第弐話 犬のフン
駒が戻ってくるまで、不安からくる焦燥が胸を焦がし続けた。ただ音しか聞き取れないでいることが、とても恐ろしかった。
布団から出られない。指の一本も動かせない。まだ眠くない。
(駒さんは、俺が良くなるまで世話をすると言っていた……なら、俺には回復する見込みがあるということか? この不安でしょうがない現状から、脱することができるのか? ああどうか、そうであってほしい……早く、早く治ってくれ、俺の身体、起きてくれ……)
起きて、今までの自分がどのように朝を過ごしていたのか、その記憶が不思議とすっぽ抜けていた。だから、とにかく起きたい、起きて、その先のことまでは想像ができなかった。
(ん……? なんだ、なんの匂いなんだ……?)
この日は、いつもとほんの少しだけ、違うことが起きていた。
匂いがする。祖母の箪笥の中の、樟脳のような、ツンとする匂い。
ずっと幼かった頃に、田舎の祖母の家に預けられた。初めて祖母の部屋へ入れてもらったとき、特に意味もなく箪笥を引き開けては、嗅ぎ慣れない樟脳の匂いに、しばし目を瞬いていた。あの頃の記憶が呼び覚まされて、しばし懐かしさに浸ったと同時に、もう一人の自分が、現実逃避をしている場合ではないと急き立て、意識を引き戻してくる。動かない体が、重たい布団の下で無力に四肢を広げていた。
(以前は匂いなんて何も感じなかったのに、今はこの部屋に樟脳の香りが、じっとりと染み付いているのがわかるぞ。よかった、俺は、治ってきている、よかった、ずっとこのままじゃないんだ……)
布団から出られない。眠くないし、眠れない。だが昨日よりも、希望を胸に抱けた。
その感動も、束の間の逃避行に過ぎなかった。匂いがなんだ、まるで箪笥の中にしまわれた着物のように、一日中動けないことに、変わりはない。そう決めつけたとたんに、虚しくなってくる。
青年の一日は駒に冷たい手ぬぐいと交換してもらってからずっと、この部屋の中で、意識の続く限り過ごす。何日も、その繰り返しだった。
包帯に覆われた肌の感覚はすこぶる鈍く、たとえば排尿などの仕組みがどうなっているのか、まるで検討がつかない。布団が重い、布団がひんやりしている、その二つの刺激が、熱で熱くほてった肌からぼんやりと伝わって、青年の意識に疑問を抱かせ続けた。ここはどこなのか、己は今どうなっているのか、と。
(今日こそは、知りたい……だが、尋ねる方法が、無い……)
話し声と足音が、どんどん近づいてくる。
駒という娘のほかに、もう一人、部屋の扉の前まで来た。
「駒ちゃん、ここまででいいよ。たくさんの道具、運ぶの手伝ってくれてありがとな」
「いえいえ、ここで世話になっている者として当然のことです。またいつでもお呼びくださいね。あ、扉を開けますね」
木戸が開かれた音が鳴る。
そして、一人分の足音だけが、遠ざかっていく。駒はこの部屋には入らないようだ。いつも忙しく、用事が済むとすぐに駆け足で部屋を出て行く彼女は、どうやら、ここで家事もがんばっているらしい。他に家事に追われていそうな者の気配を、たまに耳にする青年だったが、この部屋まで入って様子を見に来てくれる女性は駒のみで、鼻歌が聞こえるのも、せわしなく小走りに駆け回っている足音も、駒のものだけだった。
「主人様、起きてるかい? 入るよ」
駒に扉を開けてもらった少年が、入ってくる。駒がいないときは、足で扉を開閉するほど、両手いっぱいに荷物を抱えている少年だった。
「今日も俺の声が聞こえるね? 耳は問題ないはずだから」
返事をした覚えはなかった。返事をしたいと日々強く思っていても、体のどこも微動だにしない。
「あんたの脈を測ると、いつも少し早いんだ。誰かが部屋に入ってきたら、緊張するんだろ? 俺たちが質問をした後も、あんたの脈の速さは変わる。意識があって、耳が聞こえてる証拠だよ」
脈の早さを言われても、青年にはわからない。
「主人様の聴力が順調に定着してくれてよかった、よかった」
この少年の話し声は、青年の耳にすっかり馴染んでいた。毎朝、駒の次に声をかけてくれるのは、この少年である。幾つなのかわからないが、やたら声が高いから、まだ年端もゆかぬ子供だと思う。
少年は部屋の床に荷物を下ろし、青年の耳元に胡座を掻いた。否、本当は正座しているのかもしれないが、眼帯で両眼を覆われ、さらにその上から包帯やらお札やらを貼り付けられている青年には、真相のほどはわからない。
突如として青年の鼻腔に、咽せ返るほどの汚物の臭いが、満ちに満ちた。驚いた青年の胸が跳ね、乾いた喉からはカサカサした咳が出た。
「あ、これ臭ぇかい? やっと鼻も定着したんだね。毎日かかさず、主人様の鼻先に犬のフンを近づけてたんだよ、でもちっとも反応してくれねーんだもんで、こりゃあまだまだ定着に時間がかかるな~って、ついさっき医者のみんなと相談してたんだ。でも、これで希望が見ぃ出せた。俺にも自信が戻ってきたってもんだぜ、へへ」
嬉しそうに笑う少年の声に、咳き込みながら恨めしそうな視線を向けるが、少年には伝わらない。
(定着……? 回復じゃなくて、どうしてそんな表現を使うんだ?)
胸に沸いたわずかな違和感も、まだ口にすることが叶わないのが、ひどくもどかしい。
「それじゃあ、飯もろくに食えない主人様のために、点滴するから、ちょっとばかし痛いの我慢してくれよ」
少年がいつも山ほど腕に抱えてくる荷物の正体だった。
立ち上がった少年の衣擦れの気配、そして、両腕、両足太ももに、慣れた手付きで針が刺さってゆく。これが現在の青年の食事代わりだった。視界も効かない青年にとっては、ただただ不安と苦痛だった。空腹は感じないが、満腹も感じない。渇きは感じないが、体が潤う感覚もない。しかし点滴無しでは、自分は数日と生きられないのだろう事は、本能的に理解している、だから、逆らいたい自我を抑え、生き延びたい本能のままに、このよくわからない現状を、日々受け入れざるを得なかった。率直に言って、至れり尽くせりだがストレスだった。生き延びるためだけに従順にならざるを得ないのは。
駒という名の娘のことは、好ましく思っている。彼女に対して、文句を言うつもりはない。ただ……ただ、彼女と話したかった。贅沢を言えば、自分の苦しい状況を聞いて欲しかったし、よくわからない目に必死で耐えている自分に同情して欲しかったし、愚痴も聞いてもらいたかった。もっとわがままを言うならば、可愛らしい声と、はつらつとした元気な足音と、毎日自分を気遣ってくれる優しい性分にふさわしい美貌の持ち主であれば、もう何も言う事は無い。清楚系美人ならば、なおのこと言う事は無い。
ゆくゆくは、どちらからともなく歩み寄り、自然な形で思いを告げ合い、寄り添って生きる道を二人で模索しながら、お付き合いすることができれば……これぐらいの妄想をしても、バチなど当たるまい。
いつの間にやら、青年の心の支えにして現実逃避を司る女神、駒への厚い信頼は、どこまでも昇華していった。つい最近入籍し、もうすぐ子供も生まれる。
そんな妄想をしているうちに、点滴の針が全て刺し終わっていた。「よし、終了っと」と言う少年の声が、その合図だ。点滴の刺す場所も、本数も、日によって違った。おそらくは、薬品の種類も違うんだろうと青年は考えている。彼らが腕の良い医師なのかはわからないが、現に何日もこうして生かされている身の上、こればかりは彼らを信じて、命を預けているしかなかった。そうでなければ、喚き声すらあげられないこの身を持て余すあまりに、発狂してしまう。やはり本能的に従順にしているしか、なかった。
「毎日毎日、主人様も大変だよなぁ、こんな生活してて。でも、頑張ったご褒美はきっとくるんだよ。今のところ、何の拒絶反応もないみたいだし、もうすぐ目玉も定着するだろう。そうしたら、視力が回復するよ。って言っても、あんたの視力がもともと悪かったら、地平線の彼方は見えないままだけどな」
視力が回復する……。
周りが確認できる。
駒の姿を、この目で見ることができる。
自分の置かれている現状を、把握できる。
男の胸に、新たな希望の光が灯った。
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