縫合寝殿の、駒犬

小花ソルト(一話四千字内を標準に執筆中)

第零話   駒の足音

 こまは、暑さと高熱に苦しむ主人様のために、小さな桶に手ぬぐいを浸して、縁側を素足で急いでいた。


 途中、中庭を眺めながら冷たい麦茶をすする、膝小僧まで顎ひげが届く奇妙な老人が声をかけた。


「もし、駒よ、台所に向かうなら、きゅうりの浅漬けを細く切ったものをとってきてはくれんかい。あれと、この冷たい茶がよく合うんじゃ」


「はい、ただいま。主人様の看病が済み次第、すぐにお持ちしますね」


 少し振り向いて返事するだけで、駒の足は止まらない。近場の神社から購入した、縁結びの赤い結紐で長い黒髪を背中で一つに結び、数多の家事の妨げにならぬようたすきけに押さえつけた振袖が、うら若き未婚の少女であることを裏付ける。


 縁側は広く、駒が走っても走っても、なかなか終わりが見えない。外から勝手にやってきた来客が、気ままに座っているものだから、挨拶を交わす回数も多くなる。


 爪楊枝のように細い竹のすだれを、御簾代わりに使って、部屋の間切りをするのが、このだだっ広い寝殿造の、夏の風情ある姿であった。


 駒は簾をいくつもくぐり、桶に指を入れて、水がまだ冷たいか確かめると、薄桃色のみずみずしい唇の端を、少し上げた。


 ぬるければ、また神社脇の古井戸まで往復するつもりであった。満足のいく冷たさを保てるまで、駒は何度だって、往復するつもりでいた。


(熱にうかされた主人様を見るのは、辛いから)


 病魔調伏、立入禁止、達筆な墨字を踊らせる札が、木戸にびっしりと貼られていた。


「失礼します、主人様。駒です」


 ……耳をすませても、返事はなかった。いつものことだ。この部屋の奥にいる患者は、まだしゃべることが難しい。


 駒はお札が剥がれないように気をつけながら、取っ手に白い指をかけて引き開けた。途端に、鼻をつく薬草の強い香りが。窓の無い部屋に充満した、樟脳にも似たツンとした香りが、駒を迎える。


 柱も壁も真っ黒に染まった材木の、薄暗い部屋に、布団が一式敷かれており、そこに全身を包帯で巻かれた男が、布団の中で静かに呼吸していた。包帯には血が滲み、包帯に覆われた随所には、回復祈願と書かれたお札が貼られている。


 駒は桶の中の水が鳴らないように、静かに部屋に入り、外と中を分け隔てるように木戸を丁寧に閉めた。そして足音を控えながら、布団の傍に腰を下ろした。


「お熱はまだ、しんどいですか?」


 駒が問う。それに反応したのか、お札に覆われた顔の口部分が、もぞもぞと動きだした。


 駒は片手の甲で、主人様のおでこの熱を測った。じんわりと薄い肌に伝わる、熱っぽさ。駒は片手を戻すと、にっこり笑った。


「おでこの手拭い、冷たいものに替えますね」


 包帯越しのおでこから、すっかりぬるくなった手ぬぐいを取ると、新しい手ぬぐいをジャッと絞り、患者のおでこに柔らかく乗せた。


「大丈夫ですよ、きっと良くなりますから。ここにいる間は、私が責任を持ってしっかりとお世話いたしますからね」


 包帯に覆われた患者は、うなずくことも、ここはどこなのかも尋ねることができなかった。この部屋で目覚めてから、ずっと声が出ないでいる。包帯の下の眼帯に遮られた両目は、何も確認することができなかった。


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