〜2012年 高木ひまり
母親はひまりを養うために懸命に働いた。
対してひまりはというと、不登校になっていた。
人殺しという事実がひまりが他人と接触する際に、大きな障壁となった。血で汚れた手で誰かに触れることが出来なかった。というよりは己の汚れた手を嫌悪した。
時間経過によって治るだろうと楽観視していたが、それは小学校に入っても治ることはなく、次第に人と会うことが嫌になった。
ひまりは次第に学校に行く回数を減らしていく。でもそれはそれでいいのではないかとも思っていた。世界を見れば、別にそういう人だって多くいるのだから。
そうしていた小学二年のある日、同級生の一人の少女は、教室で突っ伏していたひまりに言った。
「ねぇ、ひまりちゃん」
声をかけられ、顔を上げる。
「どうしたの?」
少女はうーん、やっぱりさ、と前置きをした。
「ひまりちゃん、おかしいよ」
脈絡もなく告げられたその言葉は、全くの悪意を含んでいなくて、だというのに、どんな悪口よりもひまりを傷つけた。
それでも心は大人だと言い聞かせて、どうして? と訊く。
「だってひまりちゃん。みんなからわざと離れてるでしょ? みんなで仲良くしなきゃ。ね? できるならやらなくちゃ」
彼女の言葉はいつだって純粋で、だからこそ刺さる。ひまりは、そっか、と小さく言った。
「ごめんね」
それは彼女に対してであり、「高木ひまり」になれない自分にでもあり、何より得るはずだった幸福のかたちを壊してしまった母親への謝罪だった。
「本当にごめん」
これ以上そこにいると、私は壊してしまいそうで。あの日のように、その全てを。
それからひまりは家に籠った。
意志とは関係なく身体が拒絶をして、学校に行けなくなったのだ。
母親はひまりが学校に行かなくなった理由を聞かなかった。いつか話してくれることを待ち続けた。
人との接触を断てば、多少はましになるかもしれない。そんな根拠のない楽観を続けているうちに、年月はあっという間に過ぎていった。
二〇一二年、四月。ひまりは中学校に入学した。
*
もうここまでくれば認めざるを得なかった。
自分は本当にどうしようもない人間で、たとえ「高木ひまり」として生まれ変わろうと、人生を豊かに過ごすことが出来ないのだと。
昼間、母親が仕事に行っている間、ひまりはリビングで寝ころんで、一人で本を読んでいる。読書以外、特に趣味と呼べるものもなく、生前のように銃を撃つネットゲームをしたいとは思わなかった。これは性別による指向の違いなのかもしれない。
また成長していく過程で、親の教育方針によるものだろうか、心も女性に染まっていた。将来恋人を作るのならば、間違いなく男性だ。たった十数年前までは女性に魅力を感じていたのに、女性として育てられて男性を好きになるのだから、やはり環境というものは大切なのだ。
ひまりが男性に触れることができなければ、その変化も無意味ではあるが。
心は完全に女性に染まって、女性として生きることを受け入れた。
しかし思春期だからだろうか、ひまりの心情には変化が起きていた。
母親と会話をすることにほんの少しの気まずさを覚えていた。その理由は物凄く単純で、ひまりが不登校になることで母親に迷惑をかけているのではないかと思ったからだ。
理由は単純だからといって、次の日にひまりが学校に行くことが出来るようになるわけがない。理由は分かっているのに、そのために何をすればよいかが分からない。問題は複雑だった。
そうして本を読んでいると今日も一日が終わる。
学校へ行かなければならないことは分かっているのに、人と触れ合うことが出来ない。上手く会話ができない。
一体、自分はどうすべきなのだろうか。そんな毎日を過ごしていた。
*
今日は暖かな日だった。雲に遮られることのない日差しによって木々が照らされ、やがて訪れる新緑の季節を思わせた。窓から見える景色は春を超えようとしている。
昼間になっても母親がいた。どうしてかと思えば今日は土曜日だった。
ひまりはソファに寝転がりながら、向こうの和室で編み物をする母親を見つめていた。
毎日自分のために働いてくれているのに、自分は何か恩返しできないのだろうか。今もこうして家に居させてもらっているだけで、十分過ぎるほど甘えているのだ。
生前の自分は大人という人間を親父だと思っており、大人になることが嫌だった。しかしこうして二度目の生を享けて、大人とは母親のような人間を指すのだと理解した。
いつかは母親のような、優しくて強い人間になりたい。頼りきりの申し訳なさや感謝もあって、何か恩返しがしたかった。
「ママ」
「ん、呼んだ?」
「何か欲しいものある?」
「そうだねー。ひまりの幸せ、かな」
母親は編み物から目を離さずに、ひまりの質問に答えた。
「じゃあ、私の幸せはママの幸せだ。ママの幸せは?」
「ひまりの幸せ」
「えー、他に」
「私はひまりの幸せが一番なの。それ以上は何もないよ」
今度は編み物から目を離して、ひまりの目を見つめて言った。その目には冗談なんか含まれていなく、真剣そのものだった。その後に向けられた微笑みが痛かった。
「そういえば、その編み物、誰にあげるの?」
「ひまりも欲しい? 言ってくれれば作ってあげるけど」
「そうじゃなくて」と言うと観念したように笑みを浮かべる。
「……そうね、内山さんかな」
「いつも家にくる内山さん?」
「そう。今日もこれから来るのよ」
月に二度ほど、休日になると家に内山さんと呼ばれる男性が来る。
内山さんは母親の学生時代の友人らしく、ひまりが幼い頃からずっと家に遊びに来ていた。その人が今日、家に来るらしい。
ひまりも内山さんとならば、人に触れることのできなくなる前から関わりがあったため、母親と同じように何も気にすることなく話せた。
内山さんは家に来て何かをするというわけではない。ただ、母親と数時間お茶やお菓子を食べながら雑談をしているだけなのだ。
そして、母親は内山さんの事となると表情を緩ませる。きっと母親は、内山さんのことが好きなのだ。だからこうして家に呼んでいる。そして外で会わないのはひまりを心配しての事だろう。
「ママは内山さんが好きなの?」
「そうねー、どうだろう。好きかもしれない。うん、好きだよ。でもママはひまりが一番好き」
「ありがと」
何度も聞いた「好き」を軽く受け流す。
こうして恥ずかしげもなく「好き」と言えるのは母親の強みだ。だからこそ、その「好き」を内山さんに伝えてもいいのではないのだろうか。
ふと和室の方を見ると、母親は再び編み物に集中していた。
少し笑みをこぼしていて、それは乙女の表情だった。
午後になって、内山さんが家に来た。
いつもは二階で昼寝をしている時間だが、今日はたまたまリビングにいたため、久しぶりに内山さんの顔を見た。
「おー、ひまりちゃん。久しぶり。相変わらず可愛いね」
「こんにちは」
少し困った表情で、ひまりは挨拶をした。
内山さんはがたいのいいスポーツ体型で、スポーツマンのように短い髪が特徴の男性だ。大手企業の子会社に勤務している優秀な人らしい。
それから小さな鞄をテーブルの上に置くと、慣れたように椅子を引いて腰を掛けた。
母親はコップにお茶を注いでお椀に乗せ、お菓子の袋を片手に持ち、テーブルまで運んでいる。すると一瞬、よろめいた。
そんな姿を見た内山さんは母親の元へと向かい、手を差し伸べようとする。
「手伝おうか?」
「ううん、大丈夫」
二人のやりとりには余計な気遣いが見られず、まるで熟年夫婦のように見える。幼い頃に離婚した父親とは違い、そこには優しさがあった。
ふと、もし彼が父親だったのならと考えてみた。元気な父親と優しい母親に囲まれて過ごす毎日はきっと楽しいだろう。今は母親に負担をかけてばかりだが、結婚すれば母親の毎日が楽しくなるかもしれない。そして何より、経済的負担が軽減される。
母親と内山さんが向こうで歓談する中、あえて口を挟んでみた。
「内山さんはママのことが好きなの?」
その問いに母親は動揺して、手元からポテトチップスを落とした。床に落ちて、拾おうと母親は立ち上がった。白くて美しい肌が桃色に染まっていた。
「ああ、好きだとも」
しかし内山さんは淀みなく言い切った。
それが更に母親を動揺させた。床に落ちたポテトチップスを拾おうとしているが、動揺からかうまく拾えていない。今までに見たことのない母親の乙女な一面だった。
「ママは内山さんのことは好きなの?」
「それは……好きだけど。そんなこと聞いてどうするの?」
真っ赤になった顔を隠すように、ひまりに問いかけた。
「結婚したらどうかなって。お似合いだと思うよ」
「――いや、ひまりちゃん。僕たちは結婚するつもりはないんだ」
「え……」
唖然とするひまりをよそに、内山さんは立ち上がって説明した。
「文乃はひまりちゃんを育てるまでは、結婚しないって言った。それは僕たちの間の決め事なんだよ。だから僕たちは結婚しない」
それはつまり、ひまりが子供だからということだろうか。少なくともひまりはそう受け取った。自分が不登校だから、自分が未熟だから、自分が何も出来ないから。
それは生まれた時からずっと気を付けていたはずだった。しかし、結局自分は母親の重荷になっていた。
自分のせいで、母親は幸せになれないのだ。
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