2024年 秋村翔太-1

 部屋の窓から見える、向かいの家の女が嫌いだった。


 見る度にむしゃくしゃした。喉元を掻きむしりたくなる。今では接点もないのに、無性に彼女を殺したくなるときがある。

 彼女の名前は高木ひまり。俺とは四つ上だった。

 通る者の目を惹くほどの美貌を持ち、尚且つ成績も優秀な女の子だった。

 家が向かいのため、必然的に彼女の姿が視界に入った。それは記憶のある限りずっと昔から。幼稚園の頃、まだ自分の部屋も与えられていない頃にはよく遊んでいたし、小学校に上がってしばらくは、高木家にお邪魔させてもらったりもした。

 彼女は高校三年生だ。きっと有名な大学を出て、超一流企業にでも就職するのだろう。

 対して自分は、高校受験を間近に控えて学校にも通わず、家に引きこもったまま。一体どこで道を踏み違えたのだろうか。彼女のような幸せな人生とは言わずとも、世間一般的に言う「普通」の暮らしが出来ればそれでよかったのだ。

 でも、この有様ではそんな普通の幸せさえ叶いそうにない。なら、細々と暮らしていけばいい。それでも別に死にやしないのだから。

 いつまでも引きこもっていたら子供のまま成長できないとは知っている。しかし、大人にもなりたくなかった。

 いつかは真っ当な大人に。あんな最低な大人にはなりたくないのだ。

 子供であることを恐れ、大人になることを恐れた俺は、気づけばこの小さな部屋が聖域になっていた。


      *


 五歳の頃まで、俺には母親がいた。

 話によると事故で無くなったらしい。それから俺は、親父の手で育てられてきた。母親を失った二人家族。それでもあの頃は幸せだったのかもしれない。

 母の事はほとんど記憶に残っていないが、父から聞いた話と、仏壇に飾られている遺影でおおよその人物像は理解した。誰にでも手を差し伸べる、優しい女性だったらしい。

 小学校に上がる頃には、親父も一人で育てることに慣れたようで、俺に構ってくれるようになった。

 「翔太、何が欲しい?」それが口数の少ない父親の口癖だった。

 彼はエリート街道を進み、国立大学の大学院を卒業してから地元に戻ってきて、電車で一時間かけて有名企業に通っていた。そこでも彼はエリート街道を進み、三十の若さにして管理職へと上り詰めた。金は潤沢にあった。同年代の平均年収の倍以上は稼ぐ、本当に選ばれた人間だった。

 仕事においてきっと誰よりも優秀で、器用だったのだろう。

 そんな親父は、俺が欲しがった全てを与えてくれた。金があるから食うには困らなかったし、将来は私立大学の医学部受験ですら平気だと言っていた。当時の俺からしてみれば理解のできないものだったが、成長した今ならその凄さがよくわかる。金だけはあったのだと。

 何でも買い与えてくれる親父が大好きだった一方で、日に日に帰りの遅くなる親父が心配だった。授業参観さえ来ることのできない親父はきっと忙しいのだと言い聞かせた。

 そして友達の多くない俺は、一人で過ごす時間が増えていった。

 小学五年生になったとき、親父が帰ってこない理由が分かった。パチンコに通い詰めていたのだ。それが分かったのは、向かいの家の高木さんのお母さんに連れられて、高木ひまりと俺と三人で買い物に出た時だった。

 パチンコ店の前を横切ったとき、ふと目に入ったのだ。それが馴染みのある車だったから、一目で分かった。

 家に帰ってきた親父にそのことを問い詰めると、新たな事実が発覚した。数か月前に仕事を辞めていた。つまり親父は一日中パチンコ店に籠って、俺のことを一切見てこなかったということらしい。授業参観も、仕事をしていないのなら来られたはずなのだ。

 その時、小学五年生の俺は思った。こんな大人にはなりなくない、と。

 それから俺は、学校の同級生が眩しく見えた。彼らの無邪気な一言一言全てが俺の胸に突き刺さった。

 そして一番俺の心を抉ったのは、高木ひまりだった。

 どうしてあんなに幸せそうなのだろう。きっと、人生の中で苦労をしたことなんて無いのだろう。誰かを恨んだことも、恨まれたことも。十分な愛を注がれて育ったのだ。

 まるで自分とはかけ離れた存在だと、その全てを遠ざけた。

 問い詰めた次の日から、親父はパチンコに行くことは無くなった。しかしずっと家にいた。俺たち、二人とも。

 俺は不登校になり、親父は引きこもり。

 親父は酒とたばこに溺れて、延々とテレビの前でお菓子を食べては寝てを繰り返す。

 次第に親父はご飯を作ることも無くなり、俺が自分の分だけを作るようになった。

 しかし貯金だけはいくらでもあったから、細々と暮らせば、この先十年は働かずに生きていけた。

 そんな健全とは程遠い少年期を、俺は過ごした。


 そして時間を無駄に消費して、気づけば俺は二十歳になっていた。

 相変わらずの生活だった。俺と親父は同じ家の中で暮らしているはずなのに、まるで互いに他人のように生活していた。


      *


 二〇二四年、十二月二十四日、クリスマスイヴのこと。

 一生忘れられない日になった。

 その日は低気圧の影響で例年以上の雪が降り、窓から見える景色をたった一日で白く染め上げた。ホワイトクリスマスではあるものの、度の過ぎた積雪だった。

 交通機関に遅れが発生し、町の除雪も追いついていない。

 親父はあんななので、仕方なく俺が家の前の除雪をした。流石に買い物に行けないのは困ったからだ。尽きた食料を買い足すために、重たい足を動かして一キロ先のスーパーまで歩いて向かう。

 いつもならば、非日常の始まりである雪は好きだ。しかし今ばかりは、この膝下近くまである雪が嫌いになりそうだった。

 一歩進むごとに雪がぎしぎしと踏みつぶされ、長靴の中に雪が入り込む。長靴は役割を果たせていない。暖かな靴の中は、侵入した雪によって急速に冷やされていく。どれだけ服を重ねようと、コートを着ていようと、足先が冷える事には敵わない。俺の体温をじりじりと奪っていく。

 雪というものはふわりと浮きながら降り注ぐのに、いざ地面に積もればまるで岩のように重たくなる。一歩一歩に力を入れなければ、上手く歩くことができなかった。

 いくら雪国とはいえ、ここまでの雪を体験したことは無かった。昨年と一昨年の暖冬が、雪の感覚を鈍らせたのだろう。その暖冬は異常気象のせいだという。ならば、この豪雪も異常気象のせいなのだろうか。

 そうして歩いていると、だんだんと息が切れてきた。運動不足の俺にとって、たった一キロの道のりが雪道に変わることで大運動になっていた。

 クリスマスだというのに町は薄暗く、普段以上に静かだった。しんしんと降る雪は視界を真っ白に染め、手前五十メートルほどまで視界を制限していたが、遠くで光るイルミネーションだけはよく見えた。何かの店かと思えば、ただの一軒家だった。

 そんな幸せそうな景色を見て居たくなくて、視線を空に向ける。

 白い空から白い雪が降り注いでいた。ため息をつくと、吐息が白く空気に溶け込んでいく。そんな白だけの世界が、頭上にはあった。

 キラキラしたイルミネーションや、夢を運ぶサンタクロースは存在していない。

 自分の全てを雪で染め上げて、全てなかったことには出来ないだろうか。そうしたら、また一からやり直せるのに。

 誰も知らない土地で一人きり。大金なんて要らない。アルバイトでもしながら楽しいことを見つけて、日々の些細な幸せを生きがいにして、細々と暮らしていきたい。

 ニ十歳の無職の男は、サンタクロースにそう願った。


 たった一キロの道のりを一時間かけて辿り着いたスーパーは、外の大雪を忘れ、普段とは全く異なる様相を呈していた。

 中ではよく耳にする定番クリスマスソングを、ベルで演奏したものが流れていた。

 スーパーは、服屋や飲食店などがあるショッピングセンターの中にあった。田舎の中ではそれなりに大きな店舗だ。こんな大雪では誰も外に出ていないと高を括っていたが、実際に来てみれば、カップルや子供連れの夫婦などでごった返していた。

 失敗したなとは思いながらも、人をかき分けながら食品売り場の方へと進んでいく。幸せそうな人を見ると気分が落ち込むので、できるだけ顔を伏せながら歩いた。

 途中、通行人と何度も肩と肩がぶつかり、その度に訝しげな表情を向けられたが、そのどんよりとした俺の雰囲気を見ると、次第に憐れむ表情へと変わっていった。

 浮浪者のように首元まで伸びた髪。くたびれたコートに、濡れた長靴。とてもクリスマスには似合わない格好だ。

 クリスマスケーキ売り場を通りすぎ、おもちゃ売り場を通りすぎ、カップルの集う休憩スペースを通りすぎて、ようやく食品売り場へと辿り着く。

 世間はクリスマスでも、俺の家にはクリスマスなんか訪れない。チキンやポテトには目もくれず、食パンとお茶、それから料理で使う卵や野菜なんかをまとめて購入した。

 そうしてまた、一時間かけて家に戻ろうとした時、視界の横を見知った顔が通った。

 金髪に染まっていたが、その顔を見ればすぐに分かった。高木ひまりだった。

 彼女はテレビで見るモデルのような体型をしており、彼氏と思われる男性と腕を組んで、仲睦まじく歩いていた。彼女はカップルにまみれたこの場所で、一際輝いて見えた。きっと人生の中で、苦労なんてしたことはないのだろう。

 そんな彼女から目を逸らすように、足早に立ち去る。

 やっぱり幸せな人生を送っているのだと、嫉妬に似た、しかしどこかずれた感情を抱いた。


 家に帰ると、親父の車が無かった。どうやら雪かきをして車を出したようだった。

 それから玄関を開いて、冷蔵庫に購入したものを入れるためにキッチンへ向かう。相変わらず、顔をしかめたくなるような嫌な匂いがした。俺が小学五年生の頃から積み重ねたこの酒とたばこの匂いは、深く染み付いて取れない。

 全て冷蔵庫に入れ終えた俺は、自室へ戻ろうとする。

 すると、リビングが少しだけ片付いていることに気づいた。いつもは散乱している酒のボトルや缶が、今日は端に寄せられていた。

 普段見せない足場が顔を覗かせていたため、気づくことが出来たのだが、親父がわざわざ片付けた理由が分からなかった。誰かを家に上げるわけでもないだろう。

 しかし俺の知ったことではない。考えることをやめ、二リットルのペットボトルを片手に、二階にある自室に戻った。

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