対話

和泉茉樹

対話

      ◆


 部屋に古い電話機が一台、置かれている。

 無機的な温度のじっとりした手触りの受話器を取り、耳元へ近づけるとかすかにノイズが聞こえてきた。

「もしもし?」

 返事はない。

 いや、遠くから声がした。

 それも、二重に。

「「もしもし?」」

 それは、私の声と、私の声だった。


      ◆


 助手が咳払いをしてから、声にする。

「被験者の精神バランスは安定しています。現象発現まで、推測で十秒です」

 モニターに映る部屋では、少女が一人きりで立ち尽くしている。片手に古い電話機の受話器を握りしめ、耳に押し当てている姿勢のまま身じろぎしない。

「四、三、二……」

 助手の声を聞きながら、私はモニターの数値を見た。

 どこにも異常はない。精神状態を表す紫色のバーが徐々に変化していく。右側が赤く、左側が青に。それはまるで紫の帯が赤と青に引き裂かれていくようだった。

「一、ゼロ。カウントスタート」

 壁に目をやると、時計が動き出す。カウントダウンが始まった。

「現象、進行中です。数値の変化は許容値です。さらに進行」

 助手の言葉を聞きながら、目を凝らす画面の中では精神バランスを表示する立体グラフが激しく揺れ、震える。

 波打つ球体だったグラフが唐突に変形を始める。ひょうたんのようになったかと思うと、そのまま二つに分かれた。色で表すバーの表示をチェック。完全に赤と青に分かれ、中心部はすでに色を失っている。

「精神状態の完全偏移を確認しました」

 普段通りの助手の言葉に、「モニターを継続。監視を怠らないようにね」と指示しておく。

 もう一度、実験室の様子を映す映像を確認。

 少女が先ほどと全く姿勢を変えず、真っ直ぐに立っている。人間ではない、そういうマネキンが立っているような錯覚がある。呼吸をしていないような、無機的な印象を受けた。

 無意識にカウントダウンをチェック。少しも進んでいない。

 別のモニターも確認。

 脈拍は正常、呼吸も正常、体温にも異常はない。

 実験が破綻しないように、私はもう一度、全てのセンサーの数値を確認した。

 どこにも異常はなかった。

 ただひたすら、少女の姿だけが異常だった。

 彼女は今、何を思い、何を感じているのだろう。

 何が見えるのかは、実験室では確認できない。

 改めて、時計を見る。私の不安がそうさせるようだ。

 実験終了の予定時間までのカウントダウンが進んでいるが、あまりにも遅い。

 一秒が、こんなに長いとは。

 数字が一つ変わるのが、粘りつくように遅く感じた。 


      ◆


 私は一人で、木立の中に立っていた。

 空気を吸い込むと、まるで体が透き通るような気がした。新鮮な空気だった。

 周囲にかすかな明かりが差し込む様は、自然、朝を連想させる。腕を見たけれど、そこに時計はない。時間ははっきりしないのに、明るさが朝を主張しているのを疑う気にはなれなかった。

 見上げると、どの木も高い位置で緑の葉を茂らせている。空を隠している葉を注視すると、広葉樹、針葉樹が入り混じっていた。どういう生態系か、すぐには判然としない。

 空気はまるでついさっきまで雨が降っていたように湿り、足元の腐葉土は今にも私の足を飲み込みそうな柔からさだ。

 しかしいったい、ここはどこだろう。

 それに、私は誰だ?

 一歩を引くようにした時、かかとに何かが触れたので、足元にそれが転がっているのがわかった。

 見れば、不自然に落ちているのは古い時代の携帯電話だった。スマートフォン。ずっとそこに転がっていたわけではないらしい。汚れているようには見えなかった。

 手を伸ばそうといた時、不意に画面が点灯し、端末が震え始めたので手を引っ込めそうになった。でもそれは一瞬のこと、私は端末を手に取り、画面を確認した。

 電話がかかってきている。しかし相手の番号はゼロが十一桁。そんな番号が存在するのだろうか。

 もっと困惑してもいい。怯えてもいい。

 でも私はその番号からの着信を受けていた。指で緑色のマークをスライドさせると、相手とつながったようだ。

 端末を耳に当てる。その時になって、大雑把に切っただけの肩までの髪が邪魔だと理解された。髪を切ったのは自分、整えたのも自分。邪魔に思うことに苛立つのも、本来の私だと理解が進んだ。

 耳元ではかすかなノイズが聞こえて来る。

 私は黙っていた。

 相手は私に話させたいかもしれない。

 閃きというほどではない、落ち着いた思考がそんな想像をさせた。

 私は相手が誰なのか、問うこともせず、ただじっといていた。

 周囲の木立のどこかで、獣が吠えた。狐、いや、もっと犬に近い鳴き声。狼だろうか。遠吠えがそれに応え、さらに遠吠えがもう一度。

 それきり周囲は静かになった。

 静かに風が吹くと、まるで空全体が震えるように、頭上で木々の枝葉が擦れ合った音が落ちてくる。

「もしもし?」

 最初、どこから声がするのか、気付けなかった。

 私は耳に携帯端末を当てているのだ。

 声はそこからだった。

「もしもし?」

 もう一度の声に、しかし私は答えなかった。

 ただ立ち尽くし、耳を澄ませている。

「聞こえているでしょう? ねえ、聞こえているんでしょう?」


      ◆


 私は無人の建物を歩きながら、スマートフォンを耳に当てていた。

「あなた、どこにいるの?」

 建物の中は静まり返っている。

 室温が保たれてはいるようだけど、空調が稼動する音はしない。全くの無音。私の足音と、衣擦れの音が全てだ。

 周囲の様子は、まるで何も飾られていない美術館だった。大きな部屋がいくつもあり、廊下はしかしほとんどない。立方体のような部屋の一部同士が接点となり、そこから部屋を行き来できる。

 天井はびっくりするほど高い。内装は白一色。照明は控えめ。

 本当に、絵画でもあればいいのにと思うほどの殺風景だった。

 耳に当てているスマートフォンは、気づいた時には私の手の中にあった。私は部屋の一つの、その真ん中に一人で立ち尽くしていたのだ。

 電話をかけたのは、不安からだった。

 自分がどうしてここにいるか、わからない。誰もいないのも直感的に理解できた。

 そう、私はこの世界に、私しかいないことを直感したのだ。

 スマートフォンは私のものではないけれど、ロックされていなかった。アドレス帳を見ると、一つだけ登録されている。もし私が友人や両親の携帯電話の番号をそらんじていれば、もっと別の可能性もあっただろうけど、そんなことは不可能だった。

 十一桁の電話番号をいくつも覚えるのは、現実的ではない。

 そんな理由から、私は唯一、助けを求められる番号に電話をかけた。

 相手は少しすると出たけれど、話そうとしない。

「ねえ、あなたは、誰? どうして黙っているの?」

 声をかけても、相手はやはり応じない。相手がいる場所もわからなかった。まるで電話が通じていないような音が耳元でする。例えば、人のざわめきとか、乗用車や電車の走行音とか、そういう全てが聞こえないのだ。

 私がどこにいるか、自分でもわからないこの状況で、奇妙な相手にしか連絡が取れないのは重圧と言っていい心理を私に感じさせた。

「助けて欲しいのよ」

 相手は喋ろうとしない。本当に通じているのだろうか。

「ここを出たいのよ」

 私はただ一方的に喋った。

「私、明日には友達との約束があるの。学校の課題を進める必要もあるし、両親も心配するわ。たぶん、恋人も。とにかく、とにかくここを出たいの。ここがどこなのか、私にも説明できないのだけど……」

 また部屋を一つ通り抜けた。出口へ近づいている感覚はない。同じところをぐるぐる回っているような気さえした。

 脳裏に友人の姿が浮かぶ。

 学校でしか接点のない友人。

 学校における命綱のような友人。

 恋人の姿も浮かぶ。

 私が頼りにしている人。

 私を大事にしてくれる人。

 次に両親の姿が浮かんだ。

 私を守り育ててくれる人たち。

 私を絶対に裏切らない人たち。

 何かがおかしいと私は気づき始めている。

 全てがおかしい。

 この部屋にいること以上に、何かが私の感覚を刺激し始めている。

 友人の何がそんなに気になる? 私がいなくても、友人には何の影響もないだろう。学校で話す相手が一人減ったところで、また別の生徒と仲良くなればいい。私は代わりがいない存在ではない。

 恋人も、私のことを愛していると口にしても、実際には本心はわからない。何かの目的のために、言葉はいくらでも選ぶことができる。それにやっぱり、私が気に食わないと思えば、別の女子へ関心を移せばいいし、それを止めることは私にはできない。できたとしても、さぞ醜いことだろう。

 両親はどうだろう。私は、両親に逆らわないようにしている。守ってもらえるように、育ててもらえるように、見捨てられないように。裏切られないように。

 絶対の前提が激しく揺らいでいるのは、どうしてだろう。

 このどこまでも続く部屋の連続が、時間の感覚をおかしくさせる。私はいったい、どれくらいの時間、足を止めないでいるのだろう。

「友達に返さなくちゃいけない本もあるの。私が返さないでいたら、きっと怒る。前も同じようなことがあったの。私じゃなくて、別の友達があの子に漫画を返さなくて、それで、すごく怒っていた」

 相手は答えようとしない。でも私の口は止まらなかった。

「私はそうなりたくない。友達を怒らせたくない。恋人だって、放っておけない。私が勝手をすれば腹を立てるわ。私は彼と険悪になりたくない。それに親も。そう、両親も怒らせたくない」

 返事がない。

 返事がないことは、もう構わなかった。

 言葉がどんどん口から出る。

「両親も、私が勝手なことをすれば怒るに決まっている。叱られるし、もしかしらた門限が厳しくなるかも。食事の席の空気が重くなるのも嫌なの。嫌味を言われるのも嫌。早く帰らなくちゃ、早く……」

 部屋の一つに入る。また同じような部屋だ。

 不意に照明が暗くなって、足が本能的に止まった。

 壁に光が浮かび上がる。明滅したかと思うと、そこに映像が映し出されたので、自然、私はそれを凝視した。不意打ちだったけれども、私はこれまでの単調さが破られることを、ずっと待ってもいたのだと気づけた。

 壁に映されたのは、教室の光景だった。音はしない。

 私が通っている高校の、私が在籍する教室。

 友人の姿が真ん中にある。

 見えてきた様子に、私は思わず息を飲んでしまった。

 友人は、他のクラスメイトと何かを話して笑っている。どの顔も私はよく知っている。なのに、今、目の当たりにしている彼女たちの顔は、見たことがない顔だった。楽しそうで、大げさな身振りではしゃいでいる姿を、私は知らない。

 疑問。そう、それはある種、単純な疑問だった。

 友人は、今、楽しんでいるのだろうか。楽しんでいるとすれば、私といるときの彼女は、どんな思いでいたのだろうか。私に合わせていたのだろうか。感情を抑えて、身振りを遠慮して、本当の姿を隠していたのか。

 私は彼女に、私の全てを見せたはずだった。

 でも彼女は、そうではなかった?

「もしもし? ねぇ、もしもし?」

 私は目の前の光景から目を離せないまま、声を漏らしていた。力なく、頼りない声だった。

「もしもし。答えて。答えてよ」

 目の前で友人が笑っている。私には見せない顔で。

 映像が不意に切り替わる。

 通学路を、恋人が歩いている。

 その隣にいるのは、私ではない。見知らぬ女子生徒だった。二人が笑顔を向けあう。そして全く自然に、手と手をつないでいる。

 彼にとって、私は唯一無二ではない。魅力を比較して、最も合うものを探すようなものが、恋愛なのだ。見限ってもいい、突き放してもいい。でもなんで、私が? 私はその程度だったの?

 目を逸らしたいのに、できない。そしてまた、映像が変わる。

 私の住んでいる家の、リビングだった。テーブルで両親が向かい合っている。

 時間はいつなのか、お菓子をつまみながら二人でお茶を飲んでいる。二人とも穏やかな表情で、控えめだった。私の不在を気にしているそぶりはなく、二人だけの時間に満喫しているようだった。

 私がいなくても、両親の日々は変わらないのだろうか。

 もし私がどこかに失踪したとして、きっと悲しむだろう。悲しむだろうけど、いつかは気持ちに整理がついて、写真を前にして両手を合わせて、他は日常が戻るのだろうか。

 私という存在は両親にとって何だろう。

 子であるとは、どういう意味を持つのだろう。

 私は一人の人間にすぎない。両親から生まれたから、両親とは繋がりがっても、それはほとんど意識の結びつきにすぎない。体が物理的に繋がっているわけでも、鎖で結ばれているわけでもない。

 考えれば考えるほど、私という存在はただ彷徨うだけのものに過ぎないと、何かが主張してくる。

 思考に思考を重ね、突き詰めていけばいくほど、答えには暗い影が落ち、その漆黒は濃くなっていく。

 映像の中で、母が口元を隠して笑う。父もはにかむように笑った。

 映像が変わる。友人がはしゃいでいる。また映像が変わる。彼氏と女の子が抱き合う。

 どこにも私の姿はない。痕跡もない。

 いない存在、意識されない存在。

 私はもう消えてしまったのだろうか。

 この奇妙な部屋から部屋へと彷徨う間に、私という人間は、薄れ、霞み、もう残っていないのか。

「ねぇ、答えて」

 スマートフォンを耳に押し当て、背後を振り返る。映像から目を逸らすためだけに。

 しかし今度は、目の前に壁に映像が映る。

 右へ向けばそちらの壁に、逆へ向けばまたそちらの壁に、映像が映る。

 目を瞑った。

 音はしないはずなのに、大きな音が私を包み込んでいるような気がした。

 声、また声。無数の声が私を包んでいる。

 私の不在を意識させる、私がいない世界に満ちる音。

 私を責め立てているようだった。

 どこかへ消えろと。

「答えて! お願い!」

 叫んだ途端、音が消えた。

「それで?」

 耳元で声がする。

 それで?

 私は目をぎゅっと閉じたまま、耳に集中した。

 風が吹いているような音がする。

 それを背景に、声がした。

「それで?」


       ◆


 木立の中を歩き出しながら、私は携帯端末の向こうに声をかけた。

「それで、友達や親がどうしたって?」

 強い風が吹くと、少し長い前髪が乱れる。撫でつけるように搔き上げておく。

 携帯端末の向こうの誰かは、言葉に詰まったようだった。

「聞いているんだから、答えなよ。友達がどうした? 恋人がどうした? 親がどうした?」

 どうしたって、と泣きそうな声が聞こえてきた。

「友達にも彼氏にも、親にも、私、失望されたくない」

 もう泣いているような震えた声だったけど、私には好都合なことに相手の姿は見えない。遠慮する気なんてさらさらないが、相手が見えないなら、やりやすい。

「失望だって? そいつは無理だろう」

 私が言ってやると、今度は向こうが黙ってしまった。すすり泣く声でも聞こえれば、と思ったけれど、無音だった。それはそれで腹立たしい。

 私は叩きつけるような口調で説明してやる。

「友達だろうが、彼氏だろうが、親だろうが、あんたには失望するよ。失望するな、というのも無理だろう。それはあんたも同じはずだよ。私に何かを期待しているあんたとね。私があんたを失望させるように、あんたも誰かを失望させるさ」

 でも、でも、とささやかな声がした。

「でも、私は……」

「いいかい、私に言えることは限られている。失望されるのが怖いなんて、臆病なことを言うのはやめろ。別にいいだろう、そんなこと。放っておけよ。どうせ誰だって、失望されるさ」

 鼻をすする音が聞こえた。

 気にくわない。本気でムカついてくるじゃないか。

「私があんたに言えることは大してないな。もっとぶつかっていけよ。別に揉めたっていいさ。頭に来てもいい。口論になっても、喧嘩になってもいい。そういうもんだ」

 グズグズという音が聞こえてくるのに、いよいよ携帯端末を投げ出したかった。

「泣くな。泣くくらいなら、怒れよ。本当のあんたを見ようとしない奴らにな」

 相手はもう黙り込んだ。音は聞こえない。

「……そうかもね」

 やっとそんな呟きが聞こえた。

 私は進めていた足を止めた。

 目の前に光が差している空間がある。そこでは光が幾重にも重なり合い、眩しいほどになっていた。

 進み出ると、そこに一本の大樹があるのがわかった。

 大きく枝を広げ、満開の花を咲かせている。

 赤みがかった白の無数の花が、光をキラキラと複雑に反射し、増幅させている。

 桜。

 ここまで見事な光景は見たことがない。

 ザッと風が吹くと一斉に花びらが散る。

 私を花びらの渦が取り巻く。

 耳に当てている携帯端末に声をかける。

「ぶつかっていけ。本当のあんたで」

 音は聞こえない。

 周囲が真っ白に染まり、何も見えなくなる。


       ◆


 スマートフォンの通話は切れてしまった。

 私は瞼を上げていて、壁が目の前にあった。

 何も映っていない。ただの白い壁が、薄暗い光量の中にぼんやりと存在しているだけ。

 スマートフォンの画面を見ると、すでに暗くなっている。触れてみても反応はない。ボタンを押しても変化はない。電源が切れたか、壊れてしまったようだ。

 ため息を吐いて、スマートフォンをポケットに押し込む。

 足が自然と、次の部屋に向いていた。

 名前も知らない、顔も知らないスマートフォンの向こうの誰かは、私を励ましてくれたのだろうか。まるで蹴り飛ばすような、強い言葉だったけれど。

 ただこうしてまた、先へ進めているのは事実だ。

 友達がなんだ、恋人がなんだ、親がなんだ、と思ったことは今までなかった。

 そこが私の社会であり、社会との接点だった。

 そんな、全てと言ってもいいものを気にするななんて、言ってくる人はいなかった。

 声は女性だった。いったい、どんな女性だったのだろう。

 次の部屋へ入ったところで、また足が止まった。

 一本の木が部屋の中央に立っている。

 枯れている木だ。葉は一枚もない。根は張っているが、細い枝がただ空間いっぱいに広がっている。

 進み出て、木を見上げてみる。

 小さな粒が枝のそこここにある。

 それに気づいた時、一つがゆっくりとほころぶと、白い花弁が花開いた。

 もう一つ、また一つ。

 あとはあっという間だった。

 ただの枝しかなかった場所に、無数の桜の花が開き、白と桃色が広がっていく。

 満開になった時、部屋が眩しいほどに明るくなったような錯覚があった。

 何もできないまま、私はその桜の木を見上げていた。

 何もかもがどうでもいいような気分になった。

 何かに縛られていることも、私自身が私を縛ることも、必要ではない。

 押し通ることだって、できるはずだ。

 私は私をもっと表現していいのかもしれない。

 あのスマートフォンの向こうで、強い言葉を発した誰かのように。

 じわじわとあの女の子の言葉が、私自身の言葉になっていく感覚があった。

 桜の木が震える。

 無数の花弁が舞い始めた。

 花吹雪はまるで嵐のよう。

 美しい。

 私は立ち尽くして、花弁の雨を浴びた。

 視界が白で埋め尽くされて、霞み、私は目を閉じていた。


       ◆


 制御室から私は部屋の様子の観察を続けていた。

 少女が一人、古い電話機を手に立っている様子は変わらない。そして彼女は短い時間とはいえ、まったく身じろぎもせず、その姿勢のままでいた。

 しかし一分ほどの時間をただ立ち続けるなど、普通ではない。

 壁の時計を確認。実験終了まであと二十秒。

 備え付けの大型端末の画面では、精神分離が終わろうとしている表示が出ていた。片方の端が赤、もう一方の端が青のバーは、徐々にそれぞれの色が中央へ戻り始めている。中央は無色から紫が浮かび上がっていた。

 立体グラフの二つの球体はすでに接触し、溶け合おうとしている。元の一つに戻ろうとしているのだ。

 助手が「再統合まで、五秒です」と言ってカウントダウンを始める。

 私は壁の時計を見る。予定通りに進んだようだ。

 ゼロの声と同時に、時計のカウントダウンがゼロに。

 瞬間、モニターの中でびくりと少女の肩が震え、怯えたように彼女は受話器を見た。部屋からの音をマイクが拾うことができるが、少女は無言だった。

「精神バランスはどうだい?」

 各種のグラフをチェックしながら私が助手に問いかけると、「プラスマイナスゼロ、規定値中央のままです」と返事があった。

 色のついたバーはすでに全体が紫に変化しつつある。二つの球体のグラフは完全に一つに重なった。

「モニターを続けてくれ。規定値中央が一番、危ないからね」

 律儀な返事があり、助手はセンサーからの数値に目を凝らし始めた。

 私は別の端末で、実験の経過のデータを素早く確認した。

 人間の精神を二つに分離し、自身と自身で対話させることによって、精神的な不安定を解消する治療法はまだ実験段階だった。やっと人間を対象に検証することが可能な段階に到達した技術である。

 人間の精神世界を、野性と理性に分離すること。それがこの治療法の最大の要素だった。

 野性というと暴力が連想され、理性というと論理的と連想されるが、それは絶対ではない。

 理性が行き着くと破滅から逃れられなくなることがある。論理の迷路とか、論理の落とし穴などと言われる現象で、人間の理性は絶望に囚われると、逆に絶望に囚われる理由を探し始め、結果、絶望が前提とされる理屈で自縄自縛に陥る。

 逆に野性は、理屈に縛られず、自由に、大胆に答えを探すことがある。それは確かに、ある部分では暴力的かもしれないし、ある部分では強引ではあるけれど、理性によってがんじがらめになり動けなくなった精神状態を打破する力になる。

 この治療法は、自分の理性を自分の野性で検証するようなものだ。

 野性によって理性を矯正する。

 少女は三人目の被験者だが、今回も問題はなさそうだ。

 安堵とともに私はデータの確認を終え、視線を実験室を映すモニターに向ける。モニターの中の室内では、少女はもう受話器を元に戻し、しかしまたまっすぐに立っている。壁を見ているようだ。

 何故だろう。実験の影響だろうか。しかし数値に変化はない。

 助手が精神バランスが完全に安定したことを報告してきたので、実験の終りを告げる。データをまとめるように言って、私は制御室を出て実験室へ向かった。

 実験室のドアを開けると、少女はまだまっすぐに立っていて、壁の方を見ている。当然、壁には何もない。この実験室には精神を分離する起点となる古い電話機しかないのだ。センサーは全て壁に埋め込まれていて、直接には見えない。

 少女は部屋に入ってきた私に気づいていないのか、壁に向けた顔を動かさない。全く無反応だった。

「実験は」私はその背中に声をかける。「終わりました。ご協力、ありがとうございます」

 返事はない。ここに至っても少女は動こうとしない。

 不審に思いながら、「これから面接をしていただいて、あとは後日、もう一度、検査します」と声を続けたが、返事がないので、不安がこみ上げてきた。

 実験の失敗は想像したくない。

 さすがに私は怖くなり、少女の肩に手を置いた。その肩が大きく震えたので、私は反射的に手を引っ込めていた。

 少女が緩慢に振り返る。

 不思議そうな表情で私を見て、もう一度、壁の方を見た。

「どうかしましたか」

 できるだけ平静を装って問いかけると、少女が壁をまっすぐに指差した。

 何もない壁を。

 彼女が言葉にする。

「そこに、桜が見える気がするんです」

 私は壁を見た。

 そこに桜など、あるわけもない。

 私には何も、見えなかった。



(了)

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対話 和泉茉樹 @idumimaki

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