青き茨の王国と真白の神におくる歌
ヨシコ
序
0-1 大地を喰らう
雲一つない青い空を、翼を大きく広げた鳥の影が横切った。
山の方から現れたそれは悠々と滑空し、どこへ行くでもなく、大きな円を描くようにして辺りを旋回し始めた。
時折羽ばたくその姿は、白い大型の鳥。フクロウの様に見える。
あれは夜行性の鳥ではなかったか、と独り言ち、男はフクロウと思しきその鳥が旋回するその先にある集落へと目をやった。
馬を進めている先に、目的地となる集落がひっそりと佇んでいる。
大陸の端に位置する集落のその先は切り立った崖であり、崖の向こうには果て無く広がる黒き大海のみがある。
険しくはない森と山に阻まれ孤立している集落は、見える範囲で十にも満たない小さな民家があるばかりだ。
この距離からでは片手に収まりそうなその中に、僅かだが人の影がちらほらと見て取れる。
森と山に阻まれていると言ったところで、一番近い村からの道のりは大して険しい道でもなかった。馬に騎乗したまま超えられる程度である。
それでも孤立していったのは、その距離のせいだろう。
のんびりとした行程ではあったが二日。二日かけて他所と交流するほどの必要性が集落の者達には無かったのかもしれない。
その集落はあまりに小さく、静かで、そして、忘れられつつあった。
馬にゆったりと揺られながら、男は懐から木でできた小物入れを取り出した。
手の平に収まる程度の、指輪一つが入れば十分なサイズの小物入れは丸い円を描いており、全面に茨の蔓と薔薇、そして雄々しい鷲の姿が透かし彫りされている。
精緻で美しく、見事という他ない。
たまたま立ち寄った村の露店をやる気なく眺めていれば、抜け目なく営業を始めた店主がとっておきの客にだけ見せるというそれを、見るからに身なりの良い男に恭しくひけらかしたのである。
同じ細工師が手掛けた物が他にないか、と尋ねたのはあまりにその細工が見事だったからだ。
土産物は十分足りているだろうが、小さな細工物が増えたところで困ることはない。
馬で二日ほど進んだ先にある小さな集落があるかもしれず、そこに細工師がいるかもしれない、というようなことを聞かされて、少々気になってしまったのはまあ性分である。
何が、と聞かれても答えに困る。ただ何となく、気になった。
ほんの少し色を付けた代金を受け取った店主の長々とした話を要約すると、店主自信が細工師本人から買い取ったわけではなく、箱細工を買い取ったのは何年も前、細工師が本当にその集落の者かは定かではなく、さらには集落が本当に現存しているかどうかも怪しい。
どうやら完全に自給自足でもしているらしいその集落は、存在しているらしいという話を知っている者はいても、行ったことのある者はおらず、あちらから誰かが訪ねてくることもほぼ無い完全に孤立した状態だという。
店を出て試しに聞いて回ってみが、集落について聞ける話は、ほぼ店主の語る内容と同じであった。
そういう話になってくると、細工師云々はもとよりその集落が気になってくる。
かくして一行は小さな村を出て、王国の最西端に馬を進めてきたのである。
結果、件の集落はこうして実在した。
小物入れを懐に仕舞い込み、男は轡を並べる同行者、自らの従者へと声をかけた。
「あまり騒ぎにはしたくないな」
言われた方の男の従者は自らと、そして後ろを付いてくる五人の護衛に視線をやった。
間違いなく、小さな集落では異質なものとなる集団である。
主人である男と、従者、そして護衛が四人。
王都であれば特別目立つとも思えないが、他の村とすら交流のない小さな集落においては、物々しさは拭えないだろう。
派手さの無い旅装とはいえ、それなりの風体の男が六人である。
その六人ともが騎乗し、六人共が腰には剣を携えて押しかければ何事かと思われるに違いない。
閉鎖的な村や集落では、余所者が足を踏み入れただけでちょっとした騒ぎになることがよくある。
そこにこの六人では、騒ぎにはならなかったとしても酷く目立つだろう。
怯えさせるのは本意ではない。
「まあ、そうですね」
「うん。だからな」
「では、申し訳ございませんがこちらでお待ちいただけますか。まずは私が様子を伺ってまいります」
男が何か言いかけるより先に従者がそう言うと、それらしく尤もらしい口調で男はそれを引き留めた。
「いやいや待て待て。どうせ行くんだから最初から俺が行った方が早いだろ。そろそろのんびり旅行気分もしてられなくなってきたしな。お前らちょっと待ってろ」
「だから寄り道をし過ぎだと何度も、いえ結構です。私めが異を唱えるこの時間すら無駄なのはよく分かっております。私だけで構いませんのでお供させていただきます。とっとと行きましょう」
「分かってるじゃないか。四人は留守番だ。適当に野営の準備でもしておけ。あの感じじゃ宿も無さそうだしな。夕刻前には戻る」
どこまでも長閑な光景の中、男は疲れた溜息を吐く従者を伴い、のんびりと馬を歩かせた。
この後は王都へ帰還する。何かと慌ただしくなるだろう。
一時の、最後の長閑さを堪能するようにして進む主従は、しかし、何とはなしに顔を見合わせた。
馬がたたらを踏んだのはその直後である。
何かに怯えている。
だが、何に怯えているのか判らない。
集落までは馬を走らせればすぐとはいえまだ距離がある。辺りにあるのは木と低木の茂みばかり、その陰に獣でも潜んでいるのか。
二人は緊張感を持って、周囲を見渡した。見渡す限り、異変らしきものは見つけられない。
ただ、確実に何かが起こっている。あるいは起ころうとしている。
怯える馬を宥め、剣の柄に手をかける。
そうしているうちに漂ってきた酷い臭いに、男は眉を顰めた。
何かが腐ったような、そう、長時間水に晒された生物の死骸のような。一度だけ嗅いだことのあるそんな臭いに似ている。
だが、見える範囲に湖も池も視認できない。
それに、あまりにも臭いが強過ぎる。
「下がってください」
従者が、男をその背に庇うようにする。
実際のところ、どこが後ろでどこに下がるべきかは判らない。
後ろから、置いてきた四人が馬を駆ってきた。
男を囲み、何を警戒すべきかも判らないまま辺りを伺う。
異変は未だ目に見えない。だが、確実に何かが起ころうとしている。
臭いは刻一刻と酷くなってゆく。
空気が振動している。
地面が揺れている。
地鳴りが起こっている。
そして、唐突に理解した。
下から、何かが来るのだ。
そうして、何かが下からせり上がってくるのを見た。
辺りが、薄闇に飲み込まれていった。
男は天を仰いだ。
正確には、天を覆うほど巨大な何かを。
何かが、辺り一帯を覆い尽くしている。
影に引きずり込まれたように、暗い。人も、野も、集落も、崖も、全てを。
あまりにも巨大な何かが、海からやってきた。
大海の、黒い水面の下から。
その巨大な何かが口を開けている。
そう思ったと同時に、巨大な濁った眼球が、男を見た。そんな、気がした。
迫ってくるその巨大な顎門の奥に、暗闇が見えた。
辺りに轟音が響く。
衝撃に、大地が揺れ、巨大な水しぶきが上がった。
忘れられつつあった小さな集落は、その大地ごと、永遠に何かの顎門の向こうへと消え去った。
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