第拾伍話  両腕の重み

 それから幾度となく、様々な足音が青年の部屋を通り過ぎていった。


 もう駒でなくてもいい、鼻緒以外の人物に、ひたいの生臭い布を何とかしてもらいたかった。


(だれも来ないな……自分で、やるしかない……)


 何度も何度も、己の利き腕に信号を送った。自分の腕が、こんなにも重たいものだったとは知らなかった。腕の筋肉がブルブルと震え、脳から受け取った信号を忠実に再現しようと、わずかに肩から持ち上げた。


(よし……次は、肘を曲げる)


 まるで建築現場で見かけたクレーンに吊られた、鉄筋素材のように、肘をぶらりと持ち上げた。突然クレーンの糸が切れて、己の拳が腹を打った。


「ぶ!」


 しばし休憩した。落ち込みそうになる自分を、昨日の自分より成長した、すごいぞ、と励まし続けて、もう一度同じことを試した。


 ぶらぶらと不安定に揺れる右腕は、何とか手のひらを青年の顔の上まで運んで、その指先は暗闇を手探りするように、ヨロヨロとおでこまで伸びていった。


(……この辺か? せめて、目を覆う包帯が取れてくれたら……うーん……お? あった! 掴んだぞ!)


 指先に触れたソレを、摘まみあげた。


「やったー!!」


 掴んだ生臭い布を、部屋のどこかにポイと放り捨てた。思わず片手でガッツポーズ。


 さらに自分の喉から元気な声が出たことも嬉しかった。己の体で実現できた達成感に、喜び打ち震える。嫌なことばかり思い出して落ち込んでいた青年にとって、久々に沸いた明るい感情だった。


 リハビリが急激に楽しく思えてきた。


(こんなに早く動けるようになるとは! やつらは不気味な医師団だが、その腕は間違いなく本物だ! これから先、どんなに常識を無視した荒治療が待っていたとしても、乗り越えていこう!)


 真っ暗だった前方に、黄金色の光が見えてきた。それだけ今までの自分の境遇が、辛かったのだと自覚する。


(ああ、駒さんに、疑耳彦君…… 早く会いに来てくれないだろうか。俺の回復ぶりを報告したい! 二人に喜んでもらいたい! いや、片腕を治療してくれた院長でもいい、もう片方の腕も動くようになれば、上半身を起こすことができるかもしれない……そうすれば、点滴じゃなくてご飯が食べられるようになるから、きっともっと回復が速くなるぞ)


 必ずしもそうとは限らない。胃腸が弱りきっている場合、点滴のほうが栄養が取れることもある。


 青年は食べたい物を、次々に頭に思い浮かべた。傍らで食べやすく切り分けてくれる駒もいる。まるで新婚夫婦のよう。張り切りすぎて熱を出した夫を、苦笑しながら甲斐甲斐しく世話を焼く新妻のようだった。


 ふと青年は、自分が独身なのか既婚者なのかが、とても気になってきた。


(もしも俺が既婚者だったら、駒さんとの距離感は、よく考えないといけないな……)


 駒にドン引きされ、「この患者キモ過ぎ」と露骨に顔に出されながら食事を運んでもらうのは、青年にとっても地獄だった。


(そうだ……誰かに聞けばいいんだ。ついでに、スマホも返してもらいたい。あ、充電も頼まないと)


 できることが増えた途端、他人にたくさん用事ができた。できることなら自分でやりたいが、今の自分ではできないことも多い。


(こんなとき、気持ちよく引き受けてくれる人の、なんとありがたいことか……)


 優しい人、親切な人というのは、身近な神様であると青年は悟った。


(口嚇丸君は、頼み事したら嫌な反応するだろうなぁ。舌打ちとかしそうだ。鼻緒は臭いから会いたくないし、触った物が汗と皮脂でねちゃねちゃになりそうだから嫌だ。快く引き受けてくれて、なおかつ誠実な相手は、駒さんと疑耳彦君だけだな。ああ、確実に信用できる相手がいるというのは、こんなにもありがたいことなんだな」


 初対面だらけの不気味な施設で、誠実な人材に出会えるのは幸運なのだと、青年は思った。



 待っていても誰も来ず、青年が「すみませーん!」と声を上げても、やはり誰も来なかった。ナースコールのような物も、手元にない。


 右手をグッパッと開閉し、自主的にリハビリしながら駒たちを待っていると、少し離れた位置に大勢の足音が集合した。


「昨夜は恐ろしかったですね。院長様の破魔の矢が命中してよかったです。それにしても、あんなにたくさん……よほど主人様に、お会いしたかったようですね」


 駒が誰かとしゃべっていた。


「主人様が自力で逃げられるようになるまでは、俺らも引き続きお守りしよう。そうしないと、主人様があいつらに引き込まれちまう」


 疑耳彦であり健一の声だった。


「チッ、なんでこの屋敷は玄関も縁側も開けっ放しなんだよ。俺が院長になったら、ぜってー戸締まり徹底させてやる」


 口嚇丸もいる。


「ウグフフッ! これが院長様のやり方なんだから、アタシたちはおとなしく学んでいきましょう。ウグフフブフッ! 院長様は患者さん全てを、高貴な客人まろうどのように扱うの。ここは患者さんのために入りやすくしているのよ。院長様やアタシたちが戸締りをきっちりしてしまったら、ここは人も野良犬も、誰も入れなくなっちゃうもの〜。ウグブヒヒッ!」


 どれも聞き覚えのある声だった。


(昨日のバケモノを退けてくれたのは、院長だったのか。それにしても、駒さんたち四人は仲が良さそうだな)


 青年は、駒の職場関係が良好で安堵した。もしも駒がいじめられていても、今の青年では為すすべがない。


「それでは、縁側のお掃除を始めましょうね。うわあ、今日も恐ろしい数の手形です」


 駒の怖がる声を、初めて聴いた青年は、包帯の下の目玉をきょろきょろさせた。


(手形? 掃除……?)


 どうやら昨夜の来客たちは、縁側から侵入しようとして、ずいぶんと汚していったらしい。昨晩、雨の中で不気味な声をたくさん耳にした。青年はこれも思い出さないでおきたかった。


(昨日の声たちは、俺を狙っていたのか? 嫌だ、絶対に嫌だ、変な奴らに捕まりたくない。俺はまだまだやれるんだ。自分に期待しているんだ。簡単に自分の体を齧られてなるもんか!)


 青年は自分自身を愛する感覚を思い出した。痛い思いをしたくない、恥をかきたくない、苦しい思いをしたくない、快適に過ごしたい。これは他ならぬ、自分自身のための感情だ。


 四人が拭き掃除をしているらしき、雑巾を絞る水音と、口嚇丸が愚痴を垂れ流しながら悪態をついているのを、青年は黙って聴いていた。掃除が終わった頃合いを見計らって、再び「すみません!」と声をかけるために。


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