1-17 酒宴(1)

【side prince】


 ルイスは、注がれたワインの水面を眺めた。

 そうしながら、今晩目を通したいと思っていた書類の数をかぞえ、調べておきたいことを頭の中でリストアップした。

 できればすぐにでも私室に戻りたい。


 今いるここは、内宮の客間。滞在中の赤の皇太子アシュリーに宛がわれている部屋である。

 就寝前、日中手がつかなかった書類仕事のいくつかを私室に持ち込み眺めていたところ、フィニアスによって連れて来られたのである。


 基本的に車椅子での移動となるルイスは、強引に運ばれては自分では抗い辛い。

 さらに部屋に着いてからは、長椅子に座らされてしまった。

 もう諦めるしかない。せめて着替える前で良かったと思うべきだろう。


 仕方なく、注がれたワインを飲んで、塩気と癖の多いチーズを摘み、随分と糖度が高い初めて見る干した果物を食べた。


 控えていたナディラがワインを注ぎ足し、ルイスの前に果物を追加する。

 日中仕事に対し集中力がやや欠けてしまった原因、その片割れに雰囲気が酷似していて少々居心地の悪さを感じる気がした。

 認めるのは業腹だが落ち着かない。いや、むしろ腹立たしい。


「ハリルをお呼び致しましょうか」


 気が利きすぎるのも考えものだと思う。そもそも所望していない。


 ナディラの静かな問いかけには無言を返答として、ルイスは口に残ったチーズの塩気をワインで流し込んだ。


 フィニアスとアシュリーが、揃ってにやにやとこちらを見ているのが大変気に食わない。

 酒盛りなら仲の良い二人で勝手にやればいい。ルイスをいちいち巻き込まないで欲しい。


「ハリルと話したんだろ?」


 まず聞いてきたのはフィニアスである。


 明らかに、酒の肴にするために呼ばれた。

 それは分かっている。

 なるだけ端的に、可能な限り正直に答えた方が、開放されるのは早いだろう。腹立たしいが。


「寵はいらない。いざとなったら肉の壁になる、と言われました」


「おお、随分気合の入ったお嬢さんだな」


 フィニアスは他人事なせいもあってかそんな調子だが、アシュリーと、ついでにナディラはがっくりとまではいかずとも、多少その肩が落ちたように見えた。

 ハリルとルイスの二人で話すだけで、何らかの進展が望めるとでも考えていたのだろうか。


「そもそも、兄上は全て知ってましたね?」


「ん? ああ、やっと気付いたのか」


 分かっていたが、フィニアスが悪びれる様子はまったくない。


「お前の相手にちょうどいいかと思ってな」


 どの辺りが、というのが顔に出たのかもしれない。

 互いに無い者として扱うという辺りで利害が一致しているだろう、というところだろうか。


 いや、多分違う。

 フィニアスはそういう考え方はしない。


「人ってのはな、目の前に自分より馬鹿なことを考えてる奴がいると、結構冷静になるもんなんだ」


 だからお互いにちょうどいいだろ、と言われて、ルイスは眉を顰めた。

 それを見たフィニアスが、呆れたように笑う。


「なんだルイス、もしかして気付いてなかったのか? お前、結構馬鹿だぞ」


 笑って、ルイスの頭をぐしゃぐしゃと撫でてきた。

 いつまでも子ども扱いは止めて欲しい。

 適当にあしらおうにも、フィニアスは力が無駄に強い。諦めて、されるがままになるしかない。


 兄弟のやり取りを見ていたアシュリーが、喉の奥で笑った。

 笑って、そしてちょっとだけ溜息をつく。何を思っての溜息か、あくまで多少だが、分かる気はする。


「ハリルはな、正確には俺を庇ったナディラを庇ったんだ」


 アシュリーの背後に控えているナディラは、表情こそ変えなかったが僅かに目を伏せた。


「一命は取り留めたが、その命を絶とうとする」


 特に意外性はない。

 あの様子なら、まあそうだろう。むしろよく今生きた状態でいるものである。


「ハリルにとって、俺の役に立つことが全てなんだ。役に立てないなら生きていても仕方ないと言う。馬鹿なことを言うなとどれだけ諭してもどうにもならん。ナディラと二人で宥めすかしてどうにかここまで連れてきた。青の王国と縁を結ぶ、そのために役に立て、とな」


 意外性は無いが、アシュリーの必死さが、ルイスの中でようやく腑に落ちた。


「お前のことは元々フィニアスから聞いていたからな。直接知らずとも、まあこいつが傍にいてそう無下に扱われることもないだろうと、そう見込んで来た。なんならフィニアスの妾って手もあるしな。とにかく俺はハリルに生きていて欲しい。それが国同士の大きな貸しになったとしてもだ。着いたその日に国王陛下とフィニアスには話してあったんだ。すまんな」


 少しもすまないとは思っていなさそうである。


 言いながら、アシュリーが懐を探った。取り出したのは薄紅色の小さな薬瓶だ。

 意味あり気に見せられるそれが、あまり良いものとは思えない。


「……それは?」


「媚薬」


 思わず胡乱なものを見る目をしてしまったルイスに、アシュリーはにやりと笑った。


「場合によっては一服盛って既成事実を作ることも考えていたんだが、お前はそういうことでどうにかなりそうなタイプではないな。その必要もなさそうだし。物分かりが良くて助かるぞ。ご褒美にやる」


 無造作に放られたそれを一応受け止めたが、別にいらない。全く欲しくない。


「まあ諦めろ。もうほぼ決定事項だ。赤の皇国に貸しを作っておくのも悪くないだろ」


 フィニアスがそう言っているのならば、仕方ないことではある。

 ルイスとしても、赤の皇国と関係を築くのに反対する気持ちは無い。縁を結ぶ第一歩としては、第二王子の婚姻ぐらいがちょうどいいとも思う。


 後は個人としての心理的な問題だろう。

 決定事項をどれだけ心地良いものとして受け止めることができるか、という程度の話に過ぎないが。ルイスにとっても、ハリルにとっても。


「望まれているようなことにはならないかと」


 控えめに、釘を刺しておく程度に留めるが、言うだけ言っておかねばならない。

 ルイスの言葉にアシュリーが首を傾げた。心底不思議そうにしないで欲しい。


「ハリルは好みではないか」


 そんな馬鹿な、とでも言わんばかりだが、なるほど多分これはいわゆる兄馬鹿というやつだ。

 世界中の誰もが自分の妹を好ましく思うと信じている。フィニアスと同じ類の人間だ。


 相手にするだけ無駄な生き物である。


「そういう話ではありません」


 そもそも、ハリルが恋とか愛どころか人の情の話すらできるような状態ではない。

 世の中の人間が「アシュリー」か「アシュリー以外」の二種類という状態である。どうしろと言うのか。


「美人だろ」


「否定はしませんが」


「笑うとかわいい」


「左様で」


「傷は気になるか?」


「そこは別に」


「その時になってびびるなよ」


「何の話ですか」


「分かってるならいい」


 溜息が出た。ルイスが車椅子を指し示すと、アシュリーは首を傾げた。


「むしろ、私の身体の方が気になるのでは?」


「は? なんでだ。ならんだろ。まあ不便なことはあるだろうが、王族なんて元々世話されるのが仕事みたいなもんだしな。大した問題じゃない」


 あまりに即答過ぎて、むしろ戸惑う。本当に少しも気にしていないらしい。


「そんなことより、念のために言っておくが」


 そんなこと、で済む話だろうか。

 などと思いつつ、急に剣呑な空気を醸したアシュリーにルイスは心中でそっと身構えた。

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