第2話温もり
『着替えはそこのかごの中にあるから』
案内されたお風呂のドアを開けると、小さな丸い形の窓から差し込む太陽の光が目に染みた。終わりのない苦しみから放されるはずだったのに、排水溝に流れていく茶色い水を眺めながらまだそれが終わっていない現実に小さく体が震わせた。
良い香りがするバスタオルに身を包んで、その上に置いてあった着替えに袖を通した。小さなドライヤーで長い髪をせわしなく乾かして廊下に出ると、携帯に視線を落とす彼が立っていた。まだ靄に包まれたようにぼうっとする頭のままお風呂のお礼を伝えようとすると、それよりも早く頭の上に低い声が降りてくる。
「飯くおうか」
「海水も砂も飲んでるだろ。もし、具合悪ければ病院が開いたら連れて行くから」
「ううん……大丈夫」
「少しなら食えそう?」
頷いたままなかなか箸を持たない私にしびれを切らしたのか、彼は自分のお膳の前で手を合わせると静かにお椀に口を付けた。
「これ俺が作ったんだよ。うまいから食ってみて」
言われるがままお椀を手にすると、目の前の彼と視線が混ざり合う。私の動きに合わせるように彼の視線が動くから、少し緊張しながらお椀へ口を付けた。
「……美味しい」
私の言葉に満足したのか、彼は頬を緩めてそうだろと笑った。その顔見た途端、ポタポタと何の前触れもなく涙がお膳の上に落ちて、お椀の中の味噌汁を揺らす。何も聞かずに箸を進める彼が優しくて、温かくて、怖い。
「この後、仕事があるんだ。身の回りのことは仲居さんに頼んであるから、何かあったらその人に頼む」
「そんなわけにはいかないよ……食べ終わったらすぐにここを出るから」
「なら両親に迎えに来てもらって」
「一人で大丈……」
「昨日死のうとしていた奴を一人で帰せるわけないだろ。迎えが無理なら送って行くから」
帰る場所がない──そう言葉にしたら、あなたはどんな顔をするんだろう。口を噤むと大きな手のひらがまだ少し濡れている髪の毛を撫でた。
「仕事が終わるまで待てるか?」
こんな風に良くしてくれた彼にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。仕事の後にきちんと断ってここを出よう。私は彼の手のぬくもりを感じたまま小さく頷いた。
「失礼します」
ノックの後、ゆっくりと開いたふすまの先で着物を着た女の人が畳に手をそろえて頭を下げた。
「仲居の宮沢です。雪希さんが戻られるまで、御用があれば何でも私にお申し付けくださいね」
「美波、です。お世話になります」
「雪希さんったらどこからこんな綺麗なお嬢さんをお連れになったのでしょう」
年齢は母と同じくらいなのかな。清潔感のあるぴしっとした見た目の印象とは違う柔らかい笑顔に、固くなっていた体の力がゆっくりと抜けていくのを感じた。
「先ほどお召しになっていたお洋服の洗濯が終わりましたのでお持ちしたのですが、泥がついてしまったところがどうしても落ちなくて。綺麗なままお返しできず申し訳ございません」
「とんでもないです。洗濯までして頂いてありがとうございました」
洋服を受け取ると、優しい柔軟剤の香りが鼻を抜けていく。自分の家の匂いとは違う誰かの匂い。誰かが側にいてくれるような懐かしくて温かい、そんな匂いがした。
「この時期はいつもならお客様も少ないんですが、今日に限って数名ご予約が入っておりまして。雪希さんは仕入れの後食事の仕込みを終えたら一度こちらへ戻られると思いますので、それまでゆっくりお寛ぎくださいね」
その言葉に口元を緩めると、宮沢さんは綺麗な姿勢のままふすまに手をかけた。
「それではまた不自由なことがないか伺いに参りますね」
「あ、あの……」
あまり時間を取らせてはいけない。そう分かっていたけれど、宮沢さんの柔らかい雰囲気に背中を押されて、ずっと気になっていたことを口にした。
「この民宿は本当に雪希さんが経営されているんですか……?」
そう問われることに慣れているのか、宮沢さんは語尾を弱めた私の言葉に頷いて優しく応えてくれた。
「実は去年、ここのオーナーだった雪希さんのお父様が急死されたんです。一時はここを手放す話にもなっていたのですが、雪希さんの強い希望で継いでおられるんですよ」
趣のある古い建物だけど、清潔で落ち着く部屋。ここにはお風呂と同じように、外の海を眺めることが出来る小さな丸い窓があった。雪希は、ここでどんな景色をお父さんと見たんだろう。お父さんを失った悲しみを乗り越えて、一人でここを守ろうとする強い想いは一体どこから湧いてきたんだろう。
「お父……さん」
私はお父さんを一人にしてしまった。守ってあげることも、支えてあげることもできずに、一緒に逝こうと縋ってきたお父さんの手を離してしまった。自分だけ残されたって、私には一人ぼっちで生きていく強さなんてなかったのに。
そうだ──私は何を期待してここにいるんだろう。希望の後には必ず絶望が襲ってくる。ここにいてはいけない……私にはもうその先に待っている暗闇にも、孤独にも耐えられる心は残っていないのだから。
宮沢さんが様子を見に来てくれる前にここを出よう。本当は直接お礼を言いたかったけれど、きっと数日経てば私のことなんて忘れてしまう。これでいいんだ──。
洗濯してもらった洋服に着替えた後、メモ用紙を机の上に置いた。着ていた着替えを綺麗に畳んで、泥のついた鞄を抱えてドアノブに手をかけると、外側から開いた扉にバランスを崩した体がぐらりと揺れる。
「美波?どうした、慌てて」
「ゆ、雪希こそ……仕事は……」
「今手が空いたから様子を見にきた」
雪希は私の持った鞄に視線を向けると眉を寄せた。
「仕事が終わるまで待ってろって言ったよな」
彷徨わせた視線を諦めたように地面に下ろすと、髪の毛が頭の上のため息で小さく揺れた。
「出て行こうとしたのか」
「これ以上迷惑をかけたくないから、やっぱり出て行こうと思って……」
「どこへ」
「お父さん……のところ」
「親父さん?どこにいるの?」
「……すぐそこに」
「近くに住んでるのか?それなら……」
「もうすぐ会えるの」
「美波?」
「お父さんのところへ、行かせて」
「お前……」
終わりを望んでいる私に、もう何も持っていない空っぽの私に、雪希の大切な時間を使う必要なんてない。雪希はここでお父さんと共に生きているのだから。
「美波」
「お願い、離して」
私の名前を呼ぶ低くて優しい声に頭の奥までどくどく波打って頭が痛くて胸が苦しくて涙が出る。何かに希望を持つことも、何かに怯えるのももう嫌だ。消えたい。楽になりたい。
両手で肩を掴まれた鈍い痛みに視線を上げると、歪んだ視界の先に真っすぐ私を見つめる雪希がいる。
「一人にして悪かった」
そのままふわりと洗濯された洋服と同じ香り包まれたかと思うと、背中に回った腕に強く抱かれて触れた肩先に涙が滲んだ。
「美波さん!こちらにいらしたのですか」
夕飯の時刻なのだろう。厨房を忙しなく人が出入りをしているのを隅に置かれた椅子から眺めていると、のれんの先から宮沢さんが顔を覗かせた。
「今ご夕食をお持ちしたら部屋にいらっしゃらないので、雪希さんにお伝えに来るところでした」
「すいません……何も言わず部屋を出て」
あの後、目を離したら逃げ出すからと、仕事をする雪希についてくるように言われた。玄関の掃除に、近くの商店街への買い出し、そして厨房での調理。途中で買ってくれた紅茶の缶を手に持ったまま、随分と長くここに座っていた。
「ごめん伝えてなくて。一人が苦手みたいだから、ここで待たせてた」
近くにいた仲居さんに最後のお膳を渡すと、雪希は汗をぬぐいながら振り返った。
「まあ、それでしたら私に申し付けてくださればお話相手くらいはできましたのに」
「宮沢さんは他の仕事もあるでしょ。それにこいつは俺が勝手に連れて来たんだから、余分な仕事を増やすわけにはいかないよ」
宮沢さんは申し訳なさそうに私に視線を向けた後、エプロンを外して椅子に掛ける雪希に視線を戻した。
「ご夕食は一緒に取られますか?」
「いや、家まで送ってくるよ」
「もうお帰りに?本日はご宿泊の予定では」
「そのつもりだったけど、親父さんが待っているみたいだから」
その言葉に体がぴくりと反応する。そうだ、このあと雪希が家まで送ってくれることになっている。どうしよう、帰る家なんてないのに。アパート……はもう引き払った、母の家にも行くわけにはいかない。でもこの様子じゃ外ではおろしてくれないだろうし──。
「美波」
「……はい」
「待たせて悪かったな。部屋の荷物を持ったらすぐ出ようか」
「美波さん、また是非いらしてくださいね」
「……お世話になりました」
宮沢さんの優しい笑顔に、嘘でも頷くことが出来なくて深く頭を下げた。きっともう会えない。
「じゃあ行ってくるよ」
「はい、お気をつけて」
頭を下げた宮沢さんに合わせるようにもう一度深く頭を下げて車に乗り込むと、すぐにエンジンの低い音が車内に響いた。
「案内できる?住所を教えてくれたらナビでも向かえるけど」
どこへ向かえば天国に一番近いのだろう。
「……案内する」
「よし、じゃあナビ頼むな」
ここに来るまでは、海で最期を迎えようって決めていた。『美波』お父さんがつけてくれた名前──その中なら、美しい波の中なら怖くないような気がして。お父さんが迎えに来てくれるような気がして。それなのに何でだろう。今はあの綺麗な海を汚してはいけない気がする。
「あの山の近くなの」
「山?あそこの集落に家があるの?」
「……そう」
「へえ。あの辺りなら星がきれいに見えるだろうな」
「星?」
「俺、星好きなんだ。よく浜辺に座って眺めてる。昨日だって……」
そこまで口にすると、雪希は少しだけ開けた窓から入った風に目を細めた。
「俺には話せないか、何があったか」
「え……?」
「いや、言いたくないならいいんだ。無理に聞こうとは思ってない。ただ、もう二度と命を捨てるような真似はしないって約束してくれ」
一秒でも早く楽になりたかった。真っ暗な道を一人で彷徨いながら、引き寄せられるようにあの海にたどり着いたはず。それなのに、空に一番近いからと選んだ山まで向かう道が、永遠に続けばいいのになんて思ってしまった。
私の心はまだ温もりを求めているのかもしれない。潮風が染みたのか痛くなった目元擦ると鼻につく優しい香りにまた涙が滲んだ。もう泣いたって仕方がないのに。もう全部終わってしまうのに。
「ここでいいのか?せめて親父さんに挨拶だけでも」
「私、何も言わずに家を出てきちゃったから。無断外泊までしてこんな時間まで男の子といたのがばれたら叱られちゃう」
そうか、と納得した雪希は見知らぬ誰かの家の前で車のロックを開けてくれた。
「色々と迷惑をかけてごめんね。ありがとう」
「美波、本当にこの家で親父さんが待ってるんだよな?」
「……うん」
「分かった。元気にやってるか心配だからまた連絡して」
渡された名刺の裏には、民宿のものとは違う番号とIDが書かれている。でもやっぱりうんとは言えなかった。
「お世話になりました」
車のドアを閉めると、助手席の窓が開く。
「また一緒に飯食おうな」
今が冬だったら良かったのに。雪に包まれて、そのまま眠れたら、私は一人じゃないと思えたかもしれない。温もりを感じたまま、お父さんの元へ逝けたかもしれない。
「雪希……」
「じゃあな」
──なんて。今更だね。雪希、さようなら。
海の中に降る雪は moco @moco-moco7
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