第玖話 疑耳彦の声
ドタドタと、足音が近づいてきた。しかし青年のいる部屋を通り過ぎてしまった。
いろいろと悲劇的なことを思い出して、人恋しくなっている青年は、せめて誰か、声だけでも聞きたかった。だから、遠ざかっていく足音に、とてつもなく悲しみがこみ上げた。
「うぅ……」
思わずうめき声が漏れる。息をするだけでも、悲しみで体が重たかった。
「ううぅ……誰か……」
そんな青年の嘆きを聞きつけ、部屋の扉へ近くなってゆく足音が、一人分。歩き方は、ついさっき点滴を担当した少年のようだった。
「どした? 主人様」
……その声に、青年は頭が真っ白になった。 扉が開いて、中に入ってきたその人物が、布団のそばにしゃがみこむ気配がする。
「お、おま……お前……なんで、ここに……」
「んー? 寝て体を休めたせいかな、小さい声だけど、けっこう聞き取れるぜ。俺がここに来たのは、主人様が何かほにゃほにゃ言ってたのが聞こえたから、様子を見に来ただけだよ」
「健一……なのか? 大学の……」
それは大学時代、何度も自主退学を思い悩むほど追い詰められていた青年を、唯一励まし、引き戻してくれていた友人の声だった。
「ん? 俺の声、友達か兄弟に似てるってか? なら、体と記憶が定着してきたんだな。良い兆候だよ」
「健一……じゃ、ない、の、か?」
「そう言やあ、名乗ってなかったな。俺は
「ぎ、び、ひこ……きみの、名前」
「うん」
「俺……俺、の、名前……おし、え……ゲホゲホッ!」
「あー、もう喋んなくていいよ。時間はまだたっぷりあるんだからさ、焦らず一個ずつ、いろいろを取り戻していこうや」
疑耳彦は友の声で、明るく励ました。青年の手足から、点滴の針が抜かれていく。
「抜いたり刺したりして悪いね。この点滴は、種類によって刺す場所が違うのさ。主人様の意識がない頃は、顔面いっぱいに針を刺してたんだよ」
「え……」
「うん。頭蓋骨にも、眼球にもね。点滴で薬を投与して、主人様の体にいろいろな部位を定着させていったんだ。もう顔の施術は終わったから安心しな。さすがに意識のある時には刺さないよ」
青年は声の出ない口をパクパクさせていた。
(眼球に針を!? 冗談だよな!? 俺の目、ちゃんと見えるようになるのか!?)
点滴というのも、いよいよ怪しくなってきた。顔面いっぱいに刺す点滴なんて、青年は聞いたことがなかった。
「よし、終わり。このあと、手足を担当する院長が来てくれることになったから、ちゃんと話を聞いとくんだぞ」
「院長……? ここは、病院か……?」
「え、病院? 違うぞ。ここは縫合院とか、縫合神社って呼ばれてる。神仏習合時代よりも、もっとずっと前からある、とっても古い建物だよ」
聞いたことがない名前の建物だった。寺院か神社かわからない、どこか宗教めいたその響きに、青年は半ば合点がいった。
(きっとここは、どこかの怪しい宗教団体が経営する建物の中なんだな。俺が治ったとたんに、信者になれとか、多額の治療費や寄付金を請求されるのかな……まずいぞ、まだ自分が何者かを全て思い出せたわけじゃないのに、いろいろと騙し取られるなんて絶対に嫌だ)
青年の中から、彼らに感謝する気持ちが薄らぎ始めた。
(なんてことだ、華の大学時代も枯れ果てて、卒業後は怪しい団体に看病されるなんて……俺の人生はいったいどうなっているんだ……)
思わず漏れたため息に、疑耳彦が反応した。何やら片付けていた手を止める。
「自由に喋れなくて、辛いよな。呼吸の練習、もう少しがんばってみるか?
青年は返答に迷った。窒息しかけるほどの過酷なリハビリは辛い、しかし流暢に話せる訓練はやりたい……。
「やっぱりやめるよ。肺と口は、俺の専門外だから、何かあったとき責任が取れねえ。このコルク栓は、誰でも簡単に取り外しができるけど、いつどれくらい長く栓を外すかは、口嚇丸が主人様の様子を見て決めてることだから、耳が担当の俺が勝手なことしちゃダメだよな」
青年は疑耳彦の判断に任せることにした。体の部位によって彼らに役割があることもわかったけれど、口嚇丸は疑耳彦が言うほど時間を徹底していなかった気がした。コルク栓を抜いた後、あとは知らん、と言い残して部屋を出て行ってしまったのだから。
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