第拾弐話 あの子が欲しかった
高校がやたら多い地域だった。自分の学力で入れる学校で、家から近くて、という条件で絞ったら、たまたま中学で仲良かったヤツもそこを受験するらしいと聞いて、では自分もその高校にするかと、そんな理由で決めた。
受かった高校の入学式で、自分のまぶたがこれ以上開かないのではないかと思うほど目を剥いた、完璧としか表現できない美少女を見かけた。
違うクラスの、佐伯さんという女子だった。地味な色の制服も、彼女の輝くような美貌を際立たせる高級な額縁のように見え、自分の生きてきた世界でこんなに美しい人が身近にいて良いのだろうかと、青年は自分自身の概念にひたすら尋ねた。
あまりの衝撃に興奮して、校長の長い話も、生徒代表の話も、あっという間に聞き流した。
すぐにでも彼女とお近づきになりたい衝動と、何を話題にしたらよいのやら、いきなり話しかけてはキモがられる、という卑屈な理性がせめぎあって、結果、長い廊下を友達と歩く彼女の背中を、何メートルも離れてついていくという当たり障りのない距離で欲を満たした。
せめて、同じクラスだったら……もしも一生話しかける勇気が出なくたって、彼女を視界の端に捉えることができるだけで、その日一日とてつもなく幸せに思える自信があった。
なぜ自分は、隣のクラスなんだろう。青年は自分の運のなさを呪ったが、仲良しな友人が同じクラスだったから、そこまで嘆き悲しむ事はなかった。
(そうだ、彼女と同じクラスでないならば、同じ部活に入ればいいんだ。俺はスポーツで活躍する自信がないから、文化部に入ってくれないかな)
美しい女性は、すぐに噂の的になった。意識しなくても、男子同士の間で話題に上る女神の存在。彼女は弓道部に入るという情報を得た。
(弓道部!? 運動部だけど、佐伯さんが髪をポニーテールにまとめて、凛々しい弓道衣に身を包んで、的を一心に見つめて弓を引く姿は、きっと一生の宝物として胸に残るに違いない。叶うことなら、彼女のとなりに立って練習し、晴れ舞台の大会では、前列に座って彼女を応援したい!)
案の定というか、男子の入部希望者が殺到した。きっと彼女が目当てなのだろうと思った青年は、負けじと己のくじ運を信じ、自分も入部届けを提出。
後日、なんと弓道部の入部が決まった。家で近所迷惑になるほど大声で叫んでガッツポーズしたのを覚えている。
美しい彼女の隣に立てる。美しい彼女にさりげなく「お疲れ」と言ってあげられる。同じ部活動なのだから、彼女と物理的に距離が近くなっても、なんら不自然な事は無い。これからの高校生活が、明るいものに感じた。
しかし、彼女は弓道部に入らなかった。
「走り込みー!! 始め!!」
「ファイッオー!!」
それどころか、女性部員もいなかった。
ひしめき合う男たちにもみくちゃにされながら、朝早くから走り込みをする日々。弓道部で使う練習用の弓は、とても重くて、しっかり体を鍛えていないと怪我をするということで、体感を鍛える腹筋、背筋に、腕の筋肉を鍛えるための腕立て百回などなど、マッチョな部長と顧問のスパルタな叱責に身も心も縮こまった。
適当に選んだ高校は、弓道の強豪高校だったのだ。その気合の入れようと言ったら凄まじいもので、体作り、体作り、一にも二にも、体作り。一年生が弓を触れるのは秋頃だと聞いたときは、頭を射抜かれた幻聴が鳴った。
ちなみに男子部員しかいないのは、ここ数年たまたま女子部員が入らなかっただけだそうで、その情報は青年になんの慰めも与えなかった。
朝練や練習中は、汚れた雑巾のようにいまいちな色のジャージ姿。凛々しい弓道衣は、大会近くなった選抜チームのみが着ることを許された勇者の衣であり、選ばれなかった大勢の部員は、雑巾ジャージのままだった。
(……んだよ、これ)
青年がふてくされるのは早かった。もともと強い希望があって入りたかった高校でもなし、弓道に興味があったわけでもない。ただ彼女と同じ空間にいたかっただけ、それだけが理由だった。だから彼女がいないのなら、この部活にいる理由もなくなってしまっていた。
……では、彼女はどこの部活に入ったのかと言うと、そもそも転校していた。入学式からたったの二週間足らずで。入学式の帰りに、彼女に芸能プロダクションの者から声がかかり、本人は恥ずかしがったそうだが、彼女の両親が「一度きりの人生なんだから、やってみなさい」と背中を押してくれて転校を決意。現在彼女は、芸能学校に通って女優の道を志している。
(俺はどうなるんだよ……)
彼女を恨めしく思うのは間違っていると自分でもわかってはいるけれど、どうしても、騙された気分と裏切られた気持ちが胸に渦巻いた。
そもそも、彼女が弓道部に入るとの情報は、人から聞いた噂話。本人の口から直接聞いたわけではない。噂話を鵜呑みにし、噂話で楽をした、そのツケが、今になって回ってきたのかと……だんだんと青年に理不尽な苛立ちが募った。
(佐伯さんの夢が、絶対に叶いませんように! それか、女優は女優でもアダルトビデオのほうで叶えばいいんだ!)
青年は、弓道部の強烈な扱きに耐えられず、退部した。他の部活に入ろうとしたら、途中から入部しようとする青年を嫌がる部長が多くて驚かされた。
原因は、青年の評判が良くないことだった。
あの弓道部に入るために受験する者もいるほど、学校側からも期待と気合のこもった部活だった。それなのに、入部当日からやる気を失っていた青年は、練習もおざなりでボーッとしており、ちょくちょくさぼり、辞める二週間頃には部活を全部さぼっていた。その肝が据わった不真面目っぷりが、運動部の部長たちに警戒されていたのだ。
高校の部長同士が、そこまで仲が良いとは知らなかった青年は、最初から部長に嫌われている部活は諦め、文化部に入ろうとしたが……どこの文化部も荒れているらしいとの噂があり、入部を悩んだ。
先輩が嫉妬深くて、後輩をいじめるだとか、さぼりの部員が多くて部活が機能していないだとか、顧問がキモすぎて生徒と話が通じないだとか……。青年は一度部活動をくじけている手前、今度こそはという気持ちが強くなるあまり、問題がある部活には入りたくない欲求が強く出ていた。
少しでも嫌な噂のある部活には入りたくなかった。自分を感動させる美少女もいないのだし。
……けっきょく、帰宅部を選んだ。佐伯さんのいない学校生活は、青年にとって楊貴妃を失った皇帝そのものだった。学校が楽しくないのは、全部佐伯さんのせいのように感じた。それは考えすぎだと、理性的なもう一人の自分が訴えるのだが、弱い自分は誰かのせいにしていたほうが楽だった。
「お前、高校入ってから変わったな。何をやるにもいい加減だし、いつもため息ついてて機嫌悪いし……」
ある日、中学の頃から仲が良かったはずの友人たちから縁を切られた。理由は、一緒にいても楽しくないからというシンプルなもの。
いつの間に友人たちから嫌われていたのかと、青年は驚いた。そして、全く話したこともない奴らから「帰宅部は楽をしていてずるい」という言いがかりをつけられ、物が紛失するという地味に困る嫌がらせを受けるようになった。
喧嘩になっても、隠された物は返ってこなかった。校舎のどこかにあるだろうと探し回ったけれど、どうしても見つからない。担任に相談しても、そんな小学生のような嫌がらせは自分で対処しなさいと言われ、全く相手にされなかった。
自分は被害者だ。
自分は佐伯さんのせいで、部活動を退部し、友人から見放され、いじめを受けるようになった。
全部佐伯さんのせいだ。
そんな被害妄想が、青年の胸の奥底にこびりつき、反省も、前を向く気持ちも、頭から消えてしまっていた。
ふてくされた態度も、わけのわからない嫌がらせも、翌年まで続いたが、受験時の頃には燃え尽きたように消えていた。
魑魅魍魎の類の声は、ぱったりと止んでいた。
雨の音も止んでいた。
駒たちの慌しかった足音も、もう聞こえない。
(……思い出した、自分の名前を。あの頃はあんまりにも物がなくなるから、せめて誰かが見つけて届けてくれないかと思って、あらゆる持ち物にクラスと学年と、自分の名前を書きまくったんだ)
その結果、誰も届けてくれなかった。あんなに大量の文房具を、誰にも見つからず、いったいどこに隠したんだろうか。
当時はわからなかったが、大人になった今の青年なら、だいたいの予想がつく。犯人は盗んだ物を、己の服の中に入れて隠していた、それだけだった。教師も犯人探しのために生徒を裸に剥くわけにはいかない。あとは犯人が家に持ち帰って処分すれば、誰にも永遠に見つからない。
だから青年がいくら学校中を探したって、見つかりっこない。佐伯さんの事はもうどうでもいいから、あいつらにもっともっとぶつかっていくしかなかったのだ。しつこいくらいに。
(恨むべき相手は、夢を追いかけて転校していった佐伯さんじゃない。不真面目な自分、そして他人の物を盗みまくる、あいつらだった。それなのに、なんてバカなんだ、俺は。佐伯さんに強い憎しみを向け過ぎて、本当に腹を立てるべき相手とは向き合ってこなかったんだ)
だから物が見つからなかったのだ。
(なんてキモくて、バカで、性格の悪いガキだったんだ、俺は)
自分の青春も、弓で射られて粉々になってしまえばいいとすら思えた。
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