第拾肆話  駒じゃない足音

 駒のことを考えていたら、駒の夢を見た。瑞々しいアイドルと見紛うばかりの彼女が、弾む笑顔で青年の手を引き、二人で広大な麦畑を、笑顔で会話しながらひたすら走るという、幸せな夢を見た。


 夢の中だから、どんなに走っても疲れなかった。それどころか半分足が浮いていた状態であった。青年をリードし、愛おしそうに見上げる駒は、常に笑顔で、愚痴や悩みも含めて青年の話を最後までしっかりと聞いてくれて、このままどこへでもついてきてくれて、自分に一切不満を言わなくて……そしてこんなふうに、青年の頭蓋骨にまで振動を与える重たい足音を響かせたりはしなかった。


(なんだよ……せっかく良い夢を見てたのに)


 足音の主は、まだ廊下側にいるというのに、青年の枕元でわざと地団駄を踏んでいるかのようだった。


 さらに部屋の戸を開けるのに大苦戦し、まるで戸を取り外したいかのような豪快な音を立てて、地団駄の主が部屋に入ってきた。ものすごい荒い息を吐きながら。


「グフッ、グフフッ……おはよう、主人様、ウフフッ、ヌフフ……くっさいわ〜この部屋、いいわよいいわよ〜」


 どすーんと枕元に座られて、その地響きに青年の苛立ちが跳ね上がると同時に、今まで自分はわりと丁寧に扱われていたんだと実感した。


(なんなんだ、この……女か男かわからないが、患者に無配慮なヤツは! おまけに、俺が臭いだあ? 風呂に入れないんだから当たり前だろ。患者を傷つけるような発言は慎めよ。そもそも臭いで言ったら、お前もかなり臭いだろ! なんなんだ、この一日運動した後の靴下みたいな激臭は! 汗臭いにもほどがあるだろ。ああ、もっとしっくりする例えを出すなら、まるで体育が終わった後の下駄箱の臭いだ! お前こそ風呂に入ってるのか!)


 枕元に座っている主は、声も足音の調子も、青年が初めて耳にするものだった。


「ほい、湿らせた布よ〜」


 ひたいにビチャンと、生暖かくてずっしりと水を含んだ、ぶ厚い布が置かれた。雑巾のような臭いがした。


「アタシ、鼻緒はなお。主人様の意識が戻らないうちに、お鼻の治療をしておいたわ。ウフ、ウフグフッ、匂いは過去の記憶と深く結びついているのよ。たくさん良い匂いを嗅いで、たくさんいい思い出を作ってね。無事にここを出たらの話だけどね、ウグフフフフッ!」


 鼻緒の思いっきりの吹き出し笑いの弾みで、唾きが飛んできた。


(うげっ!! こ、駒さん早く来てくれ! なんでこんなヤツが今日、俺の熱を下げに来たんだよ! いつも駒さんの役割だったじゃないか!)


 唾が飛んだことを抗議したくても、かすれたうめき声しか出なかった。


「ウフッグフフフ! そんなにアタシが来たのが嬉しいの? やだわぁ、困るわ、アタシ真面目な医者だから〜、主人様とどうこうなる気なんか無いんだから〜。グフフ、グフヌフ! 残念だけど、あきらめてちょうだぁい」


 さっきから鼻緒が笑うたびに、絡みつくような生暖かさの風も吹いてくるのだが、それが鼻緒の鼻息であることに、青年は気がついた。鼻緒は鼻が詰まっているのか、苦しげに鼻呼吸している。しかも喋りながら。


(器用なヤツだな……ツバも鼻息も不快だし、口もめっちゃ臭い……こいつ歯ぁ磨いてんのか……?)


 鼻緒が床を軋ませて、姿勢を変えたのがわかった。青年の顔に、暴風のごとき風圧の鼻息がかかる。顔に空いた二つの小さな穴から発射されたとは思えない勢い、それが青年の上半身全体にかかるという恐ろしい広範囲ぶりに、青年は目の前の鼻緒の造形が、人間ではないと察した。


(いくらなんでも鼻がでかすぎる……)


 まるで頭部全体が鼻のような。


「ウフフ、グフヒヒヒヒ! 良い臭いがするわぁ、皮脂と汗の混じり合った、この人間臭さ……皮膚のほうも順調に定着している証よ〜」


「……」


「皮脂は良いモノよ~。お肌を日差しと乾燥から守ってくれるの。無いと、油を自分で塗らなくちゃだから大変大変。汗も良いモノよ〜。体を熱から冷まそうとして出てくるの。それと、お互いの体臭が気にならない二人は、お似合いなのよ〜キャー! ウグッブフッブフフフッ!」


「唾が、飛、ん」


「あら、くっさい、お口臭いわ〜。もう何ヶ月も歯ぁ磨いてないものね〜、グフ、グフフフッ!」


 なぜそんなに嬉しそうなのか。臭いヤツに臭いと笑われて、朝から青年は最悪な気分だった。なにか文句を言いたくても、声が出ないし、動けない。


(まさか、こいつもリハビリとか言い出すんじゃないだろうな。勘弁してくれ! 早く部屋から出て行ってくれ!)


 不愉快の塊のような圧を、顔の上から感じる。あちこち嗅がれているのか、吸い込まれてゆく空気の流れを感じた。


「ねえ主人様、ここを出たら、やりたい事はある? グフフッ、きっとこれから、やりたいことが頭に溢れて止まらなくなるわよ〜。以前ここで元気になられた主人様は、食べたい物の名前で頭がいっぱいだったそうよ? 刺身、焼いたお肉に、塩気たっぷりの焼きそばに……手足の訓練は辛かったようだけど、ここを出たらご馳走を食べまくるんだって、いつも息巻いていて一生懸命だったわ。別の主人様は、お子さんに会いたがってた。そして、やりたい事があって必死に努力した主人様たちは、みんな回復が早かったの。とても原始的な欲求が、体の回復を早めるのかもしれないわね」


 原始的と聞いて、青年には思い当たる節があった。


(過去に出てきた美女ばかりを思い出すんだが、あれは俺の原始的な欲求なのか……? 出会ってきた美しい女性たちを思い出してしまうから、辛かった記憶まで芋づる式に引っ張り出してしまったのかもしれない。それなら、この先は別の欲求で自分を鼓舞しなければならないぞ。たとえば……えーと……そうだ、俺も食べ物に移行しよう。ここを出たら寿司をたらふく食べまくるぞ。回らない寿司屋のカウンター席で、知っている名前のネタをかたっぱしから注文してやる!)


 きらりと脂を光らせる寿司ネタたちを想像したとたん、からっぽの口に唾液が染み出し、急にひもじくなってきた。


 お腹が鳴った。


 鼻緒がおもしろそうに笑いながら、また枕元に座り直した。


「駒ちゃんがね、主人様のために食べやすいご飯を作ってくれるそうよ。病人食ばかりになると思うけど、要望があるなら、伝えときなさいな。作ってくれるかもしれないわよ~。ウグフフフフ!」


「……」


 青年は、わずかにうなずいた。鼻緒は、臭いわ唾は飛ばすわで、気分の良い相手ではなかった。しかし、不思議と楽だった。


「それじゃ、アタシもう行くわ。たまにだけど会いに来るわね~ん、ウグフフブフ!」


「……」


 青年はひたいの上の生臭い布の存在を思い出して、やっぱり不愉快が勝った。


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