第肆話 点滴
(その後、彼女とはどうなったんだっけ……ああ、思い出したぞ、ヤバイ金持ちに搔っ攫われていったんだった……。あの祭りの日、もしも俺が告白していれば、何かが、違っていたのかも、しれない……)
シルバーのオープンカーの助手席に乗って、楽しげに去っていく彼女の、やたら背中の開いたドレスが真っ黒だったのを、はっきりと思い出してしまった。そのついでに、地元の景色を大量に思い出した。
(ああ、俺の地元だ……。場所の記憶だけで、誰と何をしたのかが、全く思い出せないのが気になるが……少なくとも、こんなに怪しい病院を受け入れる地域じゃなかったぞ)
彼女は、堅い家柄の女性だった。だからとて、娘を恥じるあまり一家で引っ越すのは、やり過ぎではないかと青年は思う。
(どこに、行ったんだろう……。俺は彼女を捜しに、何か行動しようとしたんだろうか? それとも、二度と彼女のツラなど拝むものかと、意地を張って別の女性と、付き合ったり、したんだろうか……)
いつの間にか、まどろんでいた。
耳をすますと、ポタポタと、本当にかすかに水の音がする。これが点滴の音なのだと、青年は察した。これが、否、これらが手足に注入されている、数多の点滴たちの音。今日一日の青年を生かす、食事代わり。
微動だにできぬまま、今日もうとうとと、夢から覚めたり、覚めなかったりしながら、駒を待ちぼうけ、彼女の行ったり来たりする足音に一喜一憂し、この部屋に来てくれるのは今か今かと子供のように待ちわびて、そうして夜になり、高熱が出て、駒に冷たい手ぬぐいを絞ってもらい、ひたいを冷やして、そうしてまた青年は眠りにつき、朝を告げる駒の足音を耳にしながら、起床するのだ。
どれほどの月日を、そのように過ごしてきたかわからない。我ながら、よく正気を保っているものだと、青年は自分自身に驚かされる。それほどまでに、生きようとする力は精神力をも強くするのかと。
時折、脳裏をよぎる懐かしい思い出たちが、己の自我と正気をつなぎとめてくれる重要な宝なのだと、青年は結論付けるなり、それを強固に信じ始めた。
……今日から、鼻が利くようになったのを思い出す。
青年は、点滴の匂いが嗅げないものかと思いつき、必死に鼻の穴をふんふんと動かした。
(うぶっ、樟脳の匂いがキツくて、何もわからない)
頭痛がしてきた。強い匂いは、長時間めいっぱい吸い込んではいけないと身をもって学ぶ。
(はあ、暇だ……耳と鼻が機能しても、喋りたい、立ち上がりたいという欲求が、次から次へと沸いてきて、動けないこの体が、とてももどかしく感じる)
青年は怪我や大病をした記憶がないため、日々治療に勤しむ彼らに、感謝する気持ちがあまりわかなかった。それどころか、自分が身動き取れなくなっているのは、もしや彼らのせいなのでは、と疑う気持ちすら顔をのぞかせた。
しかし駒のことだけは、悪く思っていない。いつも自分のもとへ急いで走ってきてくれる彼女のことだけは、信頼し、その真心に心底感謝する日々である。
(ああ、今日も過ぎてゆく……。明日には、指の先だけでも動きますように)
きっと世界中の、病床から動けない人の願いだと思った。自分もそのようになって、初めてわかる。手足の指が、とても遠く感じて、彼らに思いの信号を送ることは、電気のようにピリッと強く、速く、そうしないと、動かせないのだと、初めて思い知った。
信号が、出ない。信号が出るのが、遅い。
体が、四肢が、信号を受け取れない。
悔しさのあまり、歯を食いしばることも、この体はできない。重く、温かな体は、青年にひたすら眠りを勧めた。
もう寝るしかなかった。
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