間で、両親とのみ接触していたため、それに気づくことは無かった。たまに訪れる親戚の付き合いでも、身体に触れられることには嫌悪を持たなかった。しかしめぐみに触れられたことで、唐突にその症状が現れた。

 どうして今、発症したのかは分からないが、嫌悪を感じる理由だけは明確だった。――この汚れた手で誰かに触れたくない、触れられたくない。たった一人、人を殺しただけでひまりの人生観は大きく変わってしまった。

 一体誰がこんな自分に近寄ろうというのか。園児からは避けられ、先生からは見放され、気づけばひまりは、本当の意味で孤立していった。


 この期に及んでも自分が「高木ひまり」であるということで、ひまりは慢心していた。幸福に満ち溢れた未来を信じて止まなかった。

 しかし父親が出ていったことによって、少しずつではあるが気付き始めた。自分の知る「高木ひまり」は、両親に溺愛されて成長するはずだったのだ。

 今のひまりは、「高木ひまり」とは確かに異なる道を歩み始めていた。


 その頃と同時期に、忘れていた事実に気が付いた。

 次第に寒さが増してきて、初冬の訪れを感じる頃、離婚したばかりの母親と共に買い物に出かけていると、出会いたくない人物と出会った。

 生前の親父だった。彼の姿を見ると、母親はひまりの手を引っ張って彼らの元へと連れていった。「行きたくない」と全力で抵抗したものの、子供の力では重荷にすらならなかった。

「こんにちは、秋村さん」

 母親が声をかけると、その夫婦は振り返った。

「あー、こんにちは。文乃さん。こちら妻の陽子です」

「自分で挨拶するからいいですよ。秋村陽子です。これからよろしくお願いします」

 礼儀正しく挨拶をしたのは、生前の母親だろう。写真を見て想像していた通りの物腰柔らかな印象で、目を惹くような容姿をしている訳ではないが、親父が結婚相手に選んだのも分かるくらいには、魅力に溢れている女性だった。

 そしてふっくらとお腹が膨れていた。

 詳しく知らなかった生前の母親の姿を見ることができて嬉しく思った反面、親父の顔は見る事すらできなかった。そんな姿に気づいたようで、母親は顔を逸らしたひまりを、強引に顔を合わさせようとする。

「ほら、ひまり。顔見なさい。達也さんに失礼でしょう」

 親父の名前は達也だったかと思い出したが、今はそれどころではなかった。しかしまたも抵抗虚しく、ひまりは親父の顔を見させられた。ゆっくりと親父の顔を見上げる。

 途端、猛烈に吐き気に襲われた。

 逆流する胃液を喉に感じながら、親父の顔を見た。その向こうには、クリームと血で塗れたあの日の親父の姿が見えていた。自分の罪を突きつけられた気分だった。

 すると親父はしゃがんで、視線を合わせるようにして言った。

 「ひまりちゃんは、僕のことが嫌いなんだね」

 そこには見たこともないほど、幸せそうな笑みを浮かべた親父がいた。

 自分には向けなかったくせに。

「僕たちの子も、こんな可愛い子が生まれるのかな?」

「さて、どうでしょうね。多分、ひまりちゃんほど可愛くはないでしょうけど、私たちの子ですから、きっと世界で一番可愛いですよ」

 秋村夫人は自らの大きく膨らんだお腹を、緩やかに撫でながら言った。

 矛盾だらけの言葉だった。可愛くないと言っているのに、自分の子が一番可愛いなんて一体どういう意味なのだろう。その時のひまりには理解できなかった。

 その言葉に、親父は「そうだね」と幸せそうに頷いた。

「あ、予定日はいつなんですか?」母親が訊く。

「クリスマスです。なんだかサンタクロースからの贈り物みたいですよね」

「ならきっと、とびっきり可愛い子供が生まれますよ」

 そうだ。生前の誕生日は十二月二十四日だったのだ。十年ほど誰にも祝われなかったため、頭の中から抜けていた。

 あの時持ってきた親父のクリスマスケーキにはクリスマスを祝う気なんかなくて、俺の誕生日を祝うためだったのだろう。

 気づいたところで、もう何もできやしないが。

 それからしばらく母親と秋村夫妻で、世間話をして盛り上がっていた。

 楽しそうな秋村夫妻を見ると、罪悪感が湧いてくる。この先の未来を知っているから――その膨らんだお腹の中にいる「秋村翔太」が、二十年後、父親を殺して自分も自殺する未来にあると知っているから。

 幸せそうな二人の顔を見ると、更に心が痛んだ。親父を手にかけたあの光景は、今でも忘れられない。どうしようもなく罪悪感に苛まれて、今すぐにこの場から立ち去りたかった。

 母親の服の裾を強く引っ張って、帰ろうと促す。

「あぁ、ごめんね。ママ話し過ぎたね」

 今だけは年相応の子供のように振舞った。どうしても帰りたかった。

「すみません。お先、失礼しますね」

 母親は笑って頭を下げた後、ひまりの手を引いてその場から立ち去った。

 その際、親父が「子供が生まれたら、うちの子と仲良くしてやってくれないか」と言った。その言葉がひまりの心を更に傷つけた。


 帰り道、ひまりは母親の運転する車の後部座席に、チャイルドシートを装着して座っていた。

 母親は運転をしながら、ひまりの様子をルームミラーでちらちらと確認している。その空気はどこか気まずさを含んでいる。

「ひまり?」

「なに?」

「ママね、ひまりが『帰ろう』って袖引っ張ってくれたの、凄い嬉しかった」

「……どうして?」

「ひまりはさ、あんま喋んなくて、塞ぎがちで、私には何を考えてるか分からない。そのくせに何でも一人で出来ちゃうから、ママは要らないんじゃないかって思ってたの。でもさっき、袖引っ張ってくれて、初めてわがままを言ってくれて、凄い嬉しかった。だからひまり、もっとわがままを言ってもいいんだよ。そのためにママがいるんだから」

 優しく語り掛けてくれた母親に対して、ひまりは黙ったまま、返事をしなかった。

 ルームミラーを見てみると、心なしか母親の瞳が潤んでいるような気がした。母親を傷つけないようにと気を付けていたが、その態度が逆に母親として傷つけていたのかもしれない。

「やっとママらしいことができたなぁ」

 感慨深げに言った。その声は震えていて、ルームミラーにはあの日病院で見た笑顔が映し出されていた。

 そんな母親を見て、本来訪れるはずだった幸せが自分のせいで消えているのだと痛感させられる。

 自分のせいで母親が幸せになれない、それだけは避けなければならないと思った。

 

      *


 結局のところ、人間というものは外面ではなく内面なのだろう。

 どれだけ優れた美貌を持ち合わせていようとも、どれだけ潤沢な財産を持っていようと、その人間の周りには誰も寄り付かなかった。

 「秋村翔太」というどうしようもない人間は、例え生まれ変わろうとも根底にある性質は変わらないのだ。

 

 二〇〇六年、四月。ひまりは小学校に入学した。

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