第2話 Side-B

「改めて、ハナ、就職おめでとう」

「ありがとう」

 やや格式の高そうなレストランの一角で、2人の女性がグラスを合わせる。

「でも、ハナから電話をもらったときはびっくりしちゃった。なんたって天下のITCに採用だもんね」

 一方の女性が、はきはきとした調子で言う。桃色のワンピ―スに淡い黄色のカーディガンを合わせ、華やかな印象だ。ウェーブのかかった茶髪が、彼女がしゃべるたびに跳ねる。

 ハナと呼ばれた方の女性は、対照的に大人しい雰囲気だ。ベージュのスカートに紺のシャツを合わせ、真っ黒なショートヘアを片側だけ耳にかけている。

「きっとたまたまだよ。今だって、なんで私が採用されたか分からないもん。記念受験のつもりだったんだけどなぁ」

「うわ、勝者の余裕だ」

「なんでよ」

 ひとしきり笑い合ったところで、メイン料理が運ばれてくる。長い名前をした魚のムニエルだそうだ。

「ナツコも希望通りのところに就職でしょ? 本当にお疲れ様だね」

「そう、テレビ局。マスコミ関係をずっと希望してたから、やっと夢が叶った感じ。面接でしゃべりすぎちゃって評価は最悪だろうなと思ってたけど、なんとか食い込めたみたい」

 ナツコは大きくうなずきながら、ムニエルの塊を口に放り込む。

「でも、ここからが正念場よね。報道って、精神的にタフじゃないとやっていけないって言うし。ハナも、いくら公務員と言えど、ITCは激務で有名でしょう?」

「そうなの。実際どんな仕事をしているかもよく分からないし」

 情報貿易センター(Information Trade Center)、通称ITCは、その名の通り情報の売買を行う公的機関だ。

「う~、緊張してきた」

 眉間にしわを寄せるハナに、ナツコが「だよねぇ」とため息をつく。

「お互い明日から初出社だもんね。おいしいものを食べて、ちゃんと寝て、シャキッと目覚めて…と思ってたけど、こりゃ2人とも寝不足かもねぇ」

「今晩1人で過ごすとか無理すぎ。絶対寝られないよ」

「私も不安。さすがに、お酒の力を借りるのは怖いし」

 2人の不安トークは、メインディッシュを平らげ、デザートと食後のコーヒーが空になるまで続いた。


 翌日の昼頃、平山ハナはITCの施設内を案内されていた。

 結局ほとんど眠ることができず、新規採用者向けの要項やら、初出勤の案内やらを繰り返し見直して夜を明かした。朝になっても不安は消えず、指定された時間の三十分前には到着してしまい、周辺を歩いて時間をつぶすはめになった。

 ハナの前を、案内役の職員が歩いていく。篠原という若い男だった。元ラガーマンとのことで、情報貿易の名に似合わぬ肩幅と胸板をもっている。午前中に一通りの業務説明を受けたが、愛想がいいうえに話に無駄がなく、相当なやり手であることがうかがえた。

 ハナの後ろにも、新規採用者が2人ほどついてきている。1人は眼鏡の大人しそうな女性だ。博士号を有しているそうで、年齢はハナよりだいぶ上だ。プログラミング関係で何かの賞を取ったことがあると話していた。もう1人も、パソコン関係に強そうな男性だ。業務説明の折に、ソフトやアプリの専門用語を多用して質問していた。それにもぎょっとしたが、質問すべてにさらりと答えてのける篠原にもぎょっとした。

 廊下の向こうから、何人もの職員がよどみない足取りで現れ、すれ違っていく。全員がスーツスタイルで、たいていは小脇にタブレットや書類をはさんでいた。自分がそんなふうにして働いていることなど、ハナにはまだ想像すらできなかった。

廊下の壁面はすべてガラス張りになっている。今ハナが歩いているのは最上階の十階であり、近隣のビルや住宅が一望できた。外から見たITCは、ガラス張りで背が高く、ともすれば大手の銀行に見えなくもない外観だったことを思い出す。

「この建物の案内は以上です。何か質問は?」

 ハナの後ろでさっと手が上がる。

「はい、明智くん」

「こちらの方で、情報の売買がなされているとお伺いしましたが、見たところ、どの部署にあるデバイスもすべてアウトプットあるいは会計業務にかかわるものだけでした。情報のインプットあるいはネゴシエーションはどちらで行うのでしょうか?」

 なんとも彼らしい、横文字だらけの発言だ。篠原は笑いながら答えた。

「要は、情報の受信や、売買にかかわる交渉をどこでやっているかという質問かと思います。それはもう皆さん、ご存じかと思いますが?」

 確かに、それはハナでさえ推測できている。明智も本気で聞いているわけではなかろう。遠回しなやり方で、早くそこへ連れて行けと催促しているのだ。

 篠原は顎に手を当てた。

「本当は昼食をとってからじっくりお見せしようと思っていたのですが、スケジュールも幾分巻きで進んでいます。では、昼食前に一度行ってみますか?」

 篠原の目が光った気がした。

「――『塔』へ」


 ビルを出て、篠原は足早に街のはずれへと歩を進める。ハナたちも遅れないように小走りでついていく。

「お分かりかと思いますが、『塔』は全部で四つ、この街の四隅に建っています。今から向かうのは西の『塔』。西方とは円滑な関係を築けており、ややこしい交渉や通信技術も必要ありません。仮採用の一年間は、皆さんの配属もおそらくそちらになると思います」

「うれしいです。『塔』に入ることを夢に見てました」

 眼鏡の女性が、弾んだ声を上げる。篠原は目を細めた。

「夢野さんは、確か通信の圧縮技術がご専門でしたね。今年一年間は業務の流れを把握することが最優先ですが、来年以降になれば、それを生かして通信技術の領域にも寄与していただけると思います」

「『塔』の通信プログラムを覗けるなんて――」

夢野は目を輝かせている。ハナにはよく分からない分野の話だ。そもそも、ハナの専門は社会学であり、行く先に困って公務員試験を片っ端から受けたようなものなのだ。

 篠原が突然振り向いた。いつの間にか四人とも建物の陰に入っていたようだ。暗すぎて、誰の顔もよく見えない。

「この『塔』が、我々情報貿易に携わる人間の中枢となります。これそのものが巨大な受信アンテナであり、情報を売買する際の交渉もここの通信機器を介して行われるわけです」

 篠原の向こうには、真っ黒な『塔』がそびえたっている。中世を思わせるような堅剛な造りで、所々から鋭い枝を思わせる突起が突き出している。『塔』の先端は雲に呑まれ、下からでは視認できない。

 最後に、篠原は笑みを含んだ声で言った。

「この職務に誇りをもってください。情報貿易は最重要とも言える任務です――世界が崩壊した現在となってはね」

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