1-13 皇太子の思惑(3)
「アシュリーいい男だろ。ちょっとぐらっときた?」
フィニアスの言葉に、クリスティナの集中が乱れた。
持っていた剣を叩き落され、フィニアスの持つ剣の切っ先を突きつけられる。
「はい。俺の勝ちー」
「今のは酷いです! 兄上! ちょっと!」
抗議するクリスティナの言葉に、フィニアスは人の悪い笑みを見せた。
王城の一角、騎士団の訓練場では騎士団が各々訓練に励んでいる。その中で、クリスティナとフィニアスは剣を交えていた。
剣と言っても訓練用の木剣である。
そうそう見えるところに怪我など負わないよう互いに気を付けているが、それでも周囲の者達は何か言いたげな恨めしい表情で二人を見守っている。
分かっている、気を付けるに越したことは無い。
婚姻を、と言ってきている皇太子を前にして、王女が見える位置に傷など作っていては外聞が悪い。
それに、そもそもそんな真面目なものでもない。あくまでただの気晴らし。軽い運動。
王族として生きていると、そういうことが必要な時が往々にしてあるのだ。
クリスティナはもう一度剣を握り直した。
礼をして、構える。
訓練に励む騎士や武官の中には二人を気にする様子の者もいるが、そういう者達は大抵新人である。その他の者達にとっては、よくある見慣れた光景だ。
少し離れたところでは、いつもよりハラハラいしている様子のクリスティナの侍女と、真面目な顔で王太子を見守っている、という体でおかしなことをしないか見張っている第一騎士団の副団長がいる。
余裕を見せるフィニアスは、クリスティナとは違い軽く構えてにやりと笑った。
「で、ぐらっときたんだろ?」
「きてない!」
ちょっとヤケクソ気味な気持ちで踏み込んで、腕を振るう。が、もちろんそんなものがフィニアスに当たるわけはなく、あっさりと弾かれた。
フィニアスが軽く打ち込んできた剣をぎりぎりで防ぐ。
「大振り過ぎ。いや、違うか。ヤケクソ過ぎ」
フィニアスの言葉をそれ以上否定しないのは、当たっているから、とかでは断じてない。ぐらっとなんてきていない。
昨夜浴びせられたアシュリーの言葉は、あまりにもクリスティナにとって真っ直ぐで過剰だった。到底受け止め切れるものではなかったし、そもそも経験値が違い過ぎることを痛感した。
レイモンドのそれとは違い過ぎて、都合が良過ぎる気がして、居心地が悪くて。
でも、もし、もしも全部委ねてしまえたら、もしかしたらとても大切にしてもらえるのかもしれない。
なんて、そんなことを少し思ってしまっただけ。そう、ただそれだけだ。
「ぐらっと?」
「きてません!」
完全に集中力を失ったクリスティナの手から、再度弾かれた木剣が音を立てて落ち、目の前に切っ先が突き出される。
これ以上やっても無駄だというのは自分でもわかっていた。
全然気は晴れていない。
その先にあるフィニアスのにやついた顔を睨みつけた。完全に面白がっている。
「大体、私の気持ちなど関係ないでしょう」
上がった息を整えるはずずのそれは、溜息になった。
息ひとつ乱していないフィニアスは、隠しきれないにやにやを滲ませて腕を組んでいる。
木剣は、いつの間にか副団長が回収していた。
クリスティナは、控えていた侍女に渡された手巾を受け取る。
「それが、そうでもない」
自分たち以外に聞かせないためにか、フィニアスはさりげなく声を潜めている。その声が聞こえるよう、クリスティナは耳をそばだてた。
「朝一で父上と俺のところにアシュリーが来てな。クリスティナに求婚したいから、その許しが欲しいと」
クリスティナはとっさにどう反応していいのかわからず、言葉に詰まった。
求婚の許し、その意味を理解するまでに常にない時間をかけて、しかし意味が理解できても発するべき言葉は見つからない。
「……………………っ」
「ああまで真正面から来られたらなあ」
顎をさすってにやにやとしているフィニアスは、クリスティナからの無言の抗議を正しく理解して首を傾げた。
「だってお前、求婚の許しだぞ?」
分かっている。そう、求婚の許しだ。
その意味ぐらい、クリスティナだって分かる。
結婚の許しを得ることだって出来ただろうに、アシュリーが欲したのは求婚の許可で。
それは、クリスティナの意思を尊重したいという意思表示に他ならない。
だが、クリスティナには婚約者がいるのだ。
例えフィニアスの娘が取って代わることができる婚約であったとしても。いや、違う。
婚約を、逃げ道にすることが誠実さに欠けた思考であることもまた、分かっている。
それに、生憎今日に至るまでの一連の話から、王女に婚約者をがいることも、青の王国としてその辺りはどうとでもできるということも、知られてしまっている。
「クリスティナが承諾すれば、嫁に出してもいいってことになった」
クリスティナは、絶望的な気持ちで兄の声を聞いた。
クリスティナの気持ちなど、関係ない方が良かった。
「あいつに嫁げ」と命じられた方が良かった。
レイモンドは、クリスティナ個人の事など顧みない。
持て余す気持ちは重いばかりで、それでも、最終的にクリスティナは定められた通りに、レイモンドと結婚するで、十分だったのだ。
赤の皇太子に嫁ぐと定められたのなら、それでも命じられた通りに従った。
それで、いいのに。
自分の気持ち次第で変わる未来など、どうしていいか分からない。
考えたくないのだ。
どちらを選んでも、二人が選ばれたことを本心から喜ぶとは限らない。疑ってしまう。そんなことばかり考えてしまう。
でも、命じられてのそれなら諦めもつく。
レイモンドも、アシュリーも、クリスティナは自分では選べない。選びたくない。
「クリスティナ、クリス」
気付けば項垂れていたクリスティナの両頬を、フィニアスの手が挟んで強引に上を向かせた。
泣きそうな顔になっていたのだろう。クリスティナの顔を見たフィニアスが苦笑する。
「どうせ、また馬鹿なこと考えてるんだろ」
頭をフィニアスに抱えられ、そのまま胸元に押し付けられた。
「難しく考えるな。赤の皇太子妃でも、貴族の嫁でも、お前なら上手くやれる。俺の賢くて可愛い妹だからな、大丈夫だ。どちらにせよ、俺の王国の役には立てる」
クリスティナの背中に回された手が赤子をあやすように優しく叩く。されるがまま、クリスティナはフィニアスの胸に額を押し付けた。
「だからな、好きな男を選べ。レイモンドでも、アシュリーでも、お前の心に従って、好きな方を選んでいいんだ。二人とも、間違いなくお前を望んでる。そのぐらいは信じてやれ。どっちも好きじゃなければ、マシな方を選べばいい」
クリスティナは、兄の服の裾を掴んだ。汗臭いし、乱暴に扱われて、きっと髪も乱れてしまった。
それでも、こうやって甘やかされては、クリスティナの弱い気持ちはどうしても縋りたくなってしまう。
それなのに、フィニアスはすぐにこうやってクリスティナを甘やかすのだ。
弱さなど、本当は誰にも見せたくないのに。
「……私は、兄上のそばにいたい」
呟いた言葉はあまりにも情けなく、あまりにも弱くて。本当に、こんなの他の誰にも聞かせられない。
「…………もおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
しばしの無言の後、頭上から聞こえてきたのは兄の呻き声にも似た悶えるような声だ。
クリスティナを抱えたまま、勢いよく背後を振り返ったフィニアスが副団長のアーネストにかける声がクリスティナの耳に入った。
「なあ聞いた? 聞いたかアーネスト! 俺の妹すごいかわいい!」
「いえ、声を潜めていらっしゃいましたので聞こえませんでした。それより声がでかいです。威厳も何もかも霧散しそうな言動は控えてください。今更ですが一応控えてください」
アーネストのぎりぎり慇懃な言葉に、クリスティナの申し訳なさが募る。
こうやって、兄に甘えてばかりのクリスティナだから色々と駄目なのかもしれない。
うまくいかないことばかりで、逃げ腰になってばかりだ。
でも、もうちょっとだけでいいから、こうして甘やかされていたい。あと、少しだけ。
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