1-11 皇太子の思惑(1)
【side princess】
クリスティナは、バルコニーから少しだけ見える小さな屋根をぼんやりと眺めた。
月明かりに照らされて白く輝く屋根は、基本的に王族のみが立ち入りを許されている小さな庭園にある物だ。
大きな樹に食い込むようにして建つ小さな白い東屋と、その周囲を囲むようにして白い薔薇が咲いているだけの小さな庭園である。
人目を避けることができる造りのせいもあって、とても落ち着ける空間である。
女王の庭園と呼ばれているそこは、女王の王配であった祖父が自ら薔薇を植え、時間をかけ丁寧に世話をして造ったと聞いている。
政務に追われる女王の、安息のために造られたらしい。
クリスティナが生まれる以前の話で、既に二人とも故人である。
しかし今も庭園は丁寧に管理され、当時のまま残されている。
幼い頃、ちょっとした問題を抱えていたクリスティナは、よくあの庭園に逃げ隠れていた。
祖父母も母も亡く、父は王として政務に追われ、フィニアスは遊学中で不在。ルイスは病がちで臥せっていることが多かった時期。
クリスティナは孤独だった。
そこで差し出された小さな温かい手を、今でもよく覚えている。
「ほっとしたでしょう」
背後からかけられた声に、クリスティナは振り返った。
声の主は、先程まで同じ部屋にいた赤の皇太子である。
青の王国の姫君を望む温度、それが決して高くないものであると知って、漏らしてしまった安堵の息に気付かれていたようだ。
あれは、良くない振る舞いだった。
「そうですね。少しぐらいは」
今更下手な嘘で取り繕ったところで意味はないだろう。
ついでに、ハリルに対して、どう見てもお互い主従として接していながらでも、それでも妹としての情を示す皇太子にもほんの少しほっとした。
優先順位が下位であるというだけで、クリスティナの縁談も生きていることは理解している。
もしかしたら嫁ぐかもしれない相手だ。誰かに情をかけられる人間の方が良い。
あと一歩の距離まで近付いてきたアシュリーが、首を傾げた。
人懐こい笑顔だが、何故か大型の猫に玩具認定された気分になる。
「私は好みではない?」
「素敵な方だと思っています。私にはもったいないほど」
貼り付けた笑みを浮かべ答える。
先ほどの話を経た今、この皇太子との縁談がどちらに転ぶかまだわからない。
ただ、王の中でこの皇太子に対する好感度は決して低くないだろう。好感度で決まるものではないが、少なくとも王女の身を預けても問題ないかも、程度の信頼は勝ち得ている気がする。
見つめ合う、というにはやや好奇の色が勝っている気がする視線が落ち着かない。
目を逸らすべきではないように思えて、とりあえず微笑んだまま、その観察する様な視線を受け止める。
「レイモンド・エンディと言いましたっけ? あれが、好きですか?」
唐突に出た名前は不意打ちだったが、それでも微笑みは崩さなかった。
「それは、関わりのないことです」
好きとか嫌いとか、そういうことではない。
赤の皇太子にも、この縁談にも、そんなことは関わりはない。
王族の婚姻はまつりごとだ。
「王族の婚姻はまつりごとだと? まあ、そうですね。でも、許される範囲でなら、心に沿うのも悪くはない」
「そうかもしれません」
内心困惑しながらも一応言葉を返すが、気の利かないことこの上ない言葉しか出てこなかった。
なんだか落ち着かない。
雰囲気がおかしい。甘いような、甘ったるいような。そういう空気感が漂い始めている気がする。
視線を外すタイミングを失って、どうすればいいか迷うばかりでどうにもできない。
アシュリーの黒い瞳は、よく見れば複雑な色味の虹彩が煌いている。
その目が僅かに細められた。
「美しく微笑んでいる貴女のその顔も好ましく思いますが、婚約者殿の話になった時だけ、泣きそうに揺れるその目がいい。結構そそる」
「そっ……」
あまりに明け透けなその言い様に、言葉を失う。
それを見て、アシュリーが楽しそうに笑った。楽しそうでいて、嬉しそうでもある。
飾り気ない笑みが、クリスティナを落ち着かない気持ちにさせた。
「王女として、きっと貴女は完璧なのでしょう。王女らしく自らを律し、上手く立ち回り、決して兄君の邪魔にならぬよう、この上なく上手に振舞っている。それなのに、すかした優男一人が絡むと途端に脆くなってしまう。それが、可愛い」
「かっ……」
「その相手が俺だったらいいのに、と思っている」
そこでもう堪え切れなくなった、表情を保てなくて、頬が熱い。
みっともない顔を見せたくなくて、顔を伏せて隠す。
まるで、ただの小娘のようだ。
「ハリルを嫁がせることが最優先だと言ったとき、ほっとされてちょっと面白くなかった」
もしかしたら、向けられているこれは、好意なのだろうか。
でも、ただの純粋な好意と思うほど御目出度くはないつもりではある。
それに、ただの好意と判断するには、相手のことを知らな過ぎる。
赤の皇太子として、やはり青の王国の王女が欲しいのかもしれない。
いつの間にか変化している一人称と口調に、意味を見出すのは独りよがりの勘違いなのかもしれない。
でも、だけど。
「赤の皇太子として、最優先とするのはハリルの相手を見つけることです」
再び穏やかな口調で話し始めたその内容に、のろのろと顔を上げる。
アシュリーの顔は、横を向いていて、バルコニーの外、先ほどクリスティナが眺めていた庭園の白い屋根の方を見ていた。
安堵して息を整えると、アシュリーの横顔、その口元が笑みの形に変わった。
どうやら、落ち着くための時間をくれたらしい。
悔しいが、これはもう経験の差だろう。完全に相手が上手だ。
「フィニアスはそれなりに信用していたが、奴の弟がどうかはわからなかった。これでも結構気を揉んでいたのですよ。国を空けてここまでやってきて、それでも、王子の人となりなんて会ってみないとわかりません。でも、フィニアスは俺の妹を決して無下にはしないし、その弟のルイス殿も、ちょっと拗れていそうだが、悪いやつじゃなさそうだ。ハリルを傷物だと厭うようにも見えなかった。少なくとも、色好い返事を期待したいと、そう思えました。結果はまだ判りませんが。ほっとして、柄にもなく、浮かれた気分やもしれません」
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