第参話   風鈴の音

「そいじゃ点滴が終わる夕方頃に、また駒ちゃんと来るから、それまで耳や鼻を使う練習しといてくれや。ソレらは、まだまだ主人様のモノにはなってねんだからな」


 顔に付いている部位が、自身のモノではないとは。どういうことかと、尋ねることができない。


 少年は忙しいのか、いつも用事が済めば部屋を出て行く。あのフンも持ち帰ってくれたようで、青年が恐る恐る辺りを嗅いでも、特に不快感極まる異臭はしなかった。


 ただ、樟脳の香りを胸いっぱいに吸い込んだのだけは、少し苦しかった。幼少期の思い出の香りだが、そんなに好きな匂いでもなかった。


 手足に刺さっている針の感覚が、青年の境遇を過酷なものに決定づける。


 体内に少しずつ足されてゆく、なぞの液体。その成分が、体のどのあたりにどのような効能を発揮するのか、その説明を受けたことは一度も、なかった。


(なんなんだよ、犬のフンとか嗅がせてきやがって……もっと他にあっただろうが。花とか、醤油とか)


 祖母の仏間に、やたら大きな白百合が花瓶に活けられていたのを思い出した。子供ながらに、強烈な花の香りだと思い、おしべめしべの作りもくっきり観察できて、おしべの茶色い粉を畳にこぼして、母に怒られた記憶が蘇る。


(ユリの花をちょっと揺らしただけで、そんなにいっぱい粉が飛び散るなんて、知らなかったんだ……)


 過去の思い出に一瞬飛ぶだけの、現実逃避。どういうわけだか幼少期の頃に経験した思い出が、真っ先に視界を占める。


(俺、治ってるのかなぁ……。この点滴を何日も受け入れていたら、立ってトイレにも行けるように、なれるのかな……)


 ここ最近、脳裏をよぎるのは、幼少期の思い出ばかりであることに、青年は気がついた。ここに来る以前の記憶を、どうしても思い出したいのに、幼少期以降の日々だって、確かにあったはずなのに、何も思い出せない。


(もしかして、この点滴の中には、記憶をかすませる成分が入っているんじゃないのか……?)


 一度腑に落ちてしまうと、きっとそうに違いないという確信が心に芽生えた。


(もしも、記憶を左右するほどの強力な成分が入っているのなら、俺が治って点滴が不要になったら、だんだんと記憶が、戻ってくるかもしれない……)


 自分は誰なのか、どこでどんなふうに暮らして、どんなふうに生きてきたのか。そして、何が原因でここに世話になっているのか。青年は知りたくて、たまらなかった。自分を形成する輪郭がわからない感覚が、とてつもなく不愉快だった。


(ああ、眠くなってきた……これも点滴の影響なのかもしれないな……)


 包帯の下で、自然とまぶたを落としていく。


 遠くで、風鈴が鳴っていた。




「わあ、見て見て、風鈴が売ってる」


 祭り屋台の裸電球の、赤っぽい橙色の明かりに灯されて、彼女の色白な頬が上気して見えた。


 赤い格子戸のような模様の浴衣と、漆色の帯がとても綺麗で、彼女ががんばって染めてみたという初めての茶色い長い髪も、うなじが見えるくらい丁寧にまとめられていて、青年はすでに花火を見終わったかのような感動を得られていた。


 花火じゃない、自分は彼女の、今しかない特別な姿を、お爺ちゃんになっても目に焼き付けておこうと決心して、彼女を誘ったのだ。


 正直なところ、誘いに応じてもらえるとは思っていなかった。今まで、そんなに話したことがなかったからだ。誘えたらいいな、青春の度胸試しだ、と自分に言い訳して、逃げ道を作っていた。


「どうしたの? ぼーっとして」


 彼女が振り向いた。茶色いまとめ髪に差し込まれた細長い鼈甲べっこう色のかんざしがキラリと光り、きちんと化粧をしてきてくれたふくよかな唇は赤赤と濡れていて、青年は直視できずに、うつむいてしまった。足元の鼻緒が、桃色にも橙色にも見え、彼女の足の指の美しさと、薄桃色のマニキュアが、もう幼かった頃には戻れないことを意味しているようで、緊張した。


 ここでだんまりするわけにはいかない。


 勇気を出して、何か気の利いた褒め言葉を、贈らなければ。せっかくこんなに綺麗な姿を、自分に見せてくれているのだから。


 足元まで下がっていた視線を、奮い立たせるように上げていった。でも、顔まで直視できなくて、彼女の手元の、赤いりんご飴に視線が止まった。


 風鈴の形をした、りんご飴だった。


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