第12話 風【女バスの煩悩】

 どどどど、どうしてこうなったの⁉


 お兄さんにバックハグをされ、沸騰寸前の脳みそで必死に考える。




 練習が終わり家に帰り、軽食を済ませたらすぐに公園に向かった。

 慌てた様子で自主練に向かうウチを母は不思議がっていたけど、理由は明かさない。

 大学生のお兄さんとの1オン1が楽しみなんて、言えるわけがない。


 もしかしたら、もうコートにいるかも。

 そんな期待を胸に足を運んだけれど、お兄さんはいなかった。


 ま、しょうがないよね。

 そもそも、今日も来てくれるなんて約束してない。

 ただ、来てくれたら嬉しいなってだけで。


 うん。やっぱり、今日は調子がいい。


 練習の時からそうだった。

 放ったシュートが指先から離れる瞬間にはゴールする確信が持てる。


 お兄さん、来てくれないかな。

 今日はベストパフォーマンスの日なのに。




 もしもウチが勝てたら、なんて浅はかだった。

 お兄さんのドライブは鋭く、静動変幻自在にフィールドを駆り、天を舞った。


 無茶だ。

 そう思ったシュートはしかし、振り返ればゴールに突き刺さっている。


 負けた。

 負けたんだ、ウチは。


 ゆっくりとその事実が圧し掛かり、理解すると同時に感情の蓋がはじけ飛ぶ。


 声を上げて泣き叫んだ。


 終わる。終わってしまう。

 いや終わってしまったんだ。


 負ければ、暗くなる前に家へ帰る。

 勝負の前に取り決めた約束。

 もう二度と、お兄さんとは戦えない。


 負けちゃダメだったのに。

 勝たなきゃいけなかったのに。


 この夢のような時間は、直に覚めてしまう。

 嫌だ。

 もっとずっと一緒にいたい。

 教わりたいことも、知ってほしいこともいっぱいあるのに。


 あぁ、本当に、どうして……


うたッ!」


 名前で呼ばれてドキリとした。

 次の瞬間にはどうでもよくなっていた。


(は……え……ちょ⁉ ちょっとお兄さん⁉ いきなりそんな大胆な、え⁉)


 思考がバーストする。

 悲しみとか苦しみとか青い感情がすべて押し流されて、桃色の欲望一色に染め上げられる。


(む、胸板硬ぁ……っ、腕、カチカチ……、これ……っ、ダメっ! 壊れるっ、理性ハジけ飛ぶっ)


 下腹部がキュウと締め付けられる。

 膝が急に頼りなくなり、地面を掴んでいる感覚が消えていく。

 天にも昇るような夢心地と相反するように崩れていく体を支えようと、ギュッとお兄さんにしがみつく。

 その分だけお兄さんは強く抱き返してくれる。


(あっ、あ……っ! しゅごっ、こりぇしゅごぉ)


 頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 箸を突っ込んでかき回されたように思考がまとまらない。

 ただただ快楽の波に襲われる。


「落ち着いたか?」

「む、無理……」

「そうか?」


 こんな、こんな風に抱きしめられたら、ダメになっちゃうっ。

 自分の中の性欲が、理性で抑え込めなくなるっ!


「今は、ちょっとだけ、このまま……ダメ、かな?」


 息も絶え絶え。

 自分の口から出た言葉に、羞恥で顔が真っ赤に染まる。


(お、おっわ、おわわっ⁉ ウチおねだりした⁉)


 バカ、バカ、バカ!

 自分に女としての魅力が無いことなんて気づいてるのに!

 だからバスケで気を引こうって決めたのに!

 どうして大事な場面でメスを出す⁉


 今からでも遅くない。

 どうにか体裁を取り繕って――


「オーケー。俺はここにいるから、安心しろ」


 ふっぎゅぅぅぅぅぅぅ⁉

 ちょ、耳元で、そんな……反則……っ!



「お騒がせしました。もう大丈夫です」

「え、でもまだ顔赤……」

「大丈夫ですッ!」

「あ、はい」


 照れてなんていません!

 ウチはもともとこういう顔色なんです!


「お兄さん……約束の方、なんですけど」


 息をのむ。緊張が全身を襲う。

 言えるのか? ウチは本当に言えるのか?

 こんな図々しいお願いを。


(ううん。言わずにこの関係が終わるくらいなら、言って続く可能性を追いかけるんだ!)


 覚悟は決まった。

 ギュッと拳に力を込めて、お兄さんの目を見て話す。


「時間が許す限りでいいんです。お兄さんが、ウチと一緒に練習してくれませんか?」

「……俺?」


 こくこく、と首を振る。


「ウチが夜遅くまで一人で練習するのを心配してくれてるのは分かったんです。でもやっぱり、ウチはもっとバスケがうまくなりたい……!」


 お兄さんのように。

 ううん、お兄さんの隣に立つために。


「お兄さんと一緒なら、心配は無いですよね?」

「えぇ……いや、それはどうだろう」


 お兄さんのリアクションは渋かった。


(まあ、そうだよね……)


 あと5年早く生まれていたら、悩殺ボディでお兄さんを誘惑できていたかな。

 難しいかもなぁ。

 だって自分は、こんなにもちっぽけだ。


 あーあ、儚い、恋、だったなぁ……っ。


「……うたっ」

「へ? あっ」


 ふと顔を上げると目の前にボールが迫っていた。

 慌てて手を出して受け止める。


「俺はもう中体連もインハイも出られねえけどさ、夢を託すことはできる」

「……え?」


 それって、もしかして、つまり。


「俺の特訓は辛く厳しい。それでも付いてこれるか?」


 お兄さんの瞳が、こちらを覗いている。

 穏やかに、優しく、だけど力強く。


「……ッ! はいッ!」

「いい返事だ。じゃあ俺のとっておき、レッグジャブから教えてやるよ」


 それからだ。

 お兄さんとの秘密の特訓が始まったのは。


「そうそう。最初のレッグの重心移動は相手にフェイクだってわかるくらいでいい」


 やばい……これ、やばい。

 ウチ、今めちゃくちゃカッコいいお兄さんとマンツーマンでレッスンしてもらってる。

 こんなエロ漫画みたいな現実あっていいの?


「バスケは表現力だ。意図を悟らせるのも隠すのも両方扱えれば、戦術は活殺自在だ」


 違う違う。

 そんな煩悩にとらわれてる場合じゃない。

 一刻も早く実力をつけるんだ。

 鍛えがいのあるやつだ。

 そう思わせて、ずっと面倒見てもらうんだ。


「おっ」


 風を掴んだ。

 お兄さんの動きを読み切った体が、フリーになったゴールへ駆け抜ける。


 ……ああ、気持ちいい。


「たはは、もう物にされちゃったか。やっぱりセンスあるよ、うたは」


 参ったなと笑みを浮かべるお兄さん。

 その表情に、ついドキッと胸が高鳴る。


 ……決めた。


「お兄さん!」

「ん?」

「ウチはもっともっと強くなります。お兄さんの技で、必ず全国に進みます。だから、その時は」


 ぽん、と。

 頭に手をのせられる。

 びくっと身を縮めたけれど、すぐに安心感に包まれる。

 緊張が体から抜け落ちていく。


「分かった。バイト代溜めて、必ず応援に行くよ」

「……約束!」

「ははっ、約束するよ」


 闘志が燃える。

 成長した自分を見てもらうんだ、全国の舞台で。


 でも、もし叶うなら。


(この時間が、永遠に続けばいいのにな)

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