ミュラーリヤーの後悔

ロキ-Loki

ミュラーリヤーの後悔

「佐倉さん」

「……佐倉」

「佐倉彩さん!」


 聞き慣れてきた声が響く。

 左肩をちょんちょんされ、覚醒した。

 眼を見開くと、前の席のクラスメイトが「ヒッ」と悲鳴を上げた。


「あ、あの……もう授業が始まるからって……先生が」


 恐れ恐れ呟くと、その女子生徒は目を合わせないようにさっと、体ごと正面を向きなおした。


 教壇では担任の先生が纏まったプリントを、トントンと揃えていた。

 黒板上の時計を見る。

 どうやら前の授業で寝てしまったままに次の授業を迎えたようだ。

 今年、高校2年生から担任になった50代の禿げた山田先生が居るということはホームルームの時間なのだろう。


「京香、かわいそー」

「おい、あんま大きい声出すなよ。聞かれたらどうすんだ」

「あんた男なのに何あんな奴にビビってんのよ」

「何回言えば分かんだよ。何かあっても俺は知らねぇからな」


 クラスのヤンキー的存在の男子生徒と、クラスカーストのトップに居る女子生徒のこそこそ話が耳に入る。


 左手の指で首をなぞると、びっしゃり汗をかいていた。


 覚えていないが、またあの夢を見ていたのだろう。


 悪夢ではなない、過去の現実を。



 保育園の友達だった楓ちゃんのお父さんはみんなのヒーローだった。

 ヒーローといっても日曜朝の戦隊ヒーローや仮面ライダーなどではない。

 楓ちゃんのお父さんはこの街を守る警察官だった。楓ちゃんを保育園まで迎えに来るときはいつも警察官の制服を着ていた。


「楓!」


 保育園の入り口で笑いながら手を振る楓ちゃんのお父さんを見ると、楓ちゃんだけではなくみんな駆け寄った。

 私もその一人だった。

 楓ちゃんのお父さんは例外なくみんなを抱っこしてくれた。 

 私は残念ながら勇気が出なく、一歩外から眺めているだけだったが、一度だけ抱っこしてもらったことがあった。

 

 その日は外で6人で遊んでいた。

 いきなり楓ちゃんが、笑顔で尋ねてきた。


「みんなのパパってどんなお仕事してるの?楓のパパはお巡りさん!」

「分かってるよぉ」


 あはは、と笑いが起きる。


一人の男の子は「お家作ってる」

一人の男の子は「学校の先生」

一人の女の子は「ケーキ屋さん」

一人の女の子は「飛行機の運転手さん」


 みんな自慢げに答えた。


「彩ちゃんのお父さんは?」

 

 待ってました!といわんばかりに、私も自慢げに答える。


「彩のパパは『お茶屋さん』!」

 

 私は父親から職業を聞いたことはなかった。

 だけど一緒に生活していれば分かる。


 前にお父さんが透明の袋に入ったお茶っ葉を何袋も持っていたのを見かけていた。

 その時に『お茶屋さん』だと気づいた。


「へー、彩ちゃんのパパ、お茶売ってるんだー!」


 楓ちゃんが目を輝かせるが、他の4人はあまり反応が良くなかった。

 他のお父さんに負けられないと思いお父さんの凄さを語る。


「彩のパパの体にはいたくさんの色で絵が描いてあるんだから!」


 大きな声でそう言うと、焦ったように女性の先生が二人駆け寄ってきた。


「はーい、お喋りじゃなくて体を動かそうね」

「はーい!」


 みんなは喜んで駆け出したが、話の邪魔をされたことに不満を抱いた私は眉を上げながら振り返る。

 すると、先生二人とも鋭い目つきで私を睨んでいた。

 冷たい眼光でビクッと体が震える。

 まるで私を認識していないかの様子で、そのまま去っていった。


 それから何日も経っていない日の夜。

 雷と雨がすごく、夜遅くになっても布団の中でなかなか眠りにつくことができなかった。


 こんな時にお母さんが居れば……そう思ったが、わたしにお母さんは居ない。

 私が小さい頃に亡くなったそうだ。顔も声も知らない。


 とうとう我慢できずに襖を開け、お父さんが帰ってきていないかとリビングを確認するが、明かりは灯っていなく閑散としていた。

 襖を閉じ、布団の中に戻るといつの間にか眠っていた。


「おい誰か寄越せ!サツにバレた」


 襖を閉じたときに微妙な隙間が空いており、その隙間から細い光が伸びていた。

 お父さんが帰ってきたんだ、と隙間からリビングを覗くと、雨でびしょびしょに濡れたお父さんが声を潜めながら携帯電話を耳に当てていた。

 そこからどんな会話をしていたかは分からない。欠伸をこぼし、眠気にあらがうことなく私は布団に潜り、お父さんが帰ってきたことによる安心感からかすぐに眠りについた。


 次の日保育園に行くとなんだか慌ただしい雰囲気が漂っていた。特に先生たちの様子がおかしかった。

 お昼の時間、お弁当を食べていると、近くに座っていた一人が口をもぐもぐさせながらこう言った。


「今日の朝ママに聞いたんだけど、楓ちゃんのパパ死んじゃったんだって」


 すぐに先生が制止し、会話になることなくお開きになった。


 それから2週間、楓ちゃんは一回も保育園に来ることはなかった。


 楓ちゃんのお父さんはナイフで刺され、亡くなってしまっていた。

 2週間後、楓ちゃんがお母さんと共に保育園に別れを告げに来たその時までには、そのことしか知らなかった。


「今までお世話になりました」


 楓ちゃんのお母さんが頭を下げる。先生たちは何と声を掛けていいのか分からないのか、戸惑いながらも倣うように頭を下げていた。

 二人とも目が真っ赤に充血していて憔悴しきっている様子だった。

 楓ちゃんと視線が合うことは一度もなく、楓ちゃんも誰とも声を交えることなく、この街を去っていった。


 そして、私は今高校2年生になっている。窓の外の景色は、新緑の葉が色づき始めていた。

 幼稚園の頃だからといって、あの日のことを忘れることはない。いや、あの日までは忘れていた。小学4年生のあの瞬間から、記憶から一度も離れることはなくなった。


 お友達紹介を授業ですることになり私は悩みに悩んだ。

 私は小学校に入ってからほとんど友達を作ることができず、照会できるような友達なんていない。

 孤立していたせいか、3年生の時には男子生徒、女子生徒どちらからも、いじめられるというか、からかわれていた。


 最初は担任の若い女の先生も見て見ぬふりをしていた。

 

 だが、1年もしないうちにいじめがピタリとなくなった。正確には、私に矛先が向かなくなった。


「大丈夫!?嫌なことがあったらすぐに先生に言ってね。先生に!」


 家庭訪問があった直後から、先生は隙があったら私にこう言ってくるようになった。

 先生に言ってねというのは、裏返せば父親には絶対言うなということは直接言われなくても察することができた。

 家に来た先生が、私の隣に並んで座っているお父さんを見たときにどんな表情をしていたかは覚えていない。

 ただ、次の日から態度が急変したことは覚えている。そして、その日から私は完全にクラスから孤立した。


 友達紹介で唯一頭に浮かんだのが、保育園の頃の一番の私有である楓ちゃんだ。

 あの事件があった後、楓ちゃんはお母さんの実家に引っ越していたので、一緒の小学校には通っていない。

 懐かしさを覚えた。一緒に学校に通えていればどんなに良かったことか。


「え?」


 その時、脳内で何かが繋がった。赤い糸と黒い色が交わりあい、蝶々結びを形成していく。

 休み時間だったので教室を飛び出した。

 向かうのはパソコン室。

 パソコンの使い方なんて碌に分からないが、授業で2,3回使ったk十があるので、インターネットで検索する程度ならできる。


 人差し指で、楓ちゃんの苗字、警察官、事件というワードを入力し、検索した。

 一番上に出てきた記事を開き、マウスホイールをくるくると回す。

 私は否定したかっただけだ……だが。


「私のお父さんが殺したんだ」


 まさか自分の父親が人殺しをするなんて……

 

 犯人は26歳。男。暴力団関係者。薬物の取引を警官に見られたことで刃物で刺し、有罪となっている。

 

 雷雨の夜の記憶が鮮明に脳内再生され、確信した。

 あの電話は、身代わりを要求していたのだと。


 高校2年生になった今でも父親の職業は知らない。

 ただ、人殺しということは分かる。

 当時、先生はヤクザとでも思っていたのだろう。腕は木の幹のように太く、体はタトゥーだらけ。先生の前でも堂々と煙草を吸っていた。


 私の父親は人殺し。そして私は人殺しの父親に育てられ高校2年生まで生きている。罪に問われる仕事で稼いだお金で育てられてきた。

 何故、悪人の父親はのうのうと生きていて、ヒーローだった楓ちゃんの父親は死んでいるんだろう。

 何度も何度もそう思いながら生きてきた。

 いっそのこと自分のことを虐待してくれればいいのに。そう思ったことも何度もあった。

 だが残念ながら父は私に全く興味がない。


 朝目覚めて学校に行くために玄関のドアを開け「いってきーます」と言っても、反応はない。

 ドアを閉め、鍵をかける。無人の家に鍵をかけるのは当然だ。


「ただいまー」


 リビングに人が居た形跡はあるが、何処にも人はいない。

 私が学校にいる間に父親は家に帰ってきており、わたしが帰宅する頃には家を空けていることがほとんどだ。

 たまに遭遇するが、声を掛けられることはない。通帳をリビングのテーブルに置いているだけで、確信したあの日から会話なんて碌にしていない気がする。


 いや、一度だけあったか。

 私が中学校3年生の時。高校には進まず、家を出て自分で働き一人で生きていこうと思っていた。

 夕食を食べ、台所で片づけをしている時だった。

 いつもより早く帰ってきた父親にビックリしたのを覚えている。あの時間帯に帰ってくることなど初めてだった。靴を脱ぎそそくさと部屋に向かう。いつも通りの行動に、私の意識が逸れた瞬間だった、歩みを止めた父親は呟いた。


「高校には行け・・・金なら気にするな」


 振り返ると、背中越しに父親は部屋に入って行き、襖を閉じた。

 ふざけんな…犯罪に染まった金で高校に行けるわけないだろ!そう怒鳴ってやりたかった。犯罪者の言うことなんて聞くわけないだろ!そう怒鳴ってやりたかった。だが、私は言い返すことなく近くの高校に通っている。


「私もおかしいんだろうな。犯罪者の娘なんだから仕方ないか」


 中卒でも働こうと思えば働けるのに、それでも私は父親の汚いお金に頼っているのだ。

 あまりにも非常識で、良くないとは分かっている。通いたくても通えない貧困の家庭がある中、私の家は別に貧乏ではない。通帳にも7桁の数字が刻まれている。

 あまりにも不合理な社会に私は埋もれている。


 言い訳のようだが生活費は自分で賄っている。テーブルに置いてある通帳には一切手を付けず、ケーキ屋でほぼ毎日アルバイトをしている。

 人殺しの娘がケーキを作っていることが客にバレたらどうなるのか…

 私のせいで店がつぶれてしまうだろうな…

 それでも生活をするには仕方がない。



「もうすぐで、修学旅行だからな。今日は班分けだ」


 回想に浸っているとさっき起こしてくれた前の席の生徒が手を震わせながらプリントを渡してきた。私は一番後ろの席なので回す必要はない。

 クラス中でざわめきが発生する。


「修学旅行か……」


 ボソッと呟いた。

 わたしには縁のない話だ。

 どこに行くのかもわからない。修学旅行にいくらお金がかかるか知らないが、生活するのも一杯一杯の私に、修学旅行に行くという選択肢はない。

 クラスメイト達が教室内を自由に動き回りだした。大抵は仲のいい者同士で班分けするのだろう。私は後ろのドアから教室を出た。

 誰も気に留めることはない。


「おい!佐倉…」


 先生が駆け寄ってくる。


「その…なんだ…修学旅行のことだが…」


 周囲を気にして私にしか聞こえない声量で呟く。騒いでいるのだから普通に話しても気づかれないのに抜け目がない。 

 私は不意に、にやけてしまった。先生は私が貧乏だということに気づいている。まぁクラスメイトもほとんど知っていることだが。

 この先生はすごく優しい人だ。毎回断るのだが、たまに廊下ですれ違うと声を掛けてくれて、相談に乗ってくれようとしてくれるほどに。


「大丈夫です。私は行きませんから」

「いや、そうじゃなくて…学費と一緒に修学旅行の費用もお父さんがすでに払っているんだよ」


 脳が一瞬理解できず、「え?」と声が漏れた。


「こんなことは珍しいんだけどな…というわけで佐倉も班分けに参加しろ。良かったじゃないか。人生で一回きりの思い出だ」


 なんで……?

 疑念でいっぱいになった。

 

 そういえば、中学校の時も修学旅行に行っていた。義務教育とはいえ、旅費は掛かったはず。


 まぁ、高校で必要なお金の中に修学旅行分のお金も含めたんだろうな。そんな疑問に思うほどでもない。

 何故なら私に興味のない父親が修学旅行の日程も金額も知るはずがないから。


 そのまま父親に顔を合わせることなく修学旅行を迎えた。

 神の意思が働いているかとも思ったが、そもそも顔を合わせることの方が稀なので当然ともいえる。


 今日は2日目の自由行動日。

 班のメンバーとも行動する予定もなく、友達もいないので、私は一人で集合予定地である京都駅の中をうろついていた。

 特に観光したいところもないし、移動も面倒くさい。最初からここに居て時間を潰そうと思っていた。


 そこまで人は多くない。観光名所の京都といっても平日の昼間だからだろう。お金を使う余裕もないのでただ歩くだけ。お小遣いという概念もない。班のメンバーは明日のテーマパークで何かの杖とローブ?を買うために今日は出来るだけ節約しないと、と言っていたが一つも分からない。


 こんなことだったら京都になんか来なくてアルバイトしていればよかった。あの人がお金さえ出していなければこんなとこに来る必要なかったのに……。


 そんなことを考えていたら、ドンッと衝撃が前から襲ってきた。

 一歩二歩とふらつく。人とぶつかってしまったようだ。


「あ、ごめんなさい」

「こちらこそすいません」


 慌てたように落ちた参考書や教科書など学生らしい荷物を拾っている。私も拾うのを手伝い、手渡す。


「ありがとうございます」


 目と目が合った。私の通っている高校とは違うが、制服を着ている普通の女子高生……。


「楓ちゃん?」


 不意に声が出てしまって、ハッと口を両手で隠す。

 何を血迷ったことを言ってるんだ。

 そんな偶然あるわけない。父親のことを考えていたせいで頭の中に浮かんでしまっただけだ。

 そもそも最後に顔を見たのは保育園の頃。高校生にもなれば顔も変わっているだろう。恥ずかしくなり、すぐにその場を立ち去ろうと背を向ける。


「彩ちゃん?」


 背中に掛けられた声ですぐに振り向く。


「え…楓ちゃんなの?」


 保育園の頃の親友、平松楓と10年以上ぶりに再会した。


「久しぶりだね!彩」

「本当久しぶり…」


 感動の再開を祝しという立派な名目を突きつけられ、駅内の喫茶店に入った。

 テンションが高いのは幼稚園の頃から変わっていない。顔は勿論成長しているが無邪気な笑顔も変わっていない。ストローでオレンジジュースを飲みながら、修学旅行に来てよかったとちょっとは感じた。


 高校の話を一方的に聴いていたら、楓がハッと気づいた顔をして手を合わせると頭を下げた。


「ゴメンね!保育園の頃は別れを言えなくて!」


 息が止まり、ストローを流れるオレンジ色の液体が停止する。


 そうだ、感動の再開などではない。楓のお父さんは私の父親が……殺したんだ。


「どうしたの?顔真っ蒼にして・・・」


 楓が心配そうにのぞき込んできた。天真爛漫だけかと思ったが、小悪魔的な雰囲気もあるかもしれない。妙に色っぽかった。


「う、ううん、大丈夫。それより楓ちゃん京都に引越ししてたんだ」

「ちゃん付けじゃなくて呼び捨てしてよ!そうそう。お母さんの実家が京都だからね!そっか、それも言ってなかったか」


 言わないと……言わない……心の中で叫んでいるせいで楓の口は動いているが、一切鼓膜を通過してこない。


 真実を言わないと楓は一生違う相手を恨んで生きていかなければならない。

 こんなに笑顔だが、楓は私とは違い父親のことが大好きだったはずだ。心に開いた穴は埋まっていないと思う。

 だが声がでない。手は震え、氷とグラスが触れる音が大きくなっていく。


「ほ、本当に大丈夫?彩、調子悪そうだよ」

「う、うん、疲れがたまっちゃったかな。慣れない旅行だし」

「そっか!彩は修学旅行中だもんね。あれ?そういえば友達は?彩にも紹介してよ!」

「いや、友達って言えるような人は…あまりその…人付き合いが」


 楓は一瞬目を丸くし、パチパチと目を瞬く。どうやら察してくれたようで。


「じゃあ楓が案内してあげる!」

「え?」

「京都歴長いんだからまかせて頂戴!」


 胸をバンッ!と叩き、私の手を強引に引っ張ると店を出た。


「やっぱ京都って言ったら寺巡り?でもそれは団体行動で行くか」


 言わないと…言わなければ…目の前に居るんだ。今伝えなければ絶対に後悔する。

 そう分かっているのになんで……。

 そうか、失望されたくないんだ。

 幼稚園でお父さんの仕事を聞かれた時と同じ。私は全てが分かっている今でも父親を庇っているんだ。

 

 もう何分歩いたかも分からない。気づいたら橋の上に居た。


「楓ちゃん!」

「ん?どうしたの?」


 振り返った楓は風でなびく髪を手で抑える。

 直視できなくなり、顔を伏せるが、流れに逆らって止まる私たちを横目に、人が流れていくのが分かる。

 声が震える。膝が震える。

 神に祈っても、この震えは止まらない。


「あ、あの…楓ちゃんのお父さん……」

「パパ?パパがどうしたの?」


 楓ちゃんの表情が一瞬暗くなった気もしたが、すぐに元通りになった。

 高鳴る心を抑え、覚悟を決める。


「楓ちゃんのお父さん殺したのは、捕まった犯人じゃなくて私の父親なの!私の父親が身代わりとして違う人を犯人に仕立て上げたの!」


 言った。言ってしまった。

 どんな表情をしているだろう。

 なんて言われるんだろう。

 罵詈雑言で済むくらいならいい。


 繋がっていた手が離れた。

 心臓の鼓動が破裂するほどに早くなる。


「彩ちゃんのパパが?」

「……」


 何も言えない。許されるなら今すぐ走って逃げだしたい。だけど私は謝罪しなければならない。私の父親が犯した罪は娘である私も同罪なのだから。


「本当に、ごめんなさい!いくら謝っても許されることではないけど!本当に…」

「何勘違いしてんの?」

「え?」


 楓ちゃんの天真爛漫だった声が一気にどす黒くなり、顔を上げる。

 そこには1分前の、楓は居なかった。

 私を見る目に怒りの感情が湧いていない。

 『サイコパス』パッと浮かんだ言葉はそれだった。


「いや、彩が何言ってるか分かんないんだけどさ、パパ殺したの私だよ」

「は?」


 声が出ない。脳天を直接殴られたかのような衝撃に呼吸を整え、声を震わせる。


「何…言ってるの?」

「いやこっちのセリフなんですけど。急に何を言い出すかと思ったらどんな勘違いしてたの?今まで」


 柵にもたれかかると「ちょっと来て」と手招きされる。ぶるぶる震える足を必死に動かす。ほとんど空間が無くなるほど近づくと楓の唇が耳に触れる。


「なんで私がパパを殺したか知りたい?」


 私は息を呑むだけで何も言葉を発せない。


「私が処女失ったのいつだと思う?」

「何を聞いて……」

「保育園」


 声にならない絶叫が起きる。そんなはずは…その後に続く言葉は予想できるが、想像できない。


「分かった?初体験はパパ。パパは幼稚園児だっていうのに私を犯してたの。こういうのなんて言うんだっけ?近親壮観?性虐待?」


 楓ちゃんのパパと言えばヒーローだったはずだ。警察官として笑顔で街を守るヒーロー……。


 抱っこされた時の光景が脳裏をよぎり、触られた脇腹を反射的に手で抑える。


「私も幼稚園児だっていうのに感じちゃっててね…まぁ此の親にして此の子ありってことかな。あの日、パパは交番の中で知らない小学生としてたの。私はパパを奪われたと思った。だから机に置いてあったナイフで刺したの。そしたら全然知らない人が犯人になってたから驚いたよね」


 夢を見ているのだろうか。世間の真実と私の真実。どちらでもない真実が今脳内を駆け巡っている。


「ああ、久しぶりに思い出したら疼いてきちゃったな」


 楓の右手が下腹部に伸びていき小刻みに震える。


「あれからパパと同じものを探したけど全然見つからない。似たような形の人もいたんだけど何が違うんだろう?やっぱ遺伝子が同じだったから相性も良かったのかな?ねぇ彩はどう思う?」

「どう思うって…楓、あんた何したか分かってるの?自分の父親を殺したんだよ」

「それあんたの父親にも言ったの?」


 心臓が縮みあがる。私は父親に言えなかった。事実は違ってもこの瞬間まで私は父親を犯罪者だと思い、糾弾することなく一つ屋根の下で暮らしていた。これが楓の言う同じ遺伝子ということなのだろうか。

 父親ではなく全くの別人の殺人者だったら?

 一緒に暮らすことなんてできるはずがない。


「言ってなさそうだね。良いじゃん、パパは私のものだったんだから。私がパパの所有物だったように。あ、そうだ。丁度いい」


 ふと何かに気づいたように、持っていたカバンをガサゴソと漁り、筆箱を開ける。楓が取り出したのは、ハサミだった。


「あの時の感触は実はこっちの方が忘れられないんだよね…パパはもう居ないからあっち方は無理かもしれないけど、人を刺す感触は誰でもいいもんね」


 何を言ってるの?

 そう思った途端、全身を貫くような気配に鳥肌が立つ。

 殺気……。


「本当はパパを殺したっていうことになっている犯人が刑務所から出てきたらやろうと思ってたの、復讐として。そうすれば罪も軽くなるでしょ?いやぁ、ずっと我慢してきたんだよね。でも良かった、あんたの父親が殺したって言ってくれて……これで敵討ちが出来る」

「何を言って…あんたの父親を殺したのはあんた……」


 そこで気づいた。楓が何をしようとしているのか。


「何でパパを殺したの!?どうして今まで黙っていたの!?今まで楓はずっと違う犯人を恨んでいたの!?酷い……親友だと思っていたのに!友達の父親に殺される気持ちが分かる!?」


 耳が痛くなるほどの金切り声に反射的に距離を取る。楓の唇の端が二ヤリと上がった。壊れた人形のように、ハサミの先端を振り上げ、私めがけて突っ込んできた。


「ああああああ!」


 左肩を激痛と燃えるような熱さが襲う。衝撃により体がよろめきそのまま倒れた。


「よくもパパを!よくもパパを!」


 悲痛でありながら歓喜に満ちた声と共に、腹部に何度も何度も熱さが襲ってくる。赤い液体が霞んでくる視界に流れ込んできた。

 あぁ、これ全部私の血だ。私は虚偽の敵討ちされてるんだ。

「何で止めるの!パパの敵討ちをさせてよ!」


 ざわめきが大きくなり、衝撃が止まった。恐らく周りの通行人が止めているのだろう。

 悲劇のヒロインを。


 あぁ、お父さんごめんなさい。お父さんをずっと疑ってきて。

 走馬灯のようにお父さんの色々な顔がフラッシュバックする。そういえば、小4の時からお父さんを一方的に無視してきたのは私だった。お父さんは何度も何度も私に話しかけてくれたのに、私は……お父さんを犯罪者だと思って突き放してきた。


 雷雨の夜の日の出来事だって、いつの日の出来事なのか記憶になかった。それなのに、私はお父さんが殺人犯だと決めつけて、その日の出来事を作り上げていたんだ。


 涙が流れるたびに意識が薄れていく。

 楓の金切り声がどんどん小さくなっていく。

 私は……私は……お父さんを……。


「彩!大丈夫か?」


 お父さんの叫び声?いや、幻聴だ。京都にお父さんは居ない。それにお父さんは私のことを心配してくれたりなんてしないはずだ。

 私が一方的に突き放したんだから。


 全身の力が抜けていく。生の灯が徐々に小さくなっていくのが分かる。そよ風が吹くだけですぐに消えそうなほどまでに小さい灯だ。


 体が浮いた気がする。

 聴覚、視覚、痛覚。今必要な感覚はほぼなくなっているが、黒闇の隙間から、ぼやけて人の顔が映っている。

 わたしを一生懸命病院に運んでくれているのだろうか。

 だけど自分だからわかる……もう無理だよ。


 もし後悔が過去を変えてくれるのならば…もう一度あの日からやり直せるのならば……。

 

「お父さん……ゴメン」


 最低でもこの声がお父さんの耳に届けばいいな。

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ミュラーリヤーの後悔 ロキ-Loki @TsubasaAoSakiBi

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