海の中に降る雪は

moco

第1話出逢い

 この世に神様がいるのなら──。

 そう願ったことは数知れない。でもいつだって、暗闇は容赦なく私を襲ってきた。逃げ道は用意されていなくて、必死に走った向こう側にあるのは孤独だけだ。


「いるのは分かってる。早く出てこい」


 狭い部屋に響き渡るドアを叩く音。部屋中を見渡しても隠れるところなんてどこにもなければ、誰かの助けを願う希望すらこの場所にはない。だからといってドアを開けたところで私を待っているのは地獄だけだ。


「お父さん……帰ってきてよ」









 私が生まれ育った家は何の変哲もない平凡な家庭だった。一人娘の私に、真面目な父、優しい母。楽しかった記憶も、幸せだった記憶も両手いっぱいにある。父と母に手を引かれ、目に映るものはどれも美しかった。でもそんな記憶は今やどれだけ手を伸ばしても届くことのない、実際にそこに存在していたのかすら疑いたくなるほど遠い場所へと行ってしまった。

 今目の前にあるのは多額の借金と、孤独と、絶望。私の両手に溢れていた幸せはもうどこにもない。

 

 一年ほど前、友人の保証人になっていた父が多額の借金を抱えた。

「家族で力を合わせれば何とかなる」確かに誰かがそんなことを言ったような気がするけれど、現実はそんなに甘くないことを私は痛いくらい思い知ることになる。

 父の借金が露わになった数日後、家族を明るく照らしてくれていた母が突然家から出て行った。そして、私の生活は一変した。毎日のようにかかってくる取り立て屋からの電話。最初こそ借金返済の為に必死に働いていた父が、母が出て行ったことをきっかけに仕事にも行かず毎日アルコールに溺れるようになった。

 それでもそんな父のことを恨むことも嫌いになることもできず、何もかもに絶望した背中に「行ってきます」と声をかけ、仕事が終わると次のバイトへ向かった。大丈夫、借金を返済し終えればきっとやり直せる。まるで念仏のようにそう自分に言い聞かせて。

 そしていつしかそんな私を遊びに行こうと誘ってくれる友達もいなくなって、結婚式の招待状も、グループメッセージも来なくなった。世界は容赦なく私を切り離していく。それでも私は生きていくしかなかった。





「もう娘を売ったらどうだ」

「それだけは勘弁してください……」

「じゃあ死んで金を作るか?」

「か、勘弁してください」

「勘弁出来るわけないだろうが!」





「美波……二人で死のうか」


 取り立て屋が帰った後、父は弱弱しくそう言った。


「……嫌だよ、死にたくない」

「そうか、そうだよな……」


 

 それが父との最後の会話になった。



 違う、私は一緒に死ぬのが嫌だったわけじゃない。どんなに堕ちたって、借金を返し終えればまた笑ったお父さんに会えると思ったんだよ。

死んではいけないって、そう言いたかっただけなんだよ。それなのに、なんで一人で勝手に逝ってしまうの。一人になったら、私は何を支えに生きて行けばいいの……?


 お葬式はできなかった。借金のせいで迷惑をかけられていた親戚は最低限の手続きだけを済ませて、父の遺骨を持って行ってしまった。もう私には何も残っていない。──これ以外は。

 数日後には出て行かなくてはいけないアパートで、小さな封筒を眺めた。父の死をどこで知ったのか、数日前に届いた母からの手紙。再婚した相手と暮らしている家の住所と共に添えられた『必ず会いに来て』の文字。縋る思いで手紙の住所を訪ねたけれど、そこに私の居場所なんてなかった。

 お金持ちそうな若い男の人の横で幸せそうに笑う母は別人で、今ここにいる私も別人だった。不思議と憎しみは湧いてこなくて、むしろこんな地獄を味わうくらいなら、母だけでも幸せになってくれて良かったとさえ思った。


 さよなら。どうか……お元気で。


 これで私は本当の一人ぼっちになったんだ。







 相続放棄、弁護士相談、周りでそんな声が幾つも聞こえたけれどそんなものもうどうでもいい。そんなことをしたところで、父も母も、失った時間も、友達も、何一つ戻ってこない。



『一緒に死のうか』


 

 あの時何を選んでいたら幸せになれたのだろう。今更そんなことを考えても仕方ないのだけれど、真っ暗な海を目の前にしてほんの少しだけあの時を振り返ってみたくなった。果たして、私に幸せになれる選択肢は用意されていたのだろうか。いや……仮に幸せになれる選択をしていても、きっと幸せな時間の後には絶望が待っていたはずだ。どうせ結末が同じだったのなら……父の手を取れば良かった。



 でも、もう孤独に怯える必要はない。幸せを願ったあとに訪れる絶望も二度と来ない。私はここで、永遠に苦しみから解放されるのだから。



 ちゃぷん──。



 真っ暗なこの海も、昼間に見れば綺麗な碧色なのかな。どうせなら、何もかも飲み込んでしまうような深い闇よりも、淡くて優しい色の中へ溶けていきたかった。

 胸まで浸かったあたり。荒れた波が口の中へ入って、咳き込むように息を吸った。死のうとしているのに、なぜ生きようとしているのか不思議だ。まるで、命のカウントダウンをしているみたい。必死に吸った酸素が徐々に薄れて、溺れて、そして解放される。


 あと少し、この地獄を乗り越えればきっと天国はそのすぐ先に──。














「何やってんだよ!」



 全てを飲み込んでしまうような波の音に混ざって、微かに聞こえたその声に気がついた瞬間、お腹を抱えられた衝撃で一度水の中に深く顔が沈む。


「っ……かはっ……」


 誰かが止めに来たのは分かる、けれどそんなこともう関係ない。見開いた瞳の前にあるのは暗闇に浮かぶ無数の泡。私の中に残っていた酸素だ。全部吐き出せば死ねる。


「おい暴れるな!」

「っ、ぅ……っ」



 楽になれる──。



「やめろ!おい!」


 かなりの量の海水を飲み込んだせいか、力が入らなくなった体は、情けなく誰かの腕に抱えられて砂浜へと投げ出された。


「ごほ……っ、はぁ、はぁ、死ぬかと思った……おい大丈夫か?」


 薄くなった酸素を本能のままに吸い込めば、口の中に入り込んだ砂が泥のように固まる。


「何してんだよお前」


 あと少し……あと少しだったのに。幸せの後に絶望があるならば……絶望の後には幸せが待っているんじゃないの……?どうして神様は私を楽にしてくれないの。


「ぅ……ふぅ……ぁ、死な……せてよ」

「死のうとしてるやつ見殺しにできるわけないだろ」

「偽善者……!」

「何とでも言え」

「死にた……かった……」

「そうか、辛いことがあったんだな」

「おねがい……死な、せて……」

「俺が見つけたからもう大丈夫」

「……っ、死なせてよ……っ!」

「一人で苦しかったな」



 真っ暗闇の中で凍えるように冷たい手のひらに大きくて優しい温度が重なると、体の奥底から込み上げてきた何かが涙となって溢れ出した。潮の味が広がる口内が泥を飲み込むと吐き気がして、胸が苦しくて、割れるように頭が痛い。

 それでも声が枯れるまで泣いて、やっと落ち着いた頃には真っ暗な空には日が昇っていた。そのときになって私はようやく隣でずっと手を握っていた人物の顔を見ることができた。





「風呂入って一緒に飯食おう」


 一晩中泣き続けた目は真っ赤に腫れて、顔も体も泥まみれで、きっと今の私は世界で一番惨めな人間だ。


「あ、変に怪しむなよ。俺、すぐそこで民宿やってるんだ。そこなら風呂も飯も準備してやれるから」


 それに比べて朝日に照らされる彼の顔は白く透き通っていて、とても綺麗だった。


「名前聞いていい?俺はユキ。冬に降る雪と希望の希で雪希」

「……すてきな、名前」


 涙と砂と海水のせいで掠れた私の声に、彼は優しく目を細める。


「お前は?」

「ミナミ……。美しい波って書いて、美波」

「へぇ、いい名前。お前にぴったりだな」


 どうして彼がそう思ったのかは分からないけれど、優しい声にまた涙が滲んだ。


「美波、立てるか?」



 幸せの後には絶望が待っている。

 そんなこと、分かっているはずなのに。

 死に場所を求めてさ迷っていた手は、目の前にある温もりに触れてしまった。



「行こう」




 雪希、あなたはまるで海の中に舞い降りた、天使のような人だった。

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