第拾話   院長の荒治療

(点滴が外されたという事は、もう夜なんだよな……)


 青年は、ゆっくりと息をしていた。樟脳の香りがプンプンと漂う、吸いたくもない空気を吸っていた。ただ生きるために。どんなに辛いことがあっても、体は生きようと空気を欲するから。


 悲しみに包まれていた。自分はきっと鬱なんだと予想した。これからも、出会う女性、出会う女性に恋をしては、騙され続けていくんじゃないだろうかとか、自分には異性を見分けるセンスが皆無なんだとか、未来を暗く予想しては、どんどん自身に失望していった。自分の直感や判断基準に自信がない、それだけで、今後どうやって生きていけばいいのかがわからなくなってしまった。


 しかも現在は謎の宗教施設に捕まっているらしい、という己の境遇に、ついに運にまで見放されたのかと、ますます落ちこむ。


(大学の入試問題もさっぱりわからなくて、ダメ元で適当にマークシート塗りつぶしたり、解答欄埋めたり、小論文書いてたら、なんか、運良く受かっただけだ。本当に行きたかった大学じゃなかった。今までだって、どこかしらで運が味方してくれたから生きてこれたところがあった。もう、その運すらなくなった自分は、どうすればいいんだ)


 もうすぐ縫合院とか縫合神社の、院長が来るらしい。今は新しい出会いに期待する気分ではなかった。普通は世話になった施設のトップに会えるだなんて、光栄なことだし、ぜひ挨拶もしなければいけない、それが大人の対応である……だが今は「重症患者」という立場に甘えて、何もせず、何も言わず、このまま横たわった状態で、嵐が過ぎ去るのを待っていたかった。


 院長だろうが駒だろうが、こんな自分に呆れて去ってくれるほうが、楽だとすら思えた。ずーっとこのまま、何日も、独りでいたかった。


 ……そうは問屋が卸さないのも、わかっていた。


 体重の重たそうな足音が、部屋に近づいてきたと思ったら、


「あいあいー、どうも遅れまして!」


 朗々たる高齢者の声が響いた。室内でも杖をついているらしい、木造の廊下をガコガコと硬い棒状の先が叩いている音もする。


「院長、俺が扉を開けます」


 疑耳彦もついてきているらしい。否、他にも大勢、足跡が聞こえてきた。


 てっきり青年は、院長一人がここへ来るものだと思いこんでいたため、そんなに大勢が自分の布団を取り囲むのかと想像したとたんに、めまいがしてきた。


 疑耳彦が開けたらしき扉から、いろいろな足音が入ってきた。埃が舞いそうな勢いで突っ込んできた人物もいる。こんな部屋に、いったい何が目当てでそこまで急ぐ必要があるのかと、青年は仰天していた。


(ん? 杖をついている老人の足音には体重を感じるのに、他の足音は、やたら軽いな)


 院長を名乗る男だけが、足音が重い。周りより体重がある証拠であり、しかし巨漢というわけではなく、平均的な男性が立てる足音のように感じた。


(まさか、院長以外、子供なのか……?)


 年若い少年たちが働いているのは青年も気づいていたが、改めてこの状況がおかしいと感じた。どうして今まで、仕方なくとはいえ、この状況を受け入れていたのか、我ながら正気を疑った。


 今まで子供が、針やら薬品やらを担当していたのである。こんなに恐ろしいことは無い。


 やはり怪しい宗教団体なんだと、青年が絶望していると、彼らが布団の周りにあぐらをかいた気配を感じた。


(まな板の上のなんとやら……)


 絶望のあまり、自分が魚になった想像で現実逃避し始める青年。彼らに聞きたかった事がたくさんあったはずなのに、もう何も頭に残っていない。


 大きな手が、青年の胸にポンと置かれた。てっきりコルク栓を抜かれるかと身構えた青年だったが、院長は子犬をなだめるような手つきでポンポンと叩いただけだった。


「うんうん、胸も、鼻の穴も、ゆったりと動いておるのう。うまいこと定着しておるわい。疑耳彦から聞きましたが、主人様は記憶もお戻りになっているそうですな。じきに我々といろいろな会話を交わす事にもなるでしょう。お前たち、くれぐれも主人様に失礼のないようにな」


 院長からの諭しに、少年たちが次々に返事をする。その返事がとてもあてにならないことを、青年は知っていた。特に口嚇丸。


 青年は疑耳彦から聞いた話を思い出した。院長は、四肢を担当しているのだと。


(四肢って、手足のことだよな……。俺は、こんな所にいて無事に動けるようになるのか? 自分の体がどうなっているのかを、両手で触れて確かめることが、できるようになるのか……?)


 院長が悠長に咳払いする。


「えー、主人様の意識がある時に、お会いするのは初めてのことになります。院長の四肢翁ししおうと申します。えー、このたびは、主人様の手足の回復を祈願し、治療を担当させていただきます」


 青年の右手に巻かれていた包帯が、くるくると取り外されてゆく。


「では、治療に入ります。今から主人様の右手の指に、お蚕様かいこさまを乗せます」


 青年は耳を疑った。虫籠の蓋らしきパカリと乾いた音がして、青年の右手の人差し指に、ふんにゃりとした生温かい生き物が、そっと置かれた。


 ソレはとても小さな、たくさんついた丸い足で、青年の指を少しずつ上っていく。足がとても短いらしく、柔らかな腹が青年の指の毛を、もそもそと撫でてゆく。


(うおわあああ!!! マジかマジかマジかよこのクソジジイ!!!)


 右手指全てに、芋虫を置かれた。


「お蚕様に肌の表面を歩いてもらい、ゆっくりと刺激を与えます。今日は片手だけにしておきましょう。いきなりすべての手足を刺激しては、疲れてしまうでしょうからな」


 部屋に青年の苦悶に満ちたうめき声が響く。


 芋虫が好き勝手に散歩する感触に、悪寒と嫌悪感が止まらない。


「おお。このお蚕様は動かなくなってしまわれた。籠に戻してやろう。次の虫籠を渡しておくれ」


「はい」


 動かなくなったらしき芋虫が、ひょいと取り除かれた。そして別の芋虫が、青年の指にそっと置かれる。再び始まる芋虫のお散歩。


「おお。このお蚕様は動かなくなってしまわれた。籠に戻してやろう。次の虫籠を渡しておくれ」


「はい」


 動かなくなったらしき芋虫が、ひょいと取り除かれた。そして別の芋虫が、青年の指にそっと置かれる。再び始まる芋虫のお散歩。


(やめてくれやめてくれ!! ほんと芋虫だけは無理なんだって!! うわああ柔らかい~!! あったかい~!! 無理無理無理芋虫だけは無理なんだってば~!!)


 蚕のふにゃふにゃした感触に、耐えかねた青年の右手指が、痙攣しだした。


「院長様! 指が動きました!」


「ふう、今日はここまでにいたしましょうか。では、疑耳彦、口嚇丸、残りのお蚕様を虫籠へ戻しておやり。その際、お蚕様の様子をしっかりと観察し、書に残しておくようにな」


「はい」


「……へーい」


 青年の右手から芋虫が全て取り除かれるまで、部屋から人の気配が消えることはなかった。


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