第伍話   犬

 自分の呼吸の音しか聞こえない、静かな空間。目を開ければ、すぐに朝を迎えていた青年は、珍しくはっきりと真夜中であると気づく時間帯に起きてしまっていた。


 こうなると長い。せめて風や雨の音が耳に入ればと、思うぐらいだ。


 今日から、鼻が効く。しかし樟脳の香りを胸いっぱいに嗅いでも、なんら楽しいことはない。頭痛が生じるだけだ。


 何の退屈しのぎも、思いつかない。


(ああ、また眠りにつくまでが長いな……ん? 今、物音がしたような……気のせいか)


 軋みの一つも上げたことがない、この建築物の中で、ふいに物音が聞こえると、返って気のせいだと思いこみたくなってしまう。


 そんな青年の耳に、かすかに犬の鳴き声が聞こえた。休むことなく何かに吠え続けており、何の犬種しかわからないが怒り狂っているのが容易に想像できた。


(凶暴そうな犬だな。野犬か? 駒さん、頼むからこの部屋に、その犬を入れないでくれ。今の俺じゃあ、噛まれ放題だ)


 せめて小型犬であってくれと、願った。


(ん……? 今度は、足音が聞こえる。誰かが走ってるのか? この建物内で、いつもせわしなく走っている人といえば、駒さんだが……彼女だろうか?)


 相当慌てている足さばきだった。ここまで全速力で通り過ぎてゆく足音を、青年は聞いたことがなかった。


口嚇丸こうかくまるさん、私も追い払うのを手伝います! 竹箒を持ってきました!」


 駒の声だった。


 何かが建物内に、侵入しようとしているらしい。さっき犬の声がしたから、それだろうかと青年は思った。


「おせーよ! 今おっぱらったところだ!」


 青年の部屋まで響く、キンキン声だった。侵入しようとした何かを追い払ったのは、この声の主のようだ。


 聞き覚えのある声だった。


 数多いる少年医師の一人に、ひときわ無口だが、ひとたび口を開くとなかなかにきつい性格の少年が一人いた。身動きが取れない青年は、その少年が部屋に来ると不安になった。いつ不機嫌になって自分に危害を加えてくるやら、治療は丁寧にやってくれているのだろうか、等々、心配事が尽きないからだ。


 青年の全身を覆う包帯の一部を交換したり、アルコール臭い液体で手足を拭いてくれるのだが、絶対に五回は舌打ちするし、なんなら道具類をガチャンと倒すと、もうそこから機嫌が悪くなる。青年の気のせいかもしれないが、手つきがぶっきらぼうになり、緩んだ包帯を結び直す強さが跳ね上がる。


 身動きが取れない状態で、真心の少ない相手から乱暴に扱われるのは、恐怖でしかなかった。今のところ、その少年が部屋を訪れる回数が少ないのと、乱暴だが痛みを伴うほどひどく扱われはしないことが、幸いだった。


(苦手な奴だったけど、なんか犬みたいなのを追っ払ってくれたのか……こんな真夜中に。案外、良い子なのかもしれないな……名前、こうかく、まる、って聞こえたな……)


 眠くなってきた。青年は包帯の下のまぶたの力を、ゆっくりと抜いて、やがて静かに寝息を立て始めた。



「……主人様、起こしちゃいましたか?」


 駒は恐る恐る、部屋の戸を開けてみた。


 青年が静かに胸を上下させて、寝息を立てていた。その姿を見て、ほっと胸を撫で下ろす。


「貴方が治るまで、お守りしますからね」


 駒は微笑み、そっと扉を閉めたのだった。


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