第14話 鳥【バイト先の誘惑】

 溶ける、時間が。


 朱鷺川ときがわ美羽みうは布団の中、スマホを片手に悩んでいた。

 メッセージ入力欄には短い文章が撃ち込まれている。

 悩みとはこの文字列を送信するべきか、それとも胸の内に秘めておくべきかについてだ。


 ――ビデオ通話してもいい?


 そんな内容をしたためたまま、すでにバカにならない時間が経過している。

 唸ったり、姿勢を動かしたりしながら永遠に葛藤を続けている。


 別に、どこに行くかを決めるだけならチャットで事足りる。

 むしろログに残る分、通話より適している可能性もある。

 ましてビデオ通話にする理由はと聞かれると……


(声が聴きたいよ、顔が見たいよ)


 朱鷺川ときがわ美羽みうはさみしがり屋だ。

 人のぬくもりに飢えている。

 人を突き放してしまう言動を、無意識に発してしまう性格だからこそその傾向は人一倍強い。


 難儀な生き方をしている。

 自分でもわかっている。

 どうすべきかも。


 送信するべきなのだ。


 勇気を振り絞れば、真々田まさなだゆうは答えてくれる。

 今日だってそうだった。

 だから、連絡を――


「あ」


 仰向けになってスマホを掲げていると、不意に手の内からすっぽ抜けかけた。

 取りこぼしきる前に、慌てて掴みなおす。


 ……掴みどころが最悪だった。


 握った手の親指の先。

 スマホの右端。

 そこに、ちょうど送信ボタンが配置されている。


(ちょ、待って待って待って⁉ 嘘でしょ⁉ まだ覚悟なんて決まってないのに……既読が付く前にメッセージを取り消せば――)


 時間にして寸秒。

 思考がまとまる前に、Linearリニアに既読がついてしまう。


(見られた見られた見られた。もう取り消せない取り消せないどうしようどうすれば)


 重い女だと思われたらどうしよう。

 論理的にビデオ通話の必要あるか聞かれたらどうしよう。

 もっとバッサリ断られたらどうしよう。


(何、なんなのこの間――! 断るならさっさと断りなさいよ!)


 困らせたのだ、自分は彼を。

 何度何回論証してもこの結論にたどり着く。


 だったら自分から引かなければいけないだろう。

 これ以上、彼を困らせる前に。


 そう、青い感情に支配されるままに指先を電子の板上で滑らせて――


・ちょっと待ってください!


 ぽんと送られてきた返信に、思考と指先がフリーズする。

 待ってください。

 それはつまり、時間をおけばOKということで――


(いいの⁉ ゆうのプライベートを覗いてもいいの⁉)


 時計を見る。時刻は既に22時を回っていた。

 翌日は偽装カレシとして外出すると言っていたから、今は自宅にいてもおかしくない。


 朱鷺川ときがわ美羽みうは元引き籠りだ。

 男子の部屋など創作の世界でしか見たことが無い。

 まだ見ぬ景色を前に、息をのむ。


 ポップなメロディが鳴り響いた。

 通話の誘いだった。

 緊張でぷるぷる震える手で、どうにかスマホを操作する。


「と、朱鷺川ときがわです。聞こえる?」

『どうも真々田まさなだです。聞こえてますよー』


 どもってしまった。

 羞恥で顔が火照った。


 なんて、自分のことに意識が向いていたのは短い間のこと。


(濡髪エッッッッ‼)


 思わず鼻から口を手で覆った。

 小さな画面に映し出された男が、髪を乾かす前だったからだ。

 普段とは違う色気がムンムンしている。


「……アンタ、花守はなもりって子にもそうやって無防備晒してるんじゃないでしょうね?」

『無防備……? や、そもそも花守はなもりさんとは通話したことないですけど』

「だったら……まあ、いいけど。あんまり風呂上りを女に晒しちゃダメだから」


 とりあえずスクショ取った。

 せっかくだから録画もしてしまおう。

 やましい気持ちや下心からではない。

 いつか癌に効く薬になるかもしれないからだ。

 というか多分現在進行形で効いてる。


『無防備っていうなら、その、美羽みうも……』


 スマホをベッドに立てかける。

 画面の先では男が視線のやり場に困っている。


(……アタシのカラダで興奮してる?)


 理解すると下腹部がじゅっと熱を帯びた。

 言葉以上に態度が、自分の容姿に好意的感情を持ってくれていると示してくれていた。


 1:1000。

 男のほとんどは性欲が枯れていて、どれだけ自分磨きしたところで返ってくる反応は希薄。

 そんな中、意中の相手が自分の見た目を肯定してくれる。

 これほど恵まれたことは無い。


「ねえ、もっと見たい……?」


 口をついて、そんな言葉が出た。

 話が脱線していっている気がしたけれど、ビデオ通話した理由は彼の顔が見たいから。

 なにひとつ間違ってなどいない。


「いいよ? ゆうなら。アタシの全部見せてあげる……だから、ね?」


 胸元に指をかける。

 電子の海を隔てた向こうで、男の鼻が膨らんだ。

 かわいい。

 自分だけのものにしたい。


『あの……美羽みうさ、酔ってる?』


 ……そっか。

 まだ、そういう関係に踏み込みたくないか。


 しん、と。寂寥が積もる景色が脳裏に浮かぶ。


 だから彼女は、無理に笑った。


ゆうがそう言うなら、待つよ。アタシ。

 それがアタシを大切に思ってくれてるからだって、アタシは知ってるから)


 でも、いつかその気にさせてみせるよ。

 そう胸に刻みこむ。


「うん。ちょっと、あてられちゃったかな。水飲んでくるね」


 ビデオ通話のカメラだけを切り、ミュートにして息を整える。


(大丈夫。この反応は童貞。まだ他の女に手を付けられていない。守らなきゃ、アタシが。ゆうの純真さを守れるのはアタシだけなんだから)


 だから、今はこの性欲を忘れよう。

 大丈夫。相手は電子情報だ。

 想起されるフェロモンは記憶が生み出したまやかしだ。

 鋼の意志を持てば、性欲になんて負けない。


「おまたせ。それで、アタシとのデートの時のコースなんだけど――」


 あっ、ダメ。

 真剣に話を聞いてくれてる様子だけでカラダの心から疼いてしまう……っ!


(やっぱ、ダメ、かも)


 バターのようにとろける理性と時間。

 朱鷺川ときがわ美羽みうは拷問のような、しかし幸福の時間を過ごす羽目になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る