アリスと『アリアの書』

春坂咲月

第一章 1.プロローグ

「できた……!」

 ティアは喜びの声を上げた。

「よかった。誕生日に間に合った……」

 徹夜明けで霞む瞳に映るのは、六角錐のガラスシェードのランプ。

 中身は空だ。火を灯す芯はなく、灯油も入っていない。

「でも、ここに光が灯るのよ」

 誰にともなく解説しながら、シェードに触れる。

 ガラス部分には、細かな模様が施されている。幾何学模様に見えるが、すべて魔術教本『アリアの書』全百巻に記されている魔法陣だ。

 今わの際に、このランプに己のすべてを注ぎ込む。

「ふふっ」

 ティアは、思わず笑みをこぼした。

 と同時に、コホっと、胸元を締め付けるようにして空咳が出る。


 ――まさか。


 嫌な予感に、ティアは喉元に手を当てたが、


 ぼろっ。


 今度は触れた指先が、砂のようにあっけなく崩れた。


 あーあ。とうとう来たか、このときが。

 でも、大丈夫。ランプは間に合ったし。やれることは全部やった。

 出来れば、あの子にランプを渡してから逝きたかったけれど。

 口元に淡い笑みを浮かべたまま、ティアは両手で包み込むようにしてガラスシェードに触れた。

 ふんわりとランプの内側が光る。

 と同時に、ティアの長い髪が柔らかく煌き、端からさらさらと砂のように崩れ始めた。

 髪の次はお腹の辺り。

 お腹の次は、太腿の辺り。

 煌きながら、着衣と一緒に、どんどん欠けていく。空気に溶けていく。塵の欠片さえ伸さずに。

 痛みはない。

 あの子のことを思って、少し心が痛むだけ。

 ほとんど腕から上と半身を残すのみになったとき、唐突に私室の扉がノックされた。


「――ちょっといいかな、ティア。今日の夜会で――」

 いいつつ入ってきた少年は、足を止め、驚愕に目を見開いた。

「ティアっ!」


 あーあ、見られちゃった。

 こんな姿、見せるつもりはなかったのに。


「ティアっ」


 銀色の髪を乱し、翠の瞳を揺らしながら、少年が駆け寄ってくる。崩れゆくアリスティアを止めようと、手を伸ばす。

 おろおろする少年とは対照的に、ティアは満足げに目を細めた。


 大きくなったね。フィル。

 最近急に背が伸びて、いまではほとんど自分と変わらない。

 花のかんばせと呼ばれる愛らしい顔つきも、この頃では冴え冴えとした美しさが際つ立つようになってきて。

 ここまで成長したら、もう安心。

 できれば、大人の男性になったあなたを見たかったけれど。


「……ごめんね、フィル。私の魔力に体がとうとう耐えられなくなっちゃったみたい」

 両手でガラスシェードをつかんだまま、ティアは謝った。

「でも大丈夫。このランプを遺していくから。誕生日プレゼントよ。あなたが触れると、明かりが灯るように作ったから」

「ティア……! 嫌だ、ティア……!」

「ごめんね。でも初めからわかっていたことなの。あなたに会ったときには、もう、私は二十五までしか生きられないと知っていた」

「そんな……! 貴女は克服したから僕の婚約者になったんじゃ」

「違うのよ。私は余命数年だったから、あなたの教育係に選ばれたの」

 もう、片腕になってしまった。それでもティアはシェードに手を添え続け、自分のすべてを注ぎ続ける。

「ティア……! 逝かないで、ティア! 僕をおいていかないで」

 残った片目に映るフィルの顔は、絶望に歪んでいた。


 あーあ、泣かせるつもりはなかったのに。

 でも、伝えなければ。


「大きくなって、この国を護ってね、フィル。でも、絶対に、兵器になっては駄目よ」

「ティア……! 賢者ティアリス!」

 ごめん。賢者の称号も、、あなたの傍に侍る方便なんだ……。


 十九歳のときに、ティアは当時六歳だった王弟殿下の婚約者として、王城に上がった。

 婚約者だったが、事実上は王弟殿下の教育係兼世話係。

 寝食を共にして、一緒に『アリアの書』を読んで。

 そのままずっと、その可愛らしい笑顔を眺めていられたらよかったのにね。

 とうとう、ランプに触れていた腕が失われる。

 だが、ランプの光は消えなかった。


「このランプ、ベッドサイドにでもおいてね」

 そして、時々でいいから、私のことを思いだして。

「十二歳のお誕生日おめでとう、フィル」


 微笑みながら、ティアのすべては空気に溶けて消えた。



・・・・・・・・・・・・

プロローグは暗いですが、本編は明るいですので!

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