第拾参話  一喜一憂

(あの魑魅魍魎とかいうヤツらは、俺を狙ってきたのか? こんな俺を……? こんな、ゴミみたいな俺を……)


 幼少期から大学時代までの陰鬱な記憶を取り戻した青年だったが、社会人になって以降の記憶が、まだ思い出せていなかった。


 ここで看病されている経緯も、わからないままだ。


(俺は褒められた学生生活は送れなかったけど、その後はどんな大人になったんだろう……結婚はしているのだろうか、子供はいるのだろうか、親は今どうしてるんだろうか。今俺を心配してくれている人は、何人いるんだろうか)


 せめて親には連絡したかった。だが手元にスマホがない。そもそも己の荷物どころか、裸を包帯で巻かれているだけだった。


 辺りは静かで、時おり風鈴が鳴っていた。


(風鈴と言えば、勇気を出して夏祭りに誘った、あの人は……誰だっただろうか)


 高校時代は佐伯さん、大学時代はヤンキー集団、では、風鈴の形をしたりんご飴を持っていた彼女は――


 トコトコと廊下を歩いてくる、誰かの気配が、近づいてきた。手桶に水を入れているらしき、チャプチャプと音もする。


「主人様、駒です。遅くなりました」


 扉が開いて、駒が入ってくる音と衣擦れが鳴る。


「おでこの手ぬぐいを取り替えますね」


 駒が青年の枕元に座る。


「あら、載せてた手ぬぐいが、こんなところまで飛んでいますね。拾っておきます。今日は、体を動かす訓練をたくさんがんばったそうですね。疑耳彦さんから聞いていますよ」


 駒が立ち上がって、拾いに行った。青年はひたいの上の手ぬぐいが、どこかに吹っ飛んでいることに全く気がついておらず、


「す、すみま、ぜん……」


 反射的に謝罪した。


「いいんですよ。それぐらい元気になったって証拠です」


 駒さんが戻ってきた。その声は、ちっとも怒っていなかった。

 駒が座り直した際、嗅いだことのない生薬の匂いがして、青年は己の変化に気がついた。大きく口で息ができるようになったから、空気と一緒にたくさんの匂いを吸い込み、舌で空気の味も感じるようになったのだと。


(きっと駒さんからは、以前からずっと、いろんな薬の匂いがしていたんだろうな……。本当はフルーツの香りがするヘアスプレーとか、リップクリームとか、おしゃれがしたい年頃だろうに、薬やアルコール消毒の臭いに染まりながら、毎日、様子を見に来てくれる……)


 我慢をおくびにも出さずに、イキイキとした可愛らしい声で患者を励ます、その健気な姿に、胸がしびれた。


(ああ、駒さんの顔が見たい。全体像が見たい。きっと美しい人だ……)


 乾いた手ぬぐいに水を含ませる音が鳴る。


「主人様、きっともうすぐ点滴が外れますよ。おかゆが食べられるようになりましたら、もう点滴は必要ありませんからね」


「はい……」


「ご飯は私が作りますから、好きな食べ物の名前、なんでも言ってください。あ、難しいものは作れませんけどね」


 駒は、茶目っ気たっぷりに笑った。箸が転んでもおかしい年頃、彼女の若々しさが青年の肌に、心に降り注いで、心地の良い日光浴となった。


「体を動かす練習は、とても大変だと思います、でも、どうか続けてください。それだけ治りが早くなるそうですから」


「はい……」


「わからないことがあれば、お医者さん方に遠慮なく質問なさってくださいね。それでは、失礼いたします」


 見えなくても、駒が丁寧に頭を下げたのが青年に伝わった。揺れる前髪の向こうで、うすいまぶたを伏せて、長いまつげを震わせて、心の底から患者の回復を願い、美しいお辞儀をしてくれたのが、青年に伝わってきた。


 駒が立ち上がり、横たわる青年に微笑みながら、ゆっくりときびすを返して、扉の向こうへと消えてゆく、その足音を、青年は聞こえなくなるまでしっかりと耳をすませていた。


(……ああ、早く治りたい。想像の世界じゃなくて、実際にこの目で、彼女の微笑む顔が見たい……)


 微笑む顔 にっこりと広がる形の良い唇の口角 細まる双眸のまなじり


 誰かに似ている。


(そうだ、高校最後の夏祭りに、近所のあの子を誘ったんだ)


 ようやく、となり近所の幼なじみを思い出した。


 近所に住む唯一の女友達だった。ちょうど地域が区切られる位置に家がある少女で、幼稚園から中学まで、青年とは違う学び舎だった。高校と大学もそれぞれ違い、いつも青年とは真逆の通学路を歩いていたため、疎遠だった。


 それでも、思い切って高校三年の夏に、彼女を誘った。たまたまいつもの通学路が下水工事で通れなくなり、たまたま遠回りして、彼女と同じ道を歩くようになった、あの短い期間。すっかり綺麗になった彼女を見かけて――


(行方不明となった彼女は、その後どうなったのだろうか……自分はちゃんと彼女を捜したんだろうか。それとも、佐伯さんのときのように、いなくなった彼女をひたすらに恨んだのだろうか)


 後者だったら、と思うだけで、自分で自分にぞっとした。自分が告白できなかった事実を受け入れずに、彼女を連れ去ったオープンカーの男をねちねち恨みながらの大学デビューだなんて……当時の記憶を必死に思い出そうとしても、一向に頭に出てこなかった。


 自分が何を思い、どう動いたかだけでなく、その結果すら思い出せない。それがたまらなく気持ち悪かった。


(俺はどこまでいっても女性にコンプレックスを抱くだけの、キモい男だったんだろうか。一方的に片思いしては、許せない女性ばかりを人生の中に増やしていくだけの、つまらない男なんだろうか……)


 暗く思い悩む青年の頭に、今すぐ、やりたい事が降りてきた。パッと悩みが吹き晴らされて、顔に強い風が当たった錯覚さえ覚えた。


(そうだ! 俺は過去の自分とは違う男になるんだ! もう惨めな生き方はしたくない。一生独身だってかまうものか。俺は俺のやりたいことを、精一杯ストイックに頑張るだけだ!)


 もう女性など必要ない、そんな生き方をしようと思った……のだが、よくよく考えてみたら自分のやりたいことも思い出せていなかった。


(ああ、もう、どうしたらいいんだ……。もう寝るか。今日はリハビリが過酷だったし、いろいろと思い出して疲れた……)


 青年は大あくびする口に、無意識に右手を添えていた。むにゃむにゃと口を動かしながら、再び右手を布団の上に置く。


 ……ようやく気づいた青年は、無言で右手を動かそうとしたが、微動だにしなかった。


(あの爺さんの意味のわからない芋虫荒治療は、効果があったのか……。それか、俺自身の回復力のおかげかもしれない。なんにせよ、利き腕が動いたのはありがたい! 明日、疑耳彦君か駒さんに報告しよう!)


 明日への嬉しい報告が作れて、ワクワクしてきた。あの二人は、自分の回復を心から願っている。やり直せない過去よりも、明日に待っている二人の明るい反応に、全てを賭けた。


(大事なのは、今だ。今なんだ。今、俺の周りで、俺を大事にしてくれる人たちこそ、俺が大事にしなきゃいけない人たちなんだ。辛くたって、息をして、彼らの笑顔のためにリハビリを頑張ろう!)


 よくぞここまでがんばったと、二人に褒めてもらいたかった。喜ぶ気持ち、嬉しい気持ちを、三人で分かち合いたかった。


 それだけを楽しみに、この静かな夜長を乗り越えようと意気込んだ。その際、体が少し揺れて、おでこに乗っていた湿った手ぬぐいが、少しずれた。


(ああ、駒さん……朝が待ち遠しい)


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