第拾壱話  あの子が欲しい

(あの野郎……)


 芋虫の恨みが消えないまま、青年は再び一人となった。さっきまでの騒がしさが嘘のように、辺りは静まり返っている。


 駒を含め、彼らがここで普段どのように過ごしているのか、通勤なのか、住み込みで働いているのか、それすらもわからないほどに、静かだった。


 以前、犬の鳴き声がした時、真夜中にもかかわらず、駒と少年の声がした。住み込みなのか、それとも夜勤だったのか。何も質問できない青年には、疑問ばかりが積もっていく。


(うん? ……雨の音?)


 さらさらと、耳に心地よく、懐かしい水の音がする。ここに来てからというもの、青年は久しく、環境音というものをなかなか耳にできなかった。


 風も吹いているらしい、風鈴が鳴っている。風鈴はいつも音を鳴らしているわけではないから、今日は外での風が強いことだけを、青年に伝えてくれていた。


 たまに耳にする外での音は、そういった理由で風鈴のみだったから、久方ぶりの雨音に、心が少しほっとした。こんな所にも、こんな状況になっている自分にも、雨は平等に降ってきてくれるのだと……。


(きっとこの施設にはテレビがあって、天気予報が伝えられて、近所では慌てて洗濯物を取り込む人や、ぼんやりと雨宿りをする人がいて……ああ、今は夜中なんだったな、じゃあ外には誰も歩いていないのだろうか)


 空気がしっとりしてきた気がした。いつもと違う空気の匂いを感じることができる、そんな自分に、回復の兆しを感じた。


 少し元気になってきた青年。落ち込むところまで落ち込めば、それ以上落ち込まない、むしろ些細な事でも喜べるようになる、それを身をもって体験した。


(どんな団体かわからないが、体はどんどん良くなっている気がする。信者になることも、多額の寄付金を払うこともしたくないが、それでも感謝の気持ちを込めて、払える分は払おう。俺が寝ているこの布団だって、タダじゃないはずだ)


 彼らへの感謝の気持ちが、再び湧き上がってきた、その時……にわかに犬の鳴き声が始まった。


(ここで飼っているのか?)


 この雨の日に、いったい何に対して吠えているのか、青年は耳をすませてみた。


 何やら、ひそひそ声が聞こえる。老若男女、様々な声色だった。この雨の中、真夜中に、犬に吠えられながら、そこまでして話し込む人間がいるのだろうかと……青年はだんだん寒気がしてきた。


 この施設には、総勢何名の従業員がいるのか、それもわからない。だが院長の話に熱心に耳を傾ける少年たちは、こんな真似をして患者に迷惑をかける子たちではないと思った。


 では、外にいる大勢は、何者なのか。


(いざ耳にすると、なんて言っているのかが気になるな……犬に吠えられてでも、何を訴えたいんだ、彼らは)


 さらに集中して耳をすませてみた。すると、


「あの子が欲しい、あの子が欲しい」「食べたい食べたい」「あの子になりたい、あの子になりたい」「手が欲しい、足が欲しい」「食べたい食べたい」「耳が欲しい、鼻が欲しい」「あの子が食べたい、あの子が食べたい」「乗っ取りたい、乗っ取りたい」「欲しい欲しい、全部欲しい」「人間の体になりたいなぁ」


 食べたがったり、欲しがったり、なりたがったり。


 招かれざる客は、犬の鳴き声に対抗するように、自身の欲求を口にしている。否、これが彼らの鳴き声なのだと青年は察した。声は大きくなったり、小さくなったり、遠のいたり近づいたり。


 手足の先が冷たくなってきた。雨だけのせいではない、外にいる何者かの声は、けっして耳にしてはならないたぐいだったのだと、青年は本能的に察して後悔していた。


 バタバタと、足音が通り過ぎた。


「院長様、こっちです!」


 駒の声だった。


 急ぐ足音が複数に増えてゆく。その中に、杖をついている足音が混じっていた。


「穢れの底から這い出でし魑魅魍魎め! ここは明け渡さぬ! 早急にお帰り願おう!」


 夏の空に響き渡るような、凛々しい弓弦の音が鳴り、寒気がするほど冷え切った空気を一瞬でほどいた。


 包帯の下で、青年の目が大きく開いた。


 その音は懐かしく。一目惚れした美少女の横顔を、思い出させた。


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