乞福
陽野月美
乞福
乞福
この日は雨が降っていた。僕は、どんより濁った夜の空から生まれては消える水の粒を、何をするでもなく眺めていた。あちらこちらで泣き喚くような音を聞いていると、罪悪感のようなものが込み上げる。
この雨粒は、まるで自分だと思った。やっと世界に飛び立てたと思ったら、あとは地面にぶつかり崩れるしか未来がない、そんな雨粒を。そう考えると、ここまで必死に泣き叫ぶのもわかる気がしてならない。
いつまでもこうしていたところで意味はないので、僕はもう家に帰ることにした。駅にて、電車を待つ。殺風景な駅だが、灯りがないのと、雨で視界が悪いのとで、あまり見ることなく済んでいる。
見知った街とはいえ傘もなしに歩いたので、知らない場所でも歩いてきたかのような錯覚に陥る。僕としてはこの街を見知ったつもりでも、結局は僅かな側面しか見て知ってこなかったということなのかもしれない。
などと浅はかな当たり前のことを考えてしまうのも、恐らくはこの、雨と駅のせいだろう。あまりに暗く、あまりに冷たい、とても窮屈な闇なのだ。
先程電車を待っていると言ったが、電車が何時に来るのかすらわかっていない。そもそもこの時間に電車が通っているのかも、僕は知らないのである。このことからも、やはり僕はこの街を知らないのだと痛感させられる。
何も来なかったら来なかったで、歩いて帰るなりなんなりすることはできる。故に、ここにいるのはある種、ここにいるしかないという意味でもある。他に雨宿りができそうな場所もなく、一縷の望みがあるのもここしかないのである。
この一縷の望みというのは、移動手段である。つまりは電車だ。もしかしたら電車が来て、僕を自宅の最寄り駅まで運んでくれるかもしれない。そんな希望しか、今の僕には残されていないのだ。
思考し忘れていたが、ここは僕が数時間に呼び出され、僕達が行った場所の最寄り駅だ。僕達、つい三時間ほど前まで、僕は僕達だった。今日は恋人との、言わばデートの日だった。八時間ほど前、行きたい場所があると言われ、この近くのショッピングモールに行ったのだ。そしてその後、行きつけの喫茶店に入った。
いつも通り席につき、一応メニューを眺める。
「いつも通りブルーマウンテンにする?」
と、僕は尋ねた。
「うん」
と、彼女は答えた。
恐らく新人であろう見慣れない店員さんを呼び、注文をする。
「すみません、ブルーマウンテンのアイスとダージリンティーのアイスをお願いします」
しばらくして、僕達の前にその2つが運ばれてきた。
僕の前にブルーマウンテンが来たので、シロップを入れ、彼女の前に置いた。そして手をこちらに引っ込めるついでに、彼女の前に置かれたダージリンをこちらに持ってきた。
受け皿に置かれたシロップを入れ、スプーンで掻き混ぜる。シロップと紅茶の奔流にフレッシュを滑り込ませ、その親和性を眺めた。
一口、ダージリンをいただいた。彼女も、ブルーマウンテンを一口飲む。
二人の間に流れる沈黙は、決して気まずさを孕んだものではない。しかし、普段ならこのような時、もっと言葉を交わしているはずなのだ。その違和感を、僕は無視できなかった。
「どうしたの?」
「ううん」
「言いたくない事なの?」
「ううん」
「あんまり聞かない方がいい?」
「そんなことは、ない」
何となく、嫌な予感が胸に上がってくるのを感じる。
「ごめんね、ちゃんと言えなくて。でも、言わなきゃいけない事だから」
その先を聞きたくない、というのが本心だった。しかし、言えるはずもなかった。なぜなら、僕の決心より、彼女のそれの方が早かったからだ。
「あなたと出会えて、本当に楽しかった」
終わりが始まる気配は、ダージリンとは合わない。それでも僕は、ダージリンと一緒に、胸につっかえたしょっぱい鉛玉を飲み込むしか無かったのだ。
一口飲むも、シロップの甘みが分からなくなっていた。
「本当に、楽しかった」
だったら、と言いそうになって、やめた。
「沢山嬉しいことがあったし、幸せだった」
もう何も、言うつもりはない。
「でも、でもね、寂しかったんだ。あなたは自分の事を何も話さないし、自分の気持ちも話さない。この寂しさも、きっと私しか感じてないんだろうなって分かって、また寂しかった。もしかしたら言わないだけかなって思ったんだけど、そんな柄じゃないもんね」
彼女は少し微笑み、一息を置いた。
「ごめん。私ばかり喋って、遠回りして。多分、あなにとって私って、大した存在じゃないと思うんだ。そんなの当たり前かもしれないけど、ごめんね、私、わがままみたいで、それが耐えられなくなっちゃった」
彼女は、まるで懺悔でもするように、僕に話しかけている。
「だから、もう、別れよう」
言い終えた彼女は口を結び、目に赤い潤いを蓄えている。
僕は何やら悩む素振りをみせ、言葉を発した。
「言ってくれて、ありがとう。ごめんね、寂しい思いをさせて。気が付けなくて本当にごめん。言い訳なんてしない。当たり前だけど。うん、君が―」
君がそう言うなら、と言いかけて、やめた。
「君が寂しい思いをしてるのに、気が付けないなんて、彼氏失格だ。分かった、別れよう。今まで本当にありがとう。僕も、本当に楽しかった」
彼女は目に蓄えた潤いを、いよいよ涙としてこぼし始めた。
「そういうところだよ」
そう言うや否や、彼女はコーヒーを一息に飲み干してしまった。そして財布から百円玉一枚と十円玉を二枚、五百円玉一枚を取り出しテーブルに置いた。
「さよなら」
彼女は席を立ち、足早にドアの方へ歩いていった。後には、退店を告げるベルの音が残留するばかりだった。
胸の中が焼け付くように辛くなるのを感じる。少しでもその熱を冷ますべく、僕はダージリンを一口飲んだ。それでも、熱は少しも冷めやしなかった。僕は苛立ってまたダージリンを胸の中に入れた。なんの味もしないダージリンを飲み干してしまうまで、僕はその熱が体のモノではないと気が付かなった。
それから、テーブルに置かれた六百二十円と伝票を手にレジに向かった。
店員さんは気まずそうにレジを打ち、何か言いたげな顔でお釣りを渡してくれた。慣れない店でいきなりこんなことに巻き込んでしまって、酷く申し訳ない思いで胸が埋まる。せめてもの贖罪に、努めて明るく微笑んでみた。店を出ると、いつの間にやらパラパラと雨が降り出していた。彼女が濡れていないか、僕は心配になった。
それが今から三時間前のことである。そこからどうして今に至るのか、その記憶はない。覚えているのは、雨に濡れた街の、まるで沼のような臭いだけである。泥臭く、生臭い。
その臭いはこの駅の中にまで、窮屈な闇と共に立ち込めている。
この臭いに、何度目かになるか分からないしかめっ面をしていると、ふと背後に気配を感じた。
真っ黒な、影のような人型がそこにいるのは、振り返るまでもなくわかる事だった。
無表情なその人型は、僕の背中にそっと手を当てた。もしもこの駅に電車が来たなら、きっとこいつが僕の背中を突き飛ばすだろう。一縷の望みは変わらずとも、その意味はどうやら変わってしまったようである。
今の僕を傍から見れば、恋人に振られ人生に絶望した青二才、に見えるのだろう。そういった側面が今の僕にあることは否定しないし、実際傷心もしていると思う。
しかし、これだけは言わせて欲しい。僕に限らず人間というのは、そんな単純な一面で表せるモノではないのだ。
確かに、僕は今恐らく落ち込んでいる。しかし、その落ち込みが全て彼女との破局にあるかと言えば、決してそうでなはない。大きな一因ではあるし、最早決め手と呼ぶにふさわしいだけの打撃を僕に与えはした。
だが、あくまで一因であり決め手でしかないのだ。こうなる前の積み重ねが、僕の中にはあったのだ。
僕は、極力人に何も求めないで生きる事を第一信条としてきた。それが何よりの美徳と学んで来たからだ。
幼い頃に読んだ童話、読んだ漫画、アニメ、ゲーム、ドラマ、映画、逸話。その多くにおいて美徳とされていたのが、見返りを求めない愛や優しさである。
人に何も求めないと聞くと、誰にも期待せず誰のことも信じていないように感じるかもしれない。しかし、僕が見てきた人物達は、むしろ逆だった。信じる事を決してやめず、ただ相手のことを思う大きな懐を持っていたのだ。
そして、その姿をたくさんの人が褒め称えた。美しいだとか、かっこいいだとか、さすがだとか、たくさんの人がそれを良きことと言っていた。
だから僕は、そう生きることにした。それが人を喜ばせ、人に多くの幸せを届けることができる最良の手だと思った。
しかし僕は、重大なミスを犯してしまった。僕は、人に期待しないことでこれを実現しようとしてしまったのである。
物語に出てきた彼らとは違って僕は、それほどまで熱心に人を信じて、暖かな期待を投げかけることができなかった。僕は外面だけそれらしく取り繕った、嘘っぱちの仮面だったのである。
辛い時には「頑張るぞ」、苦しい時には「楽しいな」、悲しい時には「反省反省」、これらを合言葉に今までずっと生きてきたのだ。誰かに弱音だとか愚痴だとか、そういったことを言わない為に。それが最善だと信じて。それが人を幸せにすると信じて。
だが、完璧に信じ切っていたのかといえばそうでは無い。はっきり言って、薄々気が付いてた。人に期待しないというのは、時として人を傷付けるのではないかと。
しかし、僕は怖かったのだ。信じたせいで人様を傷付けてしまうのが。期待がプレッシャーとなって、人様を圧迫するのが。だから僕は気が付かないふりをして、ずっと期待をしてこなかった。人の強さを信じる事ができなかった。
いや、それだけでは無い。人への期待が叶わぬ時の悲しみもまた、僕は恐れていた。勝手に信じて、勝手に裏切られた気分になることを、僕は忌避していた。その悲しみを、人にぶつける訳にはいかないのだから。
その結果が、このザマである。期待しなかったから、最愛の人を失ったのだ。僕は最後まで、最愛の人すら信じる事ができなかったのだ。あの子のことだから、きっと最後まで僕を好いて居てくれていたのだろうに、僕を気にかけてくれていたのだろうに。僕はそれに応えることが出来なかった。
目の中に貯まった潤いがこぼれる前に、僕はひとつ大きな深呼吸をした。沼のような臭いが容赦なく僕の鼻腔から喉をえぐり、発作のような咳が次々と流れ出てきた。真っ黒な人型は、僕の背中を摩ってはくれなかった。
いよいよ惨めがその色を濃くして、僕の胸の内を支配する。
今まで僕は、人のためだと自分の幸せを手放してきた。それが何よりの幸せだったからだ。しかし、それも無意味だった。最も傷付けたくない人を傷付け、離れさせてしまった。
ヤケともいえる塩辛さが、喉の奥で暴れているのがわかる。
こうなったら、もう知ったことじゃない。恐れなんて、美徳なんて、そんなものは二の次でいい。僕だって、幸せを、幸福を乞うてやる。
僕はポケットからスマホを取り出し、彼女とのLINEを開いた。現在時刻、午後九時二十二分。この時間、彼女は暇をしているはずだ。
「今更だけど、別れたくない」
画面のキーボードを打ち、彼女に送る。期待叶わぬ悲しみなんて、最早どうでもいい。
「ごめん。君と一緒に居たい。離れるなんて絶対に嫌だ」
これを送信すると同時に、彼女からの既読が付いた。暫時が経過し、返信が来る。
「もっと早く言って欲しかった」
画面越しの文章越しでも、彼女が泣いているとわかる。それがわかるほどに、僕の心は彼女を知っている。
「ごめん」
それを送り、次の言葉を待つ。
「本当に言うのが遅い。もうメイク落としちゃったし、部屋着に着替えちゃった」
これはつまり、もう外には出られないと言いたいのだろう。しかし、出てもらう必要などない。というか、僕のメイクも既に雨で流れてしまっている。
「じゃあ、僕から行く。だから待ってて」
会いたいと言わなくても伝わっているのが、僕は何よりも嬉しかった。
「うん。じゃあ、ご飯作って待ってるから、焦らない程度に早く来て」
僕は咳き込んだ際に丸めた背中を、真っ直ぐに伸ばした。と、ちょうどその時、見計らったようなタイミングで駅のホームに二両編成の電車が入ってくる。
落としていた速度を完全に落とし切り、少しして、プシュー、とドアが開く。脚を持ち上げ乗り込もうとしたその時、何かが僕の背中をドンッ、と突き飛ばした。僕はふらつき、思わず電車の中に入った。
「お前も来るか」
そう訪ねながら、僕は初めて後ろを振り返ってみた。しかし、スマホの明かりに慣れてしまった僕には、黒い影を捉えることはできなかった。
乞福 陽野月美 @Hino_Tukimi
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