第5話 花【学科の束縛系】

 道端をひとり歩いていた花守はなもり咲桜さくらが、大学の最寄り駅近くの高架下で、その男に声をかけたのは必然だった。


(な、なんてカッコウしてるの⁉)


 暦の上では夏となり、夏の兆しがみえる頃。

 薄着も珍しくない季節ではあるが、それでも男のコーデは目に毒だった。


(鎖骨が思いっきり見えちゃってるよ⁉)


 1:1000。

 それがこの世界における、勃つ男と勃たない男の比だった。


 そう。

 この貞操観念逆転世界における寝取られセーフティは、男女比そのものではなくED率が関係していたのだ。


 そんな世界だったので、種の保存のため女性は史実よりある能力が進化している。


 その能力とはすなわち――


(ふぁ……っ♡)


 思わず口と鼻を手で覆い隠す。

 頭がくらくらと揺れる。


(なにこりぇ……フェロモンすっご……っ♡)


 ――男性の精力を嗅ぎつける副嗅覚系である。


 花守はなもり咲桜さくらにとって未知との遭遇だった。

 ここまで強烈なフェロモンを発する男を咲桜さくらは知らない。


 下腹部がじゅっと熱を帯びる。

 理性が炉に放り込まれた鉛のようにドロドロと崩れだし、内から抑えがたい衝動が牙をむく。


(だ、ダメダメ! 強制わいせつ罪でつかまっちゃうよ!)


 ぶんぶんとかぶりを振って、その場を後にしようとした。

 思えばそれが、最後に残った理性の糸だった。


 立ち去ろうとする咲桜さくらの目の前で、男が急に頭をコンクリート柱に叩きつけ始めたのだ。


 刹那、脳裏ではじき出される完璧な論理。


(怪我してる……から、助けなきゃ……!)


 人助け。

 異性に声をかける正当性を手に入れた咲桜さくらの理性は、瞬く間に本能を前に敗れた。


 そして気づく。


(あ、れ? この人同じ学科の……)


 完全にノーマークだった。

 どうしてこれまで、こんなにも強いフェロモンを発する異性を見逃していたのだろう。


 名前は確か……


「わわっ、真々田まさなだくん⁉ 何してるのっ⁉」


 男が振り返り、咲桜さくらは胸がときめいた。


 この世界の男は性欲が希薄だ。

 性腺が刺激されるハードルが史実より高く、結果として中性的な顔立ちになる傾向が強い。


 だが、そこにいたのは男だった。

 雄と言い換えてもいい。


(す、すごい……! ハリウッド俳優⁉ いったいどんな半生を送ればこんな顔立ちになるの……⁉)


 生唾があふれる。

 顔が赤くなる。

 声をかけるとき、あたかもたった今通り掛かりましたよという体を装ったことは見破られていないだろうか。

 自分は挙動不審になっていないだろうか。


 様々な思想野望が脳内で渦巻いている。

 その中で覇権を握ったのは、チャンスと叫ぶ性欲だった。


「おでこから血が出てるよ! ほら、見せて」


 ひょいとつま先を伸ばし、顔に顔を近づける。


(ふぁぁぁぁぁ♡ すごっ♡ 顔が近いよぉぉぉぉ♡♡)


 下心を表に出さないように出さないようにと心がけるが、どうしても口元が緩んでしまう。

 心臓がドキドキを叫んでいる。


 浮かれていた。

 だから、彼が瞳に涙を溜めているのに気づくのが遅れた。


「わわっ⁉ ご、ごめんね? 急に気持ち悪かった、よね?」


 急速に肝が冷えていく。


(嫌われた嫌われた嫌われた)


 振り返ってみてもキモい。

 今まで話したこともなかった相手が急に声をかけてきて、怪我を口実に顔に触れる。


 踏み込みすぎた。

 とにかく、どうにか弁明を――


「違うんだ、違うんだよ……俺、嬉しくて」


 そう言って、男は微笑んだ。


(あああぁぁぁ! 好きっ! 好きぃぃ!)


 こんな下心満開の相手にまで気遣いできるなんて天使が過ぎるよ⁉

 普通の男なら露骨に嫌悪感を示す場面なのに!


 えへへぇ。

 ダメ、無理。

 こんなの笑みを隠せない……っ。


 こんな素敵な男性、世の女性が放っておかないよ!


 ……ん?


 そうだよ。

 こんな魅力的なのに彼女がいないわけなくない?


「で、でも……真々田まさなだくんってカッコいいし、その、彼女さんとかの方がうれしかったんじゃ……」


 ……嫌だな。


 絶対にわたしのほうが好きなのに。

 わたしのほうが彼を幸せにできるのに。


 あは。

 そうだ。

 彼女がいるなら、別れさせちゃえばいいんだ。

 そうすればわたしが彼の一番になれる――


「ははっ、そうだね。彼女がいてくれたらよかったんだけどね」


 ――呼吸を忘れた。

 言葉の意味を理解するのに時間がかかった。


(え、いない……? フリー? 彼女いないの?)


 意味が分からない。

 どうして、これだけ強烈なフェロモンを発し、性格も顔も女性を堕とすためだけに生まれたような男を世の女性は放置しているのか。


(よ、よくわからないけど、チャンス……⁉)


 よし、自分が彼女のポジションに収まろう。

 大丈夫。

 真々田まさなだくんはわたしだけ見ていればいいから。

 わたしが絶対、君を幸せにするから。


「実は今度の日曜日に、サークルのみんなと遊ぶ約束をしてるの。それで、その、わたし、彼氏いないのに、彼氏がいるって言っちゃって」


 嘘だ。そんな話していない。

 こんな嘘を、だけど真々田まさなだくんは真摯に受け止めてくれて、ちょっとだけ罪悪感を覚える。

 でも、ちょっとだけ。


 他の女に取られるくらいなら、始まりが嘘からだったとしても。


「恋人のフリだけでいいから――! わたしと1日だけ、付き合ってください!」


 まずは小さな要求から。

 最終目的地はゴールイン。

 その布石を、今ここで打つ。


 Linearリニアも交換して捕獲準備は完了。


 さよならを告げる彼の背中を見つめる。


(――逃がさないからね?)


 唐突に男が振り返る。

 内心で焦りが生じる。

 ふと脳裏をある言葉がよぎる。


 男は視線に敏感。


 ……もしかして、うなじを見てたのバレた⁉


「どうかしたの? 真々田まさなだくん」


 邪な考えを見透かされないように、笑顔の仮面をかぶって話しかける。

 バレてませんように。

 嫌われていませんように。

 典型的な処女的思考を巡らせる。


「あ、いや。もし怪しい人に声をかけられたら、遠慮なく頼ってね。絶対に……駆け付ける」

「~~ッ⁉ ひゃ、ひゃいっ」


 ちょ……、急にそんな、え⁉

 手なんか握っちゃって……


(反則だよぉ……)


 胸が、高鳴っている。

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