第壱話   主人様

 主人様と呼ばれる人間にとって、頻繁にひたいの濡れた手ぬぐいを取り替えてくれる娘の声は、次第に親しく感じられるようになる。それぐらいこまめに、娘は来てくれる。その声が優しく、いささかの裏もないのが不思議と耳の奥で感じ取れるから、初めは恐ろしくて警戒していても、ゆっくりとほだされ、だんだんと、彼女なら自分の身の上に起きた異変の説明をしてくれるのではないかという、淡い期待さえ抱いてしまう。


 自力で起き上がり、声を発して尋ねることができれば、すぐにでも彼女と会話ができよう。それなのに、全身は重だるく、ひたいだけでなく全身全霊で高熱を発し、冷たく重たい布団までが、己の命綱となっているこの絶望的な状況下で、さらに声まで奪われている。何かの悪い夢だ、早く覚めてくれと願いながら、日々己の境遇を受け入れられないでいた。


 果たして、自分に何が起きたのか。


 ずいぶん長らくこの部屋で寝ているが、本当に夢ならばどんなによいか。


 しかし、熱に苦しむ自分の感覚は確かに本物であった。では現実であるか。ここは高度な医療が揃った、どこかの病院なのであろうか……けっしてそうではないことを裏付けるのも、またこの娘の発する言葉なのであった。「主人様」と言う呼び名は、まず看護師は使わない。代名詞ではなく、名前で呼ぶはずだ。


 この娘だけではない。この部屋にはひっきりなしに、少年のような声をした、医者らしき者も出入りしている。それも何人も。彼らも総じて、患者である青年を「主人様」と呼ぶ。別段、青年を慕っているふうでもなく、代名詞を使って患者と接しているだけといった具合である。


 目隠しをされているため、日々なんの治療をしているのかわからない。いつも腕や足に数多の針が刺され、薬を注射したり、点滴を施しているような気配と物音が、耳に入るだけ。針を刺された時は、虫に強く噛まれたごとくチクリとするが、それを過ぎれば、何も感じなくなった。


 針は夜になると取り外される。彼女も夜は来ない。ならば、彼女の足音が始まる今が、朝なのだと青年は推測した。


 ここは鳥の声もしないし、虫の音もしない。遠くでかすかに、風鈴が鳴るのみ。


「すぐにお医者様が参りますからね。早く起き上がって、ご飯が食べられるようになるといいですね」


 娘の明るい声だけが、青年の中の時計を動かしている。せめてうなずいて、反応してあげたかったが、首も上下に動かない。


 娘が去った後は、自分がゆっくりと呼吸をしている音しか、聞こえないのだった。


(ここは、どこなんだ……俺は、彼らに何をされている。ちゃんとした治療を、受けられているんだろうか……)


 そもそも、ここで治療されるに至った経緯すら、思い出せないでいた。怪我なのか、病気なのか、なぜ起き上がれないのか、なぜ声も出なくなっているのか、何もわからない。


(誰でもいい、教えてくれ……俺は、どういう状況に置かれているんだ……)


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