1-16 女王の庭園で
【side princess】
クリスティナは、女王の庭園に侍女を伴い向かっていた。
赤の皇太子と昼食を共にする様フィニアスに命じられてのことである。
縁談を後押しされているのか、ただ単純に人となりを知った上で決めろと言われているのかは、判断に迷うところだ。
庭園には既に赤の皇太子がいた。昨夜に比べいくらかラフな出で立ちである。
東屋の前に立っていたアシュリーは、クリスティナの姿を認めると、満面の笑顔で迎えた。
「よく来てくれた。クリスティナ殿下」
「お招きに預かり光栄でございます。アシュリー皇太子殿下」
大仰なお辞儀に、クリスティナもドレスを詰まんでお辞儀を返す。
顔を上げたその先で腕を差し出され、無視するわけにもいかずその腕に手を添えた。
昼日中、こうも明るい場所で、従者も侍女もいる場で、そうそう昨夜のようなおかしな空気にはならないだろう。多分、きっと。
「まずは互いを知ることから始めましょう。食事でもしながら」
朗らかに言われて、昨夜のあれは夢だったのかと勘違いしそうになる。
昨夜の不健全な空気に比べれば遥かに落ち着ける。
安堵してエスコートされたクリスティナは、東屋に足を踏み入れ、広げられた食事とそこにいた人物を見て、貼り付けていた笑顔を凍り付かせた。
「ちょうど見かけたので、彼も呼んでみました」
思わず踵を返したくなったクリスティナの手を、アシュリーの手がそっと力強く掴んだ。
「折角なので、呼ばれました。クリスティナ殿下。ご一緒させていただいても?」
いいわけがない。
無駄に良い笑顔で、レイモンド・エンディはそこにいた。
女王の庭園は、緑に囲われている。東屋に寄り添って立つ大きな木には緑の葉が茂り、庭園を形作る植え込みも、殆どが花を付けない葉だけの植物である。
緑の濃淡が清々しいその中で、真っ白な薔薇が大輪の花を咲かせている。
緑と白とのコントラストが、静かで美しい。ただ心を落ち着けるための庭園である。
その庭園の中に在って、今現在、クリスティナの心は少しも落ち着けていないわけだが。
東屋に広げられていたのは簡単な軽食だ。
ハムとチキンとチーズと葉物野菜が挟んであるパンに、干した果物とナッツ。そしてまるごとのリンゴ。
リンゴはクリスティナの目の前で、素顔を晒したナディラが慣れた手つきで切り分けた。
相変わらず黒い布で覆われた姿だが、頭から被っていた布は外している。
指先を隠すほど長い袖が邪魔にならないかと思ったが、そうでもないらしい。器用だ。
そこでふと気付いた。今更だが、ハリルが皇女ならば、ナディラも皇子に当たるだろう。
給仕などさせていてもいいのだろうか。
「ご心配なく」
クリスティナの心配を読み取ったらしいナディラは、茶を注ぎながら、さり気無く簡潔にそう言った。
思わず見上げた目元は黒く縁取りされ、眦にさした紅が鮮やかだ。
その印象的な目元はそのままに、口元だけが笑みの形を作った。
「ところで、名前で呼べばいいか? それともレイ、と愛称で?」
実に楽しげなアシュリーが、無言でお茶を飲んでいるだけのレイモンドにそう切り出した。
二人は既に自己紹介を済ませていたらしく、席に着いてから今までの気まずい沈黙はそこそこ長かった。
しかし、多少気まずかろうとも沈黙で良かった。気まずかったのは恐らくクリスティナだけだったろうし。
「恐れ多いことでございます。エンディとお呼びください」
「そうか、ではレイモンド」
やはり沈黙が良かった。
ここまでで、既にクリスティナは逃げたい気持ちしかない。
食事どころではない。
アシュリーが持っているフォークでリンゴを刺したのが、何かの暗喩のように思えてしまうのは考え過ぎだろうか。
そもそも何故レイモンドがいるのか、理解に苦しむ。
レイモンドは微笑んではいるが、顔が微笑んでいるだけだ。
たかだか貴族の一人に過ぎない者が赤の皇太子に話しかけられて無視はできないだろうし、食事に誘われれば、断るという選択肢は存在しない。
分かっているが、それでも上手くやって欲しかった。
視界に入らないようにするとか。
そもそもアシュリーは一体何のつもりで、いや、分かっている。
分からない振りをしたところでそうそう自分を騙せるものではない。
この面子でクリスティナの婚約に関する事と思えない方がどうかしている。
いっそどうかしていたかったとも思うが仕方がない。
とりあえず、ちょっとお茶を飲むことにした。
水色は薄く、とても華やかな花の香りがする。赤の皇国のお茶だろうか。
「王女に結婚を申し込もうと思っている。まあ既に申し込んだようなものだけど。な?」
口に含んだばかりのお茶を吹きそうになった。
危ない。本当に止めて欲しい。
最後の「な?」はクリスティナに向けてのものだが、特に返答を求めてのものではないだろう。
口元を抑えるクリスティナに、レイモンドの視線が刺さる。
視線が痛い。
「クリスティナ殿下は、承知されたのですか?」
それを問う、レイモンドの声はいつも通り甘やかで優しげで、今はそれにほんの僅かな悲哀らしく感じられるものが混ぜられている。
そしてその奥に、好戦的とも取れる何かがある。
「さてな。貴殿はどう思う?」
アシュリーは否定も肯定もしなかった。
場の空気が冷えていく。
クリスティナとしては放っておいて欲しい。
何よりも今この場で、決定的な何かを口にされたくはない。まだ受け止められない。
でも。
浅ましい期待がある。クリスティナの中に、確実に存在しているものがある。
「貴殿と、いや、正確にはグラスフィールド侯爵と国王陛下との約束だな。婚約の件は勿論知っている。その上で、話している」
「では」
レイモンドの言葉を遮って、アシュリーが言う。
「国王陛下には内々に求婚の許可はいただいている。この意味は分かるな?」
レイモンドが、口を噤んだ。
青の王国として、クリスティナとレイモンドの婚約を破談にしても構わない、そういう意味だ。
そして、きっとその先も想像できる。
国王は、決してグラスフィールド侯爵を無下には扱わない。
レイモンドはそれをよく知っている。
「姫君から手を引け、小僧」
尊大に、赤の皇太子は言い放った。
「そうすれば、お前には王配としての地位が約束される。ついでに赤の皇太子のこの俺に貸しを作れるぞ」
すごいな、と言いながらアシュリーは先ほどフォークに刺したリンゴを咀嚼した。
レイモンドは、カップを殊更ゆっくりと持ち上げてお茶を一口飲んだ。
「貴方様に貸しをつくるというのは、大変魅力的ですね」
カップと受け皿とが触れ合う音がして、レイモンドはそう言った。
クリスティナが縋る気持ちで見たレイモンドは微笑んではいる。しかし、その目はやはり少しも笑っていない。
その紺碧色の目が、クリスティナを見た。
拒否を、して欲しい。
赤の皇太子の要求を突っぱねて、クリスティナは自分の婚約者だと言って欲しい。
これ以上、不安にさせないで欲しい。
安心させて欲しい。
大切にして欲しい。
好きになって欲しい。
嫌いにならないで欲しい。
呆れないで欲しい。
クリスティナの中に、レイモンドに対する要求ばかりが募っていく。
「クリスティナ殿下」
何かを読み取ろうとするように、レイモンドの目が僅かに細められた。
「貴女の、お考えは?」
あくまで口調は穏やかで、それなのに、まるで責められているようだ。
「……わたし、は」
「はい」
麻痺したかのように動かない口を動かして、何かを言いかけて、しかしそれ以上、言葉が出てこない。
どんな事を言えばいいのか、どんな答えを望まれているのか。
考えても、考えた端から、答えは空気中に溶けるように消えていく。
この場に相応しい、適した言葉を見つけることができない。
クリスティナの中にあるのは溢れるほどの要求ばかりで、どれも口にできないものばかりだ。
紡ぐべき言葉が見つからない。
何かを言わなければならないのに、何も言えない。
でも、何か言わないと、取り返しがつかなくなりそうな気がする。
レイモンドが待っている。クリスティナの言葉を。
「よく、分かりました」
何が、分かったのだろう。それすらも分からない。
だが、何かに見切りをつけられたような気がする。
何に対してだろう。
クリスティナに、対してだろうか。
微笑んでいるその顔の、奥にあるのはクリスティナに対する失望だろうか。
「皇太子殿下、私は体調が優れませんので、これで失礼させていただきます」
「返答は?」
「保留とさせていただきます。何せ体調が優れないもので」
体調の悪さなど微塵も感じさせない様子のレイモンドが立ち上がり、東屋を後にする。
「レイ……っ」
思わず口から出てしまった声は、まるで悲鳴のようだった。
縋るような己の声に、クリスティナは思わず口元を手で覆った。
「なんです? クリス」
レイモンドはちゃんと微笑んだまま振り返った。
失望も苛立ちも感じさせない、いつも通りの、完璧な顔で。
それでもやはり、何も言えない。
不必要に名を呼んで、それっきり固まってしまった王女に、レイモンドはほんの少しだけ、無言のまま時間を与えた。
「では」
そうして優雅な礼を残して、きっと何かを諦めて、女王の庭園を後にした。
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